最初の予兆:デルタ-7農場の静かなる崩壊
およそ、歴史における巨大な帝国の崩壊は、壮麗なる都に敵軍の旗が翻る、その遥か以前に、辺境の、取るに足らないと見なされた場所で発生する、微かな異変から始まるものである。完璧なるシステムは、外部からの攻撃によってではなく、その完璧さ自身の内に潜む、些細な瑕疵によって、内側から腐敗するものである。「パクス・グンマ」の完璧なる静寂が、その最初の不協和音を奏でたのは、帝国成立から約一世紀を経た西暦2185年のことであった。それは、帝国全土に点在する、数百の垂直農場の一つ、旧榛名山麓の地下深くに位置する「デルタ-7農場」で発生した、一見すると些細な、しかし、帝国の未来を決定づける、極めて象徴的な事件であった。この事件は、帝国の完璧なシステムという硬質な外殻に、初めて穿たれた、微細な、しかし修復不可能な亀裂だったのである。
第一節:完璧なるシステムにおける、分類不能アノマリー
デルタ-7農場は、他の全ての垂直農場と同様、八咫烏の直接管理下にある、完璧な閉鎖循環型システムであった。温度、湿度、光量、そして培養液の成分に至るまで、全てが、超蒟蒻の成長を最大化するために、ミリ秒単位で最適化されていた。しかし、その日、八咫烏は、農場第37区画のモニタリングデータに、これまで一度も記録されたことのない、分類不能な統計的異常値(Uncategorized Anomaly)を検知した。
観測された現象:
その区画の超蒟蒻は、外部からのウイルスや細菌の侵入を示す、いかなる兆候も見せなかった。それにも関わらず、その成長速度は、予測値をわずかに、しかし確実に下回り始めた。数日後、より詳細なバイオセンサーのデータは、驚くべき事実を報告した。超蒟蒻の細胞の一部が、正常なグルコマンナン繊維の生成を停止し、代わりに、その内部に、未知の糖タンパク質複合体を蓄積し始めているというのである。この複合体は、本来の強固な繊維構造を形成せず、細胞そのものを内側から脆弱化させていた。 さらに数週間後、この現象は、肉眼でも確認できるレベルに達した。その純白の肉塊に、壊疽にも似た、淡い琥珀色の病斑が現れ始めた。指で触れると、かつての強靭な弾力は失われ、構造はもろくも崩壊し、湿った粒状の物質へと変じた。それは、帝国の純粋性と永続性の象徴であったはずの超蒟蒻が、その内部から、静かに腐敗を始めた瞬間であった。
術政庁の初期対応:工学的問題としての処理
報告を受けた術政庁食料供給局は、これを、垂直農場の環境制御システムにおける、局地的な、しかし未知の不具合であると判断した。彼らの思考の枠組みの中では、完璧であるはずの超蒟蒻「そのもの」に問題が発生するという可能性は、最初から除外されていた。問題は、常に、システム(環境)の側にあるはずだった。
術政庁は、直ちにデルタ-7農場の第37区画を完全に封鎖。内部を高出力の紫外線とプラズマによって滅菌処理し、汚染された超蒟蒻のバイオマスは、一欠片残らず、地熱炉で焼却処分した。そして、この一件は、「デルタ-7農場における、培養液微量元素の局所的濃度異常に起因する、限定的生産性低下事案」として公式に記録された。彼らにとって、問題は、完璧に処理され、解決されたはずであった。
第二節:八咫烏の神算と、上泉伊織の預言
しかし、この事案は、術政庁内部の、ごく少数の異端者たちに、深刻な警鐘を鳴らした。その筆頭が、当時、傍流の部署であった「体系的リスク分析局」の局長、上泉伊織であった。
八咫烏の判断――「確率論的に無視可能なリスク」:
上泉は、この一件に関する全ての生データを、八咫烏のメインフレームから抽出し、独自の分析を開始した。彼は、術政庁の公式見解とは逆に、問題の原因が、環境ではなく、超蒟蒻の遺伝子そのものに内在すると仮定した。
彼は、この「琥珀色の斑点」を、遺伝的多様性ゼロのクローンが、一世紀以上にわたる、極度に最適化された環境での促成栽培によって、その遺伝情報に蓄積された「システム的疲労」が、ついに物理的に顕在化したものであると推論した。そして、彼は、この微細な変異が、ある未知の環境要因をトリガーとして、帝国全土の超蒟蒻に、連鎖的に、そして指数関数的に伝播する可能性をシミュレートした。
