上毛公国の民生:工学的生活とその揺らぎ
およそ、ある文明の真の姿は、その壮麗なる建造物や輝かしい戦歴によってではなく、名もなき民草が、日々の生活をいかに営んでいたかによって、最も雄弁に物語られるものである。金子志道が築き上げた上毛公国における市民の生活は、旧世界のいかなる社会とも、その様相を異にしていた。それは、飢餓と暴力に満ちた外部の混沌とは対極にある、絶対的な安全と物質的な充足が約束された世界であった。しかし、その充足は、旧時代の江戸の町人文化が持っていたような、限られた資源の中で工夫を凝らして生み出される人間的な豊かさとは全く無縁であった。それは、金子志道の公理『供給なくして統治なし』の、論理的な、しかし冷徹なる最終結論に他ならなかった。それは、国家という巨大なシステムによって、ゆりかごから墓場まで、完璧に設計・管理された、工学的なる生活(Engineered Life)に他ならなかった。この社会では、人生は生きるものではなく、遂行されるべきタスクであった。
第一節:食――生存の保証と味覚の喪失
金子志道の統治哲学「供給なくして統治なし」は、食生活において、最も純粋な形で具現化された。
「標準栄養ブロック」による完全管理:
公国において、家庭の食卓という概念は存在しなかった。全国民には、術政庁食料供給局から、市民IDを通じて、一日に三度、「標準栄養ブロック」が配給された。これは、超蒟蒻を主原料とし、人間が生存に必要な全ての栄養素を、八咫烏が算出した最適バランスで配合した、完全食であった。その形状は、効率的な輸送と貯蔵を目的とした、無味乾燥な立方体。色は、添加物を一切含まない、純粋な白色であった。テクスチャーは、わずかに弾力のあるペースト状で、咀嚼をほとんど必要としないよう設計されていた。これは、食事時間を短縮し、生産性を最大化するための、合理的な結論であった。 民衆は、もはや食事の準備に時間を費やす必要も、栄養バランスに頭を悩ませる必要もなかった。飢餓の恐怖は、完全に過去の遺物となった。しかし、その代償として、彼らは、食の喜び、すなわち、多様な食材の風味、調理の工夫、そして家族や友人と食卓を囲むという、旧世界の人間が育んできた、最も根源的な文化の一つを、完全に喪失した。江戸の庶民が、質素な『一汁一菜』の中に旬の味を見出し、あるいは蕎麦や天ぷらの屋台で、食を通じた束の間の社交を楽しんだのとは、全く対極的であった。公国において、食事とは、生命という機械を維持するための、単なるエネルギー補給作業に過ぎなかったのである。
味覚の退化と文化的含意:
この画一的な食生活は、数世代を経て、公国民の生理機能にさえ影響を及ぼした。彼らの味覚は著しく退化し、複雑な風味を識別する能力を失っていった。術政庁の公式記録によれば、これは「旧人類が抱えていた、過剰な食欲という非合理的な欲動からの解放」であり、市民がより高次の精神活動に集中するための、進化の一段階であると説明された。しかし、その実態は、文化的記憶の喪失であった。旧時代の文学作品に描かれた「ごちそう」の描写は、彼らにとっては何の意味も持たない記号の羅列となり、歴史への共感能力を著しく削ぐ結果となった。それは、多様性や複雑性といった、非効率なものを許容しないという、帝国の思想が、人間の身体そのものに刻み込まれた証であった。
第二節:住――機能的空間と個性の不在
公国民の居住空間もまた、食生活と同様、徹底した合理主義と標準化の原則によって支配されていた。
マンナン・クリート製モジュール住居:
民衆は、国家から供給される、マンナン・クリート製のモジュール式集合住宅に居住した。これらの住居は、八咫烏が算出した、都市全体のエネルギー効率と人口密度を最大化するよう、巨大な蜂の巣状に設計されていた。個人の所有物という概念は希薄で、住居は、国家から貸与される「生活ユニット」と見なされた。
内部の構造は、その者が属する職能階層によって広さや設備に差異はあったものの、極めて機能的かつ画一的であった。ベッドや机といった家具は、全て壁に埋め込まれた収納式であり、個人の趣味を反映するような装飾品を置くことは、空間の非効率な利用と見なされ、推奨されなかった。壁の色は、精神を安定させる効果が最も高いとされる、薄い青灰色に統一されていた。江戸の長屋の住民が、狭い空間の中に自らの生活の痕跡を刻み、密接なコミュニティを形成したのとは対照的に、公国の住居は、誰が住んでも同じ、非人格的な空間であった。術政庁の初期の社会報告には、この環境に起因すると見られる、軽度の離人症や愛着障害の増加が、『許容可能なシステム的副作用』として記録されている。
職能階層による差異:
生産・労働者層(後の〈妙義〉階級): インフラ建設や資源採掘といった、システムの物理的基盤を支える層。彼らには、必要最小限の機能(睡眠、排泄、情報端末へのアクセス)のみを備えた、標準化された単身用ユニットが割り当てられた。そこには、窓さえも存在せず、外部の天候や時刻は、壁に投影される情報によってのみ知ることができた。これは、労働者の生活リズムを、自然のサイクルではなく、国家の生産計画に完全に同期させるための、合理的な設計であった。
技術者・管理者層(後の〈榛名〉階級):
地熱プラントや垂直農場の管理、公共サービスの運営といった、システムの維持を担う層。彼らには、家族との生活を想定した、より広いユニットが与えられた。彼らのユニットには、限定的ながら、植物を栽培するための小さな室内ガーデンが設置されている場合があったが、これもまた、大気中の二酸化炭素濃度を調整するという、システム全体の効率に貢献するための機能の一部であった。
