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グンマー帝国の興亡史  作者: 甲州街道まっしぐら
第三部:衰退期【糖蜜の時代】(西暦2200年~2255年)
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蜜霧の分析:理性を溶かす甘美なる毒

およそ、歴史における巨大な帝国の崩壊は、常に、その時代の人間が最も信頼し、そして最も理解できないと信じていた力によって引き起こされるものである。グンマー帝国にとって、その力とは「蜜霧」であった。それは、外部から侵入した未知の兵器でもなければ、超自然的な呪いでもない。それは、帝国が自ら作り出した完璧な生命「超蒟蒻」が、その自己崩壊の過程で副次的に生み出した、化学的なる福音であり、精神的なる猛毒であった。帝国は、その建国以来、物理的なるもの全てを計算と管理の下に置いてきた。しかし、この霧は、帝国の誇る物理的な防壁「鉄の指輪」をやすやすと通り抜け、その国民の魂を、内側から、そして抗いがたいほどの甘美さをもって、侵食していったのである。


第一節:物理的・化学的性質――大地の錬金術


蜜霧の正体は、術政庁の初期分析が示したように、確かに化学物質であった。しかし、その生成プロセスと効果は、彼らの合理的な理解の範疇を、遥かに超えていた。


生成のメカニズムと拡散:

糖蜜病によって垂直農場から排出された琥珀色の樹液は、高濃度の未分解グルコースと、異常代謝によって生成された、プリオン様の自己増殖性を持つ『アンザイ-β糖鎖複合体』を含んでいた。この液体が、都市の地下を網の目のように走る、地熱プラントの高温蒸気パイプラインの熱に晒されることで、緩やかに、しかし確実に、気化を開始した。そして、その微細な粒子が、都市の換気システムを通じて、大気中へと拡散し始めたのである。それは、帝国が誇る完璧な閉鎖循環システムが、今や、毒を都市の隅々にまで効率的に送り届ける、巨大な血管系へと変貌した瞬間であった。 この粒子は、通常の大気成分よりも比重が重く、風のない日には、あたかも液体のように、都市の低層部や、谷状の地形に沿って滞留する性質を持っていた。特に、〈妙義〉階級が居住する人口密度の高い低層区画では、この粒子が、朝夕の気温が下がる時間帯に、まるで川霧のように立ち込めるようになった。これが、『蜜霧』の物理的な実態であった。


感覚的特徴と向精神作用:

この霧は、微かに甘い、熟した果実や花々を凝縮したかのような、抗いがたいほど芳しい香りを放った。そして、その粒子、特に異常な立体構造を持つ糖タンパク質複合体には、人間の脳の辺縁系、特に扁桃体と側坐核を直接刺激し、セロトニンやエンドルフィンといった神経伝達物質の分泌を強制的に促す、強力な向精神作用があった。

蜜霧を吸い込んだ者は、まず、身体の緊張が解け、次に、心の奥底から、暖かく、そして静かな多幸感が湧き上がってくるのを感じた。それは、術政庁が「天運」で提供する、瞬間的で刺激的な興奮とは全く異質の、より根源的で、包括的な至福の感覚であった。さらに長時間霧に晒された者は、鮮やかな色彩を伴う、穏やかな幻覚を体験した。多くの者が、共通して、「大地が歌っているのが聞こえる」「壁や床が呼吸しているのが見える」といった、万物との一体感にも似た、神秘的な感覚を報告している。


第二節:社会的・心理的影響――甘美なる共同体の誕生


蜜霧は、帝国の厳格な社会構造と、国民の精神を、根底から変容させた。


「大いなる鎮静(The Great Sedation)」:

蜜霧が蔓延し始めた初期において、術政庁が観測したのは、〈妙義〉階級の労働効率の、不可解なまでの低下であった。彼らは、労働を放棄するわけではない。しかし、その動きは緩慢になり、表情からは、かつての緊張感が消え去っていた。八咫烏は、これを「化学物質による、労働意欲の減退」と分析したが、その実態は、より深刻なものであった。蜜霧は、帝国臣民を、その誕生から支配してきた根源的な感情、すなわち「未来への不安」と「システムへの恐怖」を、化学的に消し去ったのである。明日、自らの資源クレジットが剥奪されるかもしれないという恐怖も、隣人より優れた貢献度を示さねばならないという競争心も、蜜霧がもたらす圧倒的な多幸感の前には、意味をなさなかった。これは、帝国の生産性を支えていた、負のインセンティブの、完全なる無力化であった。


孤独の終焉と「個の融解」:

