帝国の衰亡:生物学的裏切りと非合理的なる感情と信仰(西暦2200年~2255年)
およそ、歴史における帝国の衰亡は、外部からの強大な敵によってではなく、その繁栄を支えていたはずの基盤そのものが、内側から腐敗することによって、最も劇的に、そして悲劇的に進行するものである。「パクス・グンマ」という、一世紀以上にわたる完璧な静寂の後、グンマー帝国は、まさにそのような、内なる矛盾の爆発によって、その長い黄昏の時代へと足を踏み入れた。それは、帝国が自ら作り出した完璧な生命「超蒟蒻」の、予測不能な生物学的裏切りと、その完璧な社会が生み出した、計算不能な「人間の魂の飢餓」とが、恐るべき共鳴を引き起こした時代であった。理性の光が最も輝いた場所で、最も暗き影が生まれつつあったのである。
第一節:生物学的裏切り――「糖蜜病」のパンデミック
帝国の崩壊の、物理的な引き金を引いたのは、かつてその繁栄の源泉であった、超蒟蒻そのものであった。
遺伝子の反乱:
西暦2200年頃から、かつてデルタ-7農場で観測された「琥珀病」の兆候は、散発的ながら、帝国全土の垂直農場で報告されるようになっていた。術政庁は、これを依然として「許容範囲内のエラー」として処理し続けた。しかし、西暦2215年、ある垂直農場で発生した、地熱エネルギー供給の微細な周波数変動が、致命的な引き金となった。この僅かな環境ストレスが、一世紀以上にわたって蓄積されてきた超蒟蒻の「システム的疲労」の臨界点を超えさせ、眠っていた遺伝子の自己崩壊プログラムを、連鎖的に起動させたのである。
それは、もはや正常なグルコマンナン繊維を生成できなくなった超蒟蒻が、代わりに、琥珀色で、糖度の極めて高い、粘着質な樹液を、その体内から排出し始める、一種の代謝異常疾患であった。それは、最大のエネルギー効率を求めてグルコースから繊維質への変換プロセスを極限まで最適化した超蒟蒻が、その代謝経路を逆流させ、未処理の糖分そのものを樹液として体外に排出し始めた、いわば設計思想の自己否定であった。この現象は、あたかも不治の伝染病のように、空調システムや培養液の循環を通じて、瞬く間に帝国全土の垂直農場へと広がっていった。これが、後に「糖蜜病」と呼ばれる、帝国の食料基盤を根底から覆した、未曾有の生物学的災害であった。
術政庁の機能不全:
この事態に対し、術政庁の誇る科学技術は、完全に無力であった。彼らは、糖蜜病に汚染された区画を次々と焼却処分したが、その拡大の速度は、彼らの処理能力を遥かに上回っていた。八咫烏は、汚染の拡大パターンを確率論的に完璧に予測し、最も効率的な封じ込め計画として『汚染区画だけでなく、隣接する健全な区画をも含めた予防的焼却処分』を推奨した。AIにとって、少数の健全な超蒟蒻は、システム全体のリスクを低減するためには無視できる損失であった。しかし、この非情なまでの合理性は、食料への不安を抱く民衆の感情を逆撫でするだけであった。 システムの絶対性を信じていた〈赤城〉たちは、この理解不能な現実を前に、初めて混乱と恐怖に陥った。彼らは、情報の徹底的な隠蔽に走り、国民には「大規模なシステムメンテナンスのため、一時的に栄養ブロックの配給を調整する」とだけ布告した。しかし、配給されるブロックの量が日ごとに減り、そして、その白色の中に、時折、琥珀色の筋が混じるようになった時、民衆は、自らが依って立つ大地が、足元から崩れ始めていることを、本能的に察知したのである。
第二節:精神の救済――「蜜霧」と預言者カイナの誕生
物理的な食料危機が深刻化する一方で、帝国の精神には、全く新しい、そして甘美な「救済」がもたらされようとしていた。
「蜜霧」の発生:
糖蜜病によって垂直農場から排出された琥珀色の樹液は、都市の排水路へと流れ込み、地熱プラントから供給される高温の蒸気や、都市の排熱に晒されることで、微細な粒子となって大気中へと拡散し始めた。特に、〈妙義〉階級が居住する、人口密度の高い低層区画では、この粒子が、朝夕、まるで霧のように立ち込めるようになった。これが、『蜜霧』であった。
この霧は、微かに甘い、花のような香りを放った。そして、その粒子には、人間の脳の辺縁系を直接刺激し、セロトニンやエンドルフィンといった神経伝達物質の分泌を強制的に促す、強力な向精神作用があった。
預言者カイナの覚醒:
カイナは、太田市の垂直農場で働いていた、ごく普通の〈妙義〉の女性であった。彼女は、糖蜜病によって自らの職場が封鎖され、同僚たちが隔離されていく様を、無力感と共に見ていた。生きる意味を見失い、絶望に打ちひしがれていたある朝、彼女は、自らの居住区画に立ち込めた蜜霧を、深く吸い込んだ。
