上毛公国の社会統制システム:八咫烏の眼と理性の牢獄
およそ、歴史における国家の統治とは、その権力が国民の身体と精神の双方に、いかに深く浸透し得るかという問いに対する、時代ごとの回答である。金子志道が築き上げた上毛公国の統治システムは、旧世界のいかなる全体主義国家とも、その原理と深度において一線を画していた。それは、恐怖やイデオロギーによる支配ではない。それは、国家という巨大な機械の効率を最大化するために、その構成部品たる国民一人一人を、情報として完全に把握し、資源として完璧に管理するという、究極の合理主義が生み出した、静かなる、しかし絶対的なる支配であった。この国では、国民は、もはや統治されるべき主体ではなく、管理されるべきオブジェクトだったのである。20世紀の独裁者たちが人間の精神を画一的な思想で塗り潰そうとしたのに対し、金子志道は、精神そのものを、計算可能な変数としてシステムに組み込むことを目指した。その結果生まれたのは、熱狂なき全体主義、すなわち、静謐なる理性の牢獄であった。
第一節:市民ID――ゆりかごから墓場までのデジタルな鎖
この社会統制システムの根幹をなしたのは、全国民が出生時に、皮下に埋め込むことを義務付けられた、一個の生体集積回路(Bio-Integrated Circuit)、通称「市民ID」であった。これは、単なる身分証明の道具などではない。それは、個人の存在そのものを、国家の中央演算システム「八咫烏」に接続するための、生涯外すことのできない、究極のインターフェースであった。
機能①:完全なる経済管理
公国には、貨幣という非合理的な交換媒体は存在しなかった。全ての経済活動は、市民IDに記録される「資源クレジット」によって管理された。国民は、自らに割り当てられた労働を遂行することによって、その対価としてクレジットを付与される。その労働価値は、単なる時間ではなく、八咫烏が算出する「システムへの貢献度」――すなわち、作業の重要度、達成度、そして消費エネルギー効率――によって、秒単位で変動した。そして、食料配給を受ける時、公共交通機関を利用する時、あるいは「天運」へのアクセス権を得る時、そのIDから、必要とされるクレジットが自動的に引き落とされた。これは、脱税や不正蓄財といった旧時代の経済的非効率性を完全に排除するのみならず、『労働に基づかない富の増殖』という資本主義の根本的な非合理性を否定し、国家への貢献度と享受できる便益を完全に一致させるための、工学的な解答であった。システムへの反逆者は、処刑されるのではない。ただ、そのIDからクレジットを剥奪され、社会的に『存在しない』者、すなわち『ゴースト』とされるのであった。ゴーストのIDは、あらゆるセンサーから認識されなくなり、自動ドアは開かず、配給端末は応答しない。彼らは、群衆の中にあって誰からも認識されない、生ける亡霊として、緩慢な死へと追いやられるのである。それは物理的な拘束よりも静かで、しかし遥かに残酷な放逐であった。
機能②:常時接続の生命監視
市民IDは、単なるデータ記録媒体ではなかった。それは、宿主の身体と直接接続された、高度なバイオセンサーでもあった。心拍数、血圧、体温、血中酸素飽和度、そしてストレスレベルを示すホルモン値(コルチゾール等)といった、あらゆる生体情報が、常にリアルタイムで術政庁の健康管理サーバーへと送信され続けた。表向きには、これは、疾病の兆候を早期に発見し、介入するための、究極の予防医学であると説明された。実際に、公国では、旧時代の疫病や生活習慣病は、ほぼ根絶されていた。しかし、その真の目的は、個人の身体的・精神的状態を完全にデータ化し、『人的資源』としてのパフォーマンスを最大化することにあった。ただし、この完璧な監視システムも、八咫烏の既知の病理モデルに合致しない、微細な細胞変性や、原因不明の免疫系の異常といった、分類不能な生体データを記録し始めていた。それらは『未定義のアノマリー』として、将来の分析を待つアーカイブの奥深くへと、静かに蓄積されていった。例えば、ある労働者のストレス値が継続的に上昇した場合、八咫烏は、それを「システム非効率の兆候」と判断し、当該労働者を、よりストレス負荷の低い(そして、より重要度の低い)職務へと、自動的に再配置するアルゴリズムが組まれていた。個人の意思やキャリアプランといった非合理的な要素は、完全に無視された。また、このシステムは、遺伝的欠陥や、治療不可能な慢性疾患を持つ者を、出生前診断の段階で「低効率資源」として分類し、その誕生を未然に防ぐという、優生学的な側面をも内包していたと、後世の研究では指摘されている。
機能③:不可避の位置情報追跡
市民IDには、当然のことながら、全地球測位システム(GPS)の受信機能が組み込まれていた。これにより、術政庁は、全国民の現在位置を、誤差数センチの精度で、常に把握することができた。これもまた、表向きには、災害時の迅速な救助や、効率的な都市交通網の管理のためであるとされた。しかし、その本質は、国民の物理的移動の自由を、完全に管理下に置くことであった。都市は、各個人の階級と職能に応じて、厳密に区分けされた「ゾーン」によって構成されており、許可なく、自らに割り当てられた居住区画や労働区画を離れた者は、即座に警報を発せられ、システム防衛局のドローンが、数分以内にその身柄を拘束した。この国では、迷子になる自由さえ、存在しなかったのである。人々は、定められた軌道の上を動く惑星のように、自らの生活圏という名の重力に、生涯束縛され続けた。