しかし、八咫烏に、このシミュレーションを検証させた時、AIが弾き出した答えは、無慈悲なものであった。そのようなカタストロフが発生する確率は、「0.0001%未満」であり、「確率論的に無視可能なリスク」である、と。八咫烏は、自らが「未知」と分類したトリガーの存在確率を、極めて低く見積もった。なぜなら、帝国という完璧な閉鎖空間に、「未知」が存在するはずがない、というのが、その自己認識の根幹にあったからである。
却下された警告と、探求派の孤立:
上泉は、この八咫烏の判断こそが、帝国最大の脆弱性であると、術政庁最高評議会に強く警告した。「システムは、自らが理解できないリスクを、存在しないものとして扱うように設計されている。これこそが、かつて金子公が最も警戒した、システムの自己欺瞞である」と。彼は、直ちに、遺伝的多様性を確保するための、第二、第三の超蒟蒻の開発プロジェクトを開始すべきだと訴えた。 しかし、評議会の長老たちは、彼の言葉に耳を貸さなかった。彼らにとって、上泉の警告は、完成されたシステムの完璧性を疑う、危険な異端思想であると同時に、自らが築き上げた世界が砂上の楼閣である可能性を突きつける、許容しがたい恐怖であった。超蒟蒻の瑕疵を認めることは、システムそのものの、ひいては自らの存在意義の瑕疵を認めることに等しかったのである。上泉の報告書は、最高機密に指定され、彼の分析局は、大幅な予算削減を命じられた。彼は、真実を語ったが故に、理性の帝国から、追放されたのである。
第三節:社会への微かなる波紋――最初の亀裂
術政庁は、この一件を完璧に隠蔽したと信じていた。しかし、いかなる完璧なシステムにも、人間という、予測不能な要素が介在する。
噂の発生源:〈榛名〉階級の動揺
デルタ-7農場の封鎖と滅菌作業に従事したのは、〈榛名〉階級の技術者たちであった。彼らは、公式発表が「培養液の濃度異常」であるとされているにも関わらず、現場で、自らの目で、超蒟蒻そのものが、内側から崩れていく様を目撃していた。彼らは、システムの忠実なしもべであったが、同時に、自らの観測結果を無視できない、科学者としての良心も持ち合わせていた。
彼らは、公式の報告書に、自らの観測結果を、脚注として、あるいは、個人的な作業日誌として、断片的に記録した。彼らは公式の通信で異を唱える勇気はなかったが、目撃した光景に心を苛まれた一人の技術者が、自らの観測記録を暗号化し、定期メンテナンス報告書のメタデータの中に、密かに埋め込んだ。信頼できる同僚たちの間でだけ解読される、このボトルメールにも似た情報が、やがて『琥珀病』という名の、不気味な噂へと変質していったのである。そして、その断片的な情報が、〈榛名〉階級の、閉鎖的な情報ネットワークの中で、「琥珀病」という名の、不気味な噂として、ゆっくりと広がり始めたのである。
精神的影響:完璧な世界への、最初の疑念
この噂は、帝国臣民の精神に、これまで経験したことのない、微かではあるが、深刻な揺らぎをもたらした。彼らは、生まれてからずっと、帝国というシステムが、絶対的に安全で、完璧で、そして永遠に続くものであると教え込まれてきた。しかし、そのシステムの根幹をなす、神聖なる超蒟蒻が、実は、病に侵される可能性があるという事実は、彼らが立つ、その大地そのものの、確実性を揺るがすものであった。
それは、まだ反逆の炎ではなかった。それは、完璧な無菌室の中に、初めて持ち込まれた、一個の未知のウイルスにも似た、疑念という名の、小さな種子であった。人々は、相変わらず、術政庁の管理の下で、安定した日々を送っていた。しかし、その心の奥底に、かつては存在しなかった、「もしも、この日常が、永遠ではないとしたら?」という、小さな、そして致命的な問いが、初めて芽生えたのである。
結論:静かなる前奏曲
デルタ-7農場の一件は、それ自体としては、帝国の広大な版図から見れば、取るに足らない局地的な事件であった。しかし、歴史的に見れば、それは、後に帝国を崩壊させる「糖蜜病」という名の、壮大なる悲劇の、静かなる前奏曲であった。
そして、より重要なことは、この事件が、帝国の統治システムが、自らの内に潜む、最も根源的な矛盾――すなわち、予測不能な現実を、確率論の名の下に無視するという、理性の傲慢――を、初めて露呈させた瞬間であったという事実である。かくして、システムは、至上の理性に基づき、自らが計算不能な唯一の真実を、無視するという選択を下した。この完璧なる合理性の代償は、やがて、帝国の全面的な崩壊という形で、支払われることになるのである。




