夏の終わり
湿った空気が纏わりつくような、重苦しい夏の日。
私は、汗ばむ手のひらにぎゅっと握りしめた小さな花束を見下ろした。
おばあちゃんは、病院じゃなくて家に帰りたいって、そう言った。そしてもう長くないって、お母さんは泣きながら私に告げたのだ。
おばあちゃんの家は、築何年なのかもわからないような古い木造家屋だった。
庭の草木はちゃんと手入れされていて、季節の花が咲いている。夏には蝶がひらひらと舞っていて、まるで舞踏会のように美しい。
そんな賑やかなはずの庭も、今日に限ってはひどく静まり返っていた。
玄関を開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。土間から廊下へ続く道は薄暗く、昼間だというのに奥は闇に沈んでいるようだった。
「おばあちゃん、来たよ」
声を絞り出すように言ったけれど、返事はない。
しんとした家の中に、ただ自分の足音だけが響く。おばあちゃんの部屋は、いつも日当たりの良い縁側に面した場所だ。そこへ向かう廊下の途中で、私はふと立ち止まった。
視線の先、廊下の角に、小さな生き物がいる。
それは猫のように見えるけれど、白いお面をつけていた。
はっきりと見えているのに、輪郭がぼんやりとしていて、見ているだけでも奇妙な感覚だ。
私にとっては、これが日常だった。
昔からこういうものが見える。みんなには見えないもの。小さい頃は、それを口に出して何度かひどく叱られて、いつしか誰にも言わなくなった。
見えているけれど、いないふりをする。それが、私には普通のこと。
けれど、今日はたくさん見える。さっきの猫もそうだけど、物干し竿の上にいる奇妙な鳥も、天井を走り回っている音も、他の人には見えないし、聞こえないものだ。
私はそれらを無視して通り過ぎる。その時、ふわり、と。
薔薇の香りがした。
「おばあちゃん…」
私は小さく呟いた。
いつもの部屋で、布団の上で横になり、首だけを向けて庭を見ているおばあちゃんがいた。
「あんた、幽霊とか、お化けとか、信じるかい?」
縁側でひなたぼっこする私の横で、お茶をすすりながら、おばあちゃんはいつもそう言うのだ。
「ばあちゃんはね、一度でいいから見てみたいんだよ。いつか、見えるといいんだけどねぇ」
寂しそうに笑うおばあちゃんの顔が、鮮やかに脳裏に蘇った。
おばあちゃんは私が来たのに気づいたのか、こちらを向いて優しい笑みを見せる。
また、薔薇の香りがした。
ふと庭に視線を向けると、薔薇が見えた。
いくつもの花を咲かせた薔薇がこちらを見ている。そんな気がした。
おばあちゃんも、この薔薇を見ていたのだろう。
「綺麗な薔薇だね」
私が言うと、おばあちゃんはわずかに目を大きく開けた。それから優しく笑う。
「そうだろう? 自慢の薔薇だからね」
その時ぽたりぽたり、と。雨が降りだした。
空は青いのに、雨が降っている。天気雨だ。
「ああ、薔薇が散っちゃう……!」
雨粒に当たって、薔薇の花弁が落ちていく。
それはまるで桜吹雪のようだった。美しいけれど、儚い、短時間の光景。
おばあちゃんが庭を眺めながら、言った。
「花をひとつ、持ってきてくれるかい?」
私が頷くと、「刺には気をつけて」と言ってくれる。
サァ、と降っている雨に当たりながら、薔薇に近づいた。その中から散ってない、一番綺麗な花を摘んで、私は濡れないように手で守った。
そしておばあちゃんの元に行き、手を開く。
「綺麗な、真っ赤な薔薇の花だねぇ」
おばあちゃんは薔薇を受け取ると、なぜか涙を流した。
「ありがとう。ありがとうね」
枕元に座った私の手をおばあちゃんが握る。皺だらけで細い手は、力強くて、そして温かい。
その日の夜、別室で親戚の子たちとご飯を食べていると、おじさんが襖を開けて入ってきた。
おばあちゃんが息を引き取ったらしい。
急いでおばあちゃんの元に向かった。
部屋には親戚の人たちや、お父さんとお母さんもいる。みんな悲しそうだ。
亡くなったと言われたのが、信じられないくらい、おばあちゃんは、ただただ眠っているだけのようだった。
誰かが言った。
「おばあちゃん、嬉しそうだったわね。薔薇の花、そんなに好きだったのかしら」
私は庭にある薔薇の木を見た。
茜色に染まった庭に、ぽつんとある薔薇の木には、もう花はひとつもついていない。
「でも、誰が持ってきたんだろうな」
私は会話してる方に顔を向けた。
「そうねぇ。庭の薔薇の木は、もうずいぶん前に枯れちゃってるものね」
唖然とした私は、また薔薇の木を見る。そこには美しい女性が立っていた。
茨がまとわりついたような彼女は、少し悲しげな目で、こちらを眺めている。
◆◇◆◇◆
私は、制服に着替えたあと、タンスの上にある写真立てに手を合わせた。
そこにはおばあちゃんと子供だった頃の自分の姿が写っている。
「おばあちゃん、行ってきます」
私はそう呟く。
写真立ての横に置いている、木彫りの人形を持つと、その紐に首を通した。
最近は、以前とは違って「退屈」では無くなってきた。
それは後輩のせいだ。
後輩は、いつも子犬のように寄ってくる。それは自分の体質のせいだろうか。それとも彼女の体質のせいだろうか。
私からすれば、どうでもいいことだ。
何の代わり映えもしない日常も、誰にも信じてもらえないような非日常も、繰り返していると飽きてしまう。
普通の人間として生きるのも、普通じゃない人間として生きるのも。
どちらを選んでも、奇妙なモノは見えてしまう。
これが私の日常なのだ。
いくら他人の日常とは違っても。
嫌だと思っても。
私は偽り続けないといけない。
あるいは、演じ続けないといないのだ。
そして、そんな日常も、私にとってはただの日常でしかない。
だから私は今日も思うのだろう。
「退屈だ」
と。
祓い屋先輩シリーズの先輩の子供の頃の話です。
短編はこれで終わりにしようかな、と思っていて祓い屋先輩の長編を書いてみようと思ってます。
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