第二節:八咫烏の眼――遍在する国家の視線
市民IDが、国民一人一人に付けられた「内なる眼」であったとすれば、それを外部から補完し、社会全体の情報を網羅的に収集したのが、「八咫烏の眼」と総称される、国家規模の監視ネットワークであった。
物理空間の完全な監視:
旧時代の「防犯カメラ」のような、威圧的で非効率な装置は、この国には存在しなかった。それに代わって、都市のあらゆる場所に、環境に溶け込む形で、無数のマイクロセンサーが設置されていた。マンナン・クリート製の建物の壁面には、それ自体が映像を記録する光学迷彩センサーが組み込まれ、街灯には、通行人の会話を拾うための指向性マイクが内蔵されていた。これらのセンサーは、単に映像や音声を記録するだけではない。八咫烏と直結したAIが、リアルタイムでその情報を解析し、市民IDのデータと照合することで、あらゆる市民の、あらゆる行動を、その意図に至るまで分析・予測した。例えば、二人の市民が公共の場で口論を始めた場合、八咫烏は、その声の周波数、市民IDから送られる心拍数の上昇、そして過去の行動データから導き出される暴力に至る確率を瞬時に計算する。確率が一定の閾値を超えた場合、彼らの間に、指向性の高周波音(人間に不快感を与えるが、物理的損傷はない)を発する小型ドローンが自動的に介在し、強制的に両者を引き離すといった措置が講じられた。また、広場で複数の市民が予定外に集会した場合、八咫烏は、その会話の音声パターン(声のトーン、話す速度)、表情筋の微細な動き、そして市民IDから送られる心拍数の上昇といったデータを統合し、それが「友好的な雑談」であるか、あるいは「反体制的な扇動の兆候」であるかを、瞬時に確率計算し、術政庁に警告を発した。この「逸脱行動予測システム」によって、いかなる反乱の兆候も、それが具体的な行動として現れる以前に、摘み取られていった。
情報空間の完全な傍受:
公国内の通信は、術政庁が管理する、閉鎖された光ファイバーネットワーク「上毛ネット」によって、独占的に提供されていた。旧時代のスマートフォンのような、個人が所有する通信端末は存在せず、人々は、各家庭や職場に設置された公共の情報端末を通じてのみ、情報の送受信を許された。当然のことながら、このネットワークを流れる全てのデータ――テキストメッセージ、音声通話、そして仮想現実『天運』内でのアバターの行動に至るまで――は、八咫烏によってリアルタイムで傍受・分析されていた。さらに、八咫烏は、システムに有害と判断した情報(旧世界の歴史や、非合理的な思想、過度に感情的な文学作品など)を、ネットワーク上から完全にフィルタリングするだけでなく、それらの情報を参照しようとした市民の『知的好奇心』を危険因子として記録し、その人物の『体制安定性指数』を下方修正した。市民がアクセスできる知識そのものが、国家の理念に合致するよう注意深くキュレーションされていたのである。プライバシーという概念は、システム全体の安定性を脅かす、危険かつ非合理的な旧時代の遺物として、完全に否定された。「隠し事は、非効率な計算誤差を生む」というのが、金子志道の哲学であった。
第三節:合理的統制の帰結――静かなる牢獄
この二つのシステム、すなわち個人的な市民IDと、遍在する八咫烏の眼が、完璧な相補関係を結ぶことによって、上毛公国は、人類史上、最も完成された管理社会を現出させた。
犯罪と逸脱の消滅:
この社会では、物理的に犯罪を犯すことは、ほとんど不可能であった。いかなる逸脱行為も、その計画段階で、あるいは実行の瞬間に、システムによって検知・予防された。その結果、犯罪発生率は、統計的にゼロとなった。社会は、絶対的な安全を手に入れたのである。
自由と人間性の代償:
しかし、その代償として、人々は、自由という概念そのものを失った。何を食べ、どこで働き、誰と会話し、何を思うか。その全てが、国家システムによって最適化され、管理された。逸脱する自由も、失敗する自由も、そして、非合理的な情熱に身を焦がす自由も、そこには存在しなかった。国民の生活は、完璧に調整された、しかし決して揺らぐことのない、巨大な時計の歯車のように、ただ決められた軌道の上を、永遠に回り続けるだけとなった。
この、あまりにも合理的で、それ故に非人間的な秩序こそが、金子志道が目指した理想郷の真の姿であった。しかし、彼が唯一計算から除外した、あるいは無視した最大の変数が存在した。すなわち、システムが規定する幸福に満足せず、予測不能な夢を見、非合理的な愛に身を焦がし、そしてその存在の意味を問い続ける、人間の魂という最後の『未定義のアノマリー』である。この静かなる牢獄の中で、計算不能なる魂が、やがて『回帰者』という、最も非合理的なる怪物となってシステムに反逆を始めるまでに、あと一世紀の時間を要することになるのである。




