上毛公国の国家体制:理性による統治の設計図
およそ、歴史における国家の統治体制とは、その建国理念を具現化するための、一つの壮大なる機械装置である。西暦2046年の「からっ風戦争」の勝利によってその独立を確固たるものとした「上毛公国」の国家体制は、旧世界のいかなる政治思想の系譜にも属さない、極めて特異な構造を有していた。それは、民主主義でもなければ、王政でも、神権政治でもない。それは、建国者・金子志道の思想、すなわち「供給なくして統治なし」という唯一の公理から、数学的に演繹された、工学的なる統治システム(Engineered State System)であった。この国では、政治は、もはや議論や妥協の芸術ではなく、資源と情報を管理・最適化するための、冷徹なる科学だったのである。
第一節:公(Princeps)――システムの最終決定者
上毛公国の権力構造の頂点に君臨したのは、終身の元首たる「公」、金子志道その人であった。しかし、彼の権力は、旧時代の君主が持っていたような、絶対的かつ恣意的なものではなかった。
権威の源泉:
金子の権威は、法や血統、ましてや神の恩寵に由来するものではなかった。彼の権威の源泉は、ただ一つ、彼がシステムを創造し、そしてそのシステムが国民の生存を保証しているという、反論不可能な事実であった。彼は、飢餓と混沌から民を救った救世主であり、その功績こそが、彼の決定を絶対的なものたらしめる、唯一の根拠であった。民衆にとって、彼の存在は、旧世界の指導者たちが見せた無能と優柔不断との、鮮烈な対比であった。彼は、民衆に耳障りの良い言葉を囁くのではなく、ただ黙って、光と食料という、生存に不可欠な現実を提供し続けた。この実績こそが、彼の言葉に、いかなる法律にも勝る重みを与えたのである。
役割と権限:
公としての金子の役割は、独裁者として民に命令を下すことではなかった。彼の主たる役割は、国家という巨大な機械の「最高システム管理者」であり、また、AIによる計算が導き出した解に対する、「人間系の最終承認者(Human Authenticator)」であった。術政庁と八咫烏が提示する複数の最適解の中から、最終的な国家方針を決定する権限は、彼一人の手に委ねられていた。例えば、新たな地熱プラントの建設地を選定する際、八咫烏は、地質学的データに基づいて複数の候補地を、それぞれの期待発電量と建設コスト、そして地殻変動リスクの確率と共に提示する。しかし、そのいずれを選択するかという、未来への投資に関する最終的な戦略判断は、金子自身の理性に委ねられた。彼は、システムが暴走、あるいは硬直化した際に、それを強制的に修正・再起動できる、唯一のヒューマン・インターフェースだったのである。
第二節:術政庁(Technate)――統治の実務機関
公の下に置かれた、国家の事実上の政府機関が「術政庁」であった。これは、旧時代の議会や内閣とは、その構成原理と機能において、全く異なる存在であった。
構成員:
術政庁は、選挙で選ばれた政治家によってではなく、厳格な能力試験と実績評価によって選抜された、各分野の専門家、すなわち技術官僚のみによって構成された。彼らは、後の帝国における〈赤城〉階級の母体となり、その選抜基準は、ただ一つ、システム全体の効率を最大化するための、非情なまでの合理的思考能力であった。術政庁に入るための試験では、高度な数学や物理学の能力に加え、与えられた資源の下で最大多数の生存を達成するためのシミュレーション課題が課された。特に重視されたのは、候補者の感情的バイアスを測定する心理学的テストであり、共感、直感、道徳的曖昧さといった要素は、客観的判断を曇らせる『計算上のノイズ』と見なされ、徹底的に排除されたと伝えられる。共感や同情といった人間的感情は、客観的判断を曇らせる欠陥と見なされ、選抜過程で徹底的に排除された。
機能と組織:
術政庁は、政策を「議論」する場ではなかった。それは、国家のあらゆる情報を収集・分析し、八咫烏の演算結果に基づいて、具体的な運営計画を立案・実行する、巨大な中央制御室であった。その内部は、国家の機能に応じて、以下のような局に分かれていた。
エネルギー供給局:
全ての地熱プラントの稼働状況と、国内のエネルギー需給バランスを24時間体制で管理する。八咫烏の予測に基づき、数週間先のエネルギー需要を算出し、各プラントの出力をミリ秒単位で調整した。
食料供給局:
全ての垂直農場の生産計画と、国民一人一人への「標準栄養ブロック」の配給を管理する。各市民の健康データに基づき、必要な栄養素を微調整した、個人別の栄養ブロックを製造・配給するシステムさえ、この時代にその原型が作られた。
社会基盤局:
マンナン・クリートを用いたインフラの建設・保守、および都市計画を担う。彼らが建設した都市は、いかなる装飾も排した、機能美のみを追求した幾何学的な構造物であり、資源とエネルギーの効率が最大化されるよう設計されていた。
システム防衛局:
国境警備、国内の治安維持、そしてサイバーセキュリティを担当する、事実上の軍隊・警察組織。彼らの任務は、国土を守ること以上に、システムの安定を脅かす、あらゆる「ノイズ(逸脱分子)」を、迅速かつ効率的に排除することにあった。
人的資源局:
国民の教育、職業適性の判定、そして各階層への配置を管理する。教育は、全国民に標準化された知識を注入するための効率的なプロセスと見なされ、VRを用いた没入型学習プログラムが、幼少期から導入された。
第三節:八咫烏――計算による神託
術政庁の意思決定の根幹をなし、公国の中枢神経系として機能したのが、中央演算システム「八咫烏」であった。
命名の由来とその本質:
八咫烏とは、旧日本の神話において、神の意志を地上に伝え、初代天皇を導いたとされる三本足の烏である。金子志道は、この神話上の導き手を、自らの合理主義哲学を民衆に理解させるための、巧みな象徴として転用した。彼は、旧時代の非合理的な迷信を理性によって克服するという思想に基づき、八咫烏を再定義したのである。彼にとっての八咫烏は、神意という曖昧な神託をもたらす存在ではなく、膨大なデータから唯一の正解を導き出す、最も合理的なる『神算(神の計算)』を提示する、新たなる時代の導き手であった。その三本の足は、システムが参照する三つの根源的データ、すなわち【エネルギー資源】【生命資源(超蒟蒻)】【人的資源】を象徴していた。
機能と役割:
八咫烏は、帝国全土に張り巡らされたセンサーネットワークから、あらゆる情報をリアルタイムで収集していた。地熱プラントの出力変動、垂直農場の成長率、各市民の栄養摂取量や労働時間、そして国境線に接近する動体の数。これらの膨大なデータを統合・分析し、国家にとっての最適解を、常に計算し続けていた。例えば、「ある地域でエネルギー消費量が予測を上回った場合、どの施設の出力を抑制し、どの備蓄ラインからエネルギーを補填すれば、システム全体の効率低下を最小限に抑えられるか」といった問いに対し、八咫烏は、術政庁が行動を起こす前に、複数の実行可能な選択肢を、それぞれの成功確率とコストと共に提示した。
公国時代における限界:
重要な点は、公国の時代において、八咫烏は、あくまで最高の諮問機関であり、最終的な意思決定者ではなかったという事実である。八咫烏が提示する「神算」を評価し、その中から一つを選択し、実行を命じる権限は、唯一、公たる金子志道にのみ留保されていた。八咫烏は、確率と効率を計算することはできても、その決定がもたらす、計算不能な長期的影響や、人間心理への作用までは予測できなかった。この「人間による最終承認」という安全装置こそが、後の帝国体制との、決定的な差異であった。
第四節:その他の特徴的システム
法体系:「体制遵守法」
公国には、旧時代のような、道徳や倫理に基づく法典は存在しなかった。それに代わって施行されたのが、ただ一つの最高法規「体制遵守法」である。この法の下では、人間の行為は、「善悪」ではなく、「システムへの貢献度」という基準によってのみ裁かれた。例えば、殺人は、道徳的に悪であるからではなく、『貴重な人的資源の非合理的損失』という理由で最も重く罰せられた。同様に、システムの効率を損なう芸術活動や、非生産的な思索に耽ることは、『エネルギー資源の浪費』と見なされ、資源クレジットの減額という罰則の対象となった。同様に、術政庁の決定に異を唱えることは、「システム全体の意思決定プロセスを遅延させる、非効率的な行為」として、厳しく罰せられた。
社会構造:「職能階層制」
後の帝国における厳格な三階級制の原型となったのが、「職能階層制」である。国民は、幼少期から、八咫烏によってその遺伝的素養と認知能力を分析され、国家システムの中で最も効率的に機能できる、最適な職業階層へと振り分けられた。これは、個人の自由意志を完全に否定するものであったが、「各人が、その能力を最大限に発揮できる場所で、国家に貢献する」という、究極の適材適所として、合理化・正当化された。術政庁は、これを、旧世界の不平等な「機会の偶然」から人々を解放し、科学的な根拠に基づく「必然の幸福」を与えるものだと説いた。
結論:天才によるプロトタイプ国家
上毛公国の国家体制は、建国者・金子志道という一個人の天才的な頭脳によって設計され、その個人的な権威によって辛うじて統制された、壮大なるプロトタイプ国家であった。そのシステムは、驚くべき効率性と安定性を実現したが、その一方で、その存続の全てを、金子志道という、ただ一人の死すべき人間の存在に依存するという、致命的な脆弱性を内包していた。彼が世を去った時、この完璧なる機械は、その操縦者を失い、暴走か、あるいは停止するしかなくなる。この構造的欠陥こそが、彼の死後、術政庁が、国家の権威を個人からシステムそのものへと移行させ、「帝国」という、より非人格的で、永続的な統治形態へと移行せざるを得なかった、根本的な理由だったのである。