その瞬間、彼女は、生まれて初めて、至福を体験した。管理された「天運」の偽りの興奮ではない、現実の肉体を震わせる、圧倒的な多幸感であった。彼女の脳裏には、大地そのものが、琥珀色の涙を流しながら、技術の牢獄に囚われた子供たちに、許しと救済を与えようとしている、という鮮烈な幻視が浮かんだ。彼女は、蜜霧を、汚染物質ではなく、「大地が流す、甘美なる涙」であり、「システムからの解放を告げる福音」であると悟った。
彼女が、自らの体験を、同じように絶望していた隣人たちに語り始めると、その言葉は、驚くべき速度で、魂の砂漠に水を求める人々の心に、浸透していった。彼女は、自らを預言者と名乗ったわけではない。絶望した人々が、彼女の中に、最後の希望を見出し、彼女を「預言者」へと祭り上げたのである。
「回帰者」の教義:
カイナの教えは、極めて単純でありながら、強力であった。すなわち、「術政庁の理性が、我々を偽りの楽園に閉じ込めていた。超蒟蒻の病は、我々を支配していた偽りの神の死である。蜜霧こそが、真なる母、すなわち大地が与えてくれた、本当の救済である。我々は、もはやシステムに奉仕する歯車ではない。我々は、蜜霧の中で、大地と再び一体化し、真の幸福を取り戻すのだ」と。 この教えは、管理された幸福に虚しさを感じていた人々の心を、燎原の火のごとく捉えていった。帝国が、個人を階級とIDによって定義された、孤立した『個』として扱ったのに対し、カイナの教えは、蜜霧の中での『個の融解』と、他者や大地との『一体感』を説いた。それは、生涯を通じて孤独な歯車であることを運命づけられた人々にとって、抗いがたいほど甘美な福音であった。彼らは自らを「回帰者」と名乗り、カイナの下に集結した。彼らは、術政庁の統制を離れ、蜜霧が最も濃く立ち込める、放棄された垂直農場の周辺に、新たな共同体を築き始めた。彼らは、蜜霧を「大地の息吹」として吸い込み、瞑想し、歌い、そして踊った。それは、一世紀以上にわたって抑圧されてきた、人間の非合理的なる情熱の、壮大な爆発であった。
第三節:帝国の分裂――理性と恍惚の断絶
回帰者の出現は、帝国の社会構造を、修復不可能なレベルまで引き裂いた。
大離脱(The Great Exodus):
カイナの教えは、特に〈妙義〉階級の間で、爆発的に広まった。彼らは、ある日、何の前触れもなく、自らの労働持ち場を放棄し、家族を連れて、回帰者の共同体へと、次々と合流し始めた。この「大離脱」は、帝国の完璧に調整された生産活動の血管を寸断するに等しかった。インフラを維持する〈妙義〉の保守要員が消え、都市の浄水システムに警告ランプが灯り、物流チューブは各所で機能を停止した。帝国は、建国以来初めて、システムがその人的資源を喪失するという、想定外の事態に直面したのである。インフラの保守は停止し、資源の採掘は滞り、そして何よりも、システム防衛局の兵士たちの間に、深刻な動揺が走った。
術政庁の誤算と弾圧:
術政庁と八咫烏は、この現象を、全く理解できなかった。彼らにとって、回帰者は、「蜜霧による精神錯乱者たちの、非合理的な集団」でしかなかった。彼らは、回帰者を、国家の秩序を乱す危険な狂信者集団と断定し、その弾圧を決定した。システム防衛局のドローン部隊が、回帰者の共同体に派遣され、音響兵器や催涙ガスによる強制排除が試みられた。
しかし、この武力による弾圧は、最悪の結果を招いた。蜜霧による恍惚状態にあった回帰者たちは、恐怖を感じなかった。彼らは、ドローンの攻撃を、自らの信仰を試すための、神聖なる試練として受け入れた。そして、弾圧によって生まれた殉教者たちは、彼らの信仰を、さらに狂信的なものへと変質させた。
〈榛名〉階級の動揺と高崎の中立:
この一連の出来事は、システムの忠実なしもべであったはずの、〈榛名〉階級を、深刻なジレンマに陥れた。彼らは、現場の管理者として、食料生産が日々減少していく現実と、〈妙義〉たちの絶望を、データではなく肌で感じていた。同時に、術政庁から下される非人間的で効果のない弾圧命令を、自らの手で実行せねばならないという良心の呵責にも苦しんだ。彼らは、狂信に走る〈妙義〉にも、現実を直視しない〈赤城〉にも与することができず、自らの理性と人間性を守るための、第三の道を模索し始めたのである。この動揺は、やがて、〈榛名〉階級が多数を占める、商業・行政都市「高崎」が、「いずれの側にも与しない」という、事実上の中立を宣言する、帝国史上初の公然たる反逆へと繋がっていく。
かくして、帝国は、その内部に、三つの相容れない勢力を抱えることとなった。あくまでも技術による秩序回復を目指す、上毛京の術政庁。蜜霧による精神の解放を求める、太田の回帰者。そして、その両者の間で、自らの生存を模索する、高崎の中立派。理性の帝国は、自らが最も軽蔑したはずの、非合理的なる感情と信仰の奔流によって、その統一を完全に失った。それは、後に帝国を滅亡へと導く、最終戦争「三都戦争」の、避けられざる序曲であった。