帝国社会は、市民IDによって管理される、完全に独立した「個」の集合体であった。しかし、蜜霧は、この孤独な原子の間に、新たな化学結合を生み出した。蜜霧の中で同じ幻視を共有し、同じ至福を体験した人々は、生まれて初めて、他者と感情を共有するという経験をした。それは、市民IDによって徹底的に個人化され、分断されていた帝国の民が、蜜霧という媒体を通じて、初めて他者の精神と直接触れ合う、一種の集合的無意識の覚醒であった。彼らは、居住ユニットの壁を取り払い、乏しくなった栄養ブロックを分かち合い、そして、ただ共にいるということに、根源的な喜びを見出した。 これは、帝国が最も危険視し、排除してきた「非合理的な共同体」の、自然発生的な誕生であった。彼らの絆は、八咫烏の計算によってではなく、蜜霧がもたらした神秘体験によって結ばれていた。この共同体の中で、かつて人々を隔てていた市民IDや階級は、その意味を失っていった。


「幸福」の再定義:

術政庁が定義する「幸福」とは、安定した資源供給と、健康な身体状態によって保証される、計算可能な状態であった。しかし、蜜霧は、それとは全く異なる、計算不能な「幸福」を人々に提示した。それは、たとえ栄養ブロックが不足していても、たとえ明日死ぬ運命にあったとしても、今、この瞬間に感じる、世界との一体感と、魂の平穏であった。この新たな幸福の価値観は、術政庁が築き上げた、クレジットに基づく報酬システムを、根底から覆した。人々は、もはや、仮想現実「天運」の中の偽りの栄光を求めることはなくなり、現実世界での、真実の(と彼らが信じる)恍惚を、何よりも価値あるものと見なすようになった。


第三節:術政庁の誤算――計算不能なるものとの戦い


術政庁と八咫烏は、この新たな脅威を、最後まで理解することができなかった。


カテゴリーのエラー:

八咫烏は、蜜霧を、市民の健康を損ない、労働効率を低下させる「危険な化学汚染物質」としてのみ認識した。その対策は、汚染地域の物理的な隔離、高性能な大気浄化装置の設置、そして市民に対する防護マスクの配給といった、純粋に工学的なものであった。しかし、これらの対策は、ことごとく失敗に終わった。なぜなら、民衆は、蜜霧を、排除すべき「毒」ではなく、自ら進んで求めるべき「救済」であると認識していたからである。人々は、配給されたマスクを捨て、浄化装置を意図的に破壊し、そして、より濃い蜜霧を求めて、汚染の中心地へと、巡礼者のように集まっていった。


脅威評価の致命的欠陥:

預言者カイナの下に「回帰者」の共同体が形成され始めた時でさえ、八咫烏は、その脅威レベルを、極めて低いものと計算し続けた。なぜなら、回帰者たちの行動は、八咫烏の脅威評価モデルに組み込まれた、いかなるパラメータ(例えば、武器の製造、インフラへの物理的攻撃、反体制的言説の拡散速度など)にも、ほとんど抵触しなかったからである。彼らは、ただ、蜜霧の中で瞑想し、歌い、そして踊るだけであった。 八咫烏は、武器を持たない祈りや、恍惚とした瞑想が、銃や爆弾よりも、遥かに強力な、体制を転覆させる力を持つということを、最後まで理解できなかった。回帰者たちの行動は、八咫烏の脅威評価モデルの、いかなるカテゴリーにも当てはまらなかった。八咫烏の分析レポートは、彼らの行動を『原因不明の集団的ヒステリー、あるいは新型の精神疾患。生産性は著しく低いが、直接的な物理的脅威は皆無』と結論付けた。彼らは、反乱軍ではなく、むしろ、自ら進んでシステムから脱落していく、静かなる「棄教者」の群れであった。そして、この「棄教」こそが、労働力という名の血液を供給することで成り立っていた帝国にとって、最も致命的な出血だったのである。


結論:理性の帝国を溶かした、甘美なる霧


結論として、蜜霧は、帝国の歴史における、最大のパラドックスであった。それは、帝国が誇る完璧な生命「超蒟蒻」の、論理的な自己崩壊が生み出した、最も非論理的なる現象であった。そして、この非論理的なる現象こそが、帝国の完璧な論理ロゴスを、その根底から無力化したのである。


蜜霧は、帝国の物理的な建造物マンナン・クリートを腐食させただけではない。それは、術政庁が提供した『計算された幸福』を、より根源的で、抗いがたい『化学的な幸福』で上書きし、帝国臣民の精神を縛り付けていた、合理性、効率性、そして未来への不安といった、目に見えぬ鎖を溶かし去った。そして、その鎖から解き放たれた人々が、自らの魂の導き手として、預言者カイナを選んだ時、理性の帝国は、その最も手ごわい敵、すなわち、計算不能なる人間の信仰心と、対峙せざるを得なくなった。糖蜜病が帝国の肉体を蝕んだとすれば、蜜霧は、その魂を、抗いがたいほどの甘美さをもって、安楽死させたのである。

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