上位の設計者・科学者層(後の〈赤城〉階級):
術政庁の中枢で、国家の基本設計や八咫烏の管理を行う、最上位の層。彼らには、広大な居住空間に加え、私的な研究や思索のための、高度な情報設備を備えた書斎が与えられた。
第三節:衣――職能の制服とファッションの死
衣類は、個性を表現するための手段ではなく、国家システムにおける自らの職能と階層を示すための、機能的な記号であった。
リサイクル繊維による標準服:
全国民は、自らが属する職能階層ごとに定められた、統一デザインの標準服を着用することが義務付けられた。その素材は、回収されたマンナン・クリート製品や、超蒟蒻の生産過程で生じる余剰バイオマスから再生された、極めて耐久性の高い繊維であった。これは、江戸時代における古着の再利用や、布の使い回しといった「もったいない」の精神を、国家規模で、かつ工業的に実現したものであったと言える。しかし、そこに、布を大切にするという人間的な愛着は存在せず、ただ、資源の完全循環という、冷徹な計算があるのみであった。衣服は、耐用年数が来ると、各自が返却ポストに投函し、新しいものが配給される。修繕という概念さえ、非効率な行為として存在しなかった。
色と識別章による職能の可視化:
各個人の職能は、標準服の色と、肩に付けられた識別章によって、一目で識別できるようになっていた。例えば、エネルギー供給局に属する者は青色、食料供給局に属する者は緑色、そしてシステム防衛局に属する者は黒色といった具合に、機能別に色分けがなされていた。上位の設計者・科学者層は、システムの純粋性と至高性を象徴する、純白の衣服を着用する特権を与えられた。ファッションという、旧世界の最も非合理的なる自己表現の形態は、この国では完全に消滅した。人々は、自らの身体さえも、国家という巨大なシステムの、一つの構成部品として記号化されることを、何の疑問もなく受け入れていた。
第四節:娯楽――管理された精神と「天運」の役割
術政庁は、人間の精神に「退屈」という名の脆弱性が存在することを、正確に理解していた。そして、その脆弱性を管理・統制するために、国家が独占的に供給する、ただ一つの娯楽を用意した。
仮想現実(VR)プログラム「天運」:
「天運」とは、全国民が、自らの市民IDを通じてアクセスする、超巨大な仮想現実空間であった。表向きには、それは、日々の労働の疲れを癒し、市民に精神的な充足を与えるための、高度なエンターテインメントであるとされた。その世界では、人々は、現実の階級から解放され、冒険者や芸術家となり、自らのアバターを成長させ、仮想の富と名声を得ることができた。
しかし、その真の目的は、国民の不満や野心を、管理された仮想空間へと誘導し、現実世界への反逆に繋がることを未然に防ぐという、高度な心理的統制にあった。八咫烏は、『天運』内での全プレイヤーの行動を監視・分析し、個人の欲求不満のレベルを常に測定していた。しかし、八咫烏のアルゴリズムは、目的志向的でない、非生産的な行動――例えば、仮想空間の森で何時間も無言で過ごしたり、意味のない幾何学模様を延々と描いたりする者たち――を『分類不能な精神的ノイズ』として処理するに留まった。これこそが、後に『回帰者』思想の萌芽となる、計算不能な精神性の、最初の兆候であった。そして、ある個人の不満度が危険な水準に達したと判断した場合、そのプレイヤーのアバターに、希少なアイテムを与えたり、困難なクエストを達成させたりすることで、意図的に成功体験を演出し、その不満をガス抜きした。
共同体の代替としての「ギルド」:
「天運」は、旧世界における地域共同体や祭りの役割をも代替した。人々は、ゲーム内で「ギルド」と呼ばれる共同体を形成し、協力して目標を達成することに、その社会的欲求を満たした。しかし、これらのギルドもまた、八咫烏の監視下にあり、その活動が、現実世界での徒党に繋がる兆候を見せた場合、即座に解体される運命にあった。
芸術と祝祭の消滅:
旧時代に存在した、非生産的な芸術活動(音楽、文学、絵画など)や、非合理的な迷信に基づく祝祭は、全て禁止された。それに代わって、国家が主催する「生産性向上月間」や、「システム最適化コンペティション」といった、国家の理念を称揚するための、擬似的な祝祭が定期的に開催された。江戸の庶民が、芝居見物や花見に、日常からの解放と生の喜びを見出していたのに対し、公国の民は、仮想空間でのみ、管理された解放を許される、籠の中の鳥であった。
結論:幸福なる牢獄
上毛公国における民衆の生活は、一見すると、人類が長年夢見てきたユートピアの実現であった。飢えも、病も、犯罪も、そして戦争の恐怖さえも存在しない、完璧に安全で、安定した世界。しかし、その完璧な安定は、人間から、人間を人間たらしめていた、あらゆる不確定要素――すなわち、自由、個性、創造性、そして非合理的な情熱――を奪い去ることによって、初めて達成されたものであった。それは、幸福な、しかし、どこにも出口のない、静かなる牢獄であった。そして、金子志道が唯一計算に入れなかった最大の変数――すなわち、いかなる管理下にあっても、予測不能な夢を見、非合理的な愛を求め、そして意味を問い続ける人間の魂そのものが、この牢獄の中で、やがて『回帰者』という、最も非合理的なる怪物となってシステムに反逆を始めるのである




