第2話 サバイバルマニア、狩人との出会い
【榊原 蓮】
俺は改めて、目の前の惨状と、隣で震えるクラスメイトに視線を移した。ゴブリンの醜悪な亡骸。破り捨てられた制服の布地。そして、恐怖に顔を青ざめさせ、ただ小刻みに体を震わせる一ノ瀬結花。
彼女の瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。声にならない嗚咽が、か細く漏れている。無理もない。日常からいきなりこんな非日常に放り込まれ、命の危険に晒されたのだ。パニックにならない方がおかしい。
俺は無言で自分のブレザーを脱ぐと、そっと彼女の肩にかけた。少しでも、惨状から目を逸らせるように。そして、冷え切った体を温められるように。
「……っ」
一ノ瀬はびくりと肩を揺らしたが、俺だと分かると、ブレザーの襟をぎゅっと弱々しく握りしめた。
「大丈夫だ。もう、何もいない」
慰めの言葉なんて、気の利いたセリフは思いつかない。ただ、事実を淡々と告げることしかできなかった。
「俺がいる。だから、大丈夫だ」
俺の言葉に、一ノ瀬はこくこくと小さく頷く。それでも涙は止まらないようだった。今は、泣きたいだけ泣かせてやるのが一番だろう。そう判断し、俺は周囲への警戒を怠らずに、彼女が落ち着くのを待つことにした。
その時だった。
ガサガサッ!
背後の茂みが、不自然に大きく揺れた。
(まずい!)
俺は瞬時に一ノ瀬を背中にかばい、近くに転がっていた石を再び拾い上げる。さっきゴブリンを仕留めた、血の付いた石だ。
(何たる不覚……! サバイバルマニアを自負しておきながら、背後を取られるとは!)
ゴブリンの仲間か? それとも、もっと厄介な獣か? 心臓が警鐘のように鳴り響く。最悪、一ノ瀬を抱えて逃げるルートを瞬時に脳内で組み立てる。
緊張が極限まで高まる中、茂みから現れたのは……ゴブリンではなかった。
「……人間?」
そこに立っていたのは、一人の男だった。年の頃は三十代だろうか。使い込まれた革の鎧を身につけ、腰には鞘に収まった短剣。そして何より目を引いたのは、肩に担がれた古めかしい鉄砲だった。火縄銃、というやつだろうか。顔には深い皺が刻まれ、厳しい自然の中で生き抜いてきたであろう、山の猟師のような風格を漂わせている。
男は俺たちとゴブリンの死体を交互に見やると、わずかに目を見開き、やがて低い声で口を開いた。
「おい、大丈夫か?」
その言葉に、俺は耳を疑った。
(言葉が……分かる?)
驚くべきことだった。男の顔立ちは、彫りが深く、髪の色も赤茶けていて、どう見ても西洋風だ。日本人ではない。それなのに、彼が発した言葉は、ごく自然な日本語として俺の耳に届いた。ファンタジー小説でよくある『言語翻訳魔法』的なものが、この世界には標準装備されているのかもしれない。
警戒は解かずに、俺は短く答えた。
「……ああ、なんとか」
男は鉄砲を肩から下ろすと、ゆっくりとこちらに近づいてくる。敵意は感じられない。
「そのゴブリン……あんたがやったのか? 坊主」
「そうだ」
「ほう。その歳で、石ころ一つで仕留めるとは大したもんだ」
男は感心したようにゴブリンの死体を見下ろすと、忌々しげに舌打ちをした。
「こいつらを始末しに森へ入ったんだが……先を越されちまったようだな。おかげで、そこの嬢ちゃんも無事だったわけだ」
「あんたは?」
「俺か? 俺はただの狩人だ」
狩人、と名乗った男は、俺たちに警戒を解かせようとするかのように、少しだけ口元を緩めた。
「町からの依頼でな。最近この森にゴブリンが住み着いて、旅人を襲うんで退治してくれ、とさ。あんたがそいつを仕留めたんなら、町に報告すりゃ報奨金が出るはずだ」
「報奨金……」
それは、願ってもない情報だった。金銭が存在し、町があり、依頼を出すような組織もある。つまり、この世界には社会が機能しているということだ。
俺が思考を巡らせていると、狩人は「ま、そのためにはな」と呟きながら、腰の短剣をこともなげに引き抜いた。俺と一ノ瀬がびくりと身構えるが、男は俺たちを一瞥もせず、ゴブリンの死体のそばにしゃがみ込む。
「討伐の証拠ってやつが必要でな。嬢ちゃん、ちと見ない方がいいぜ」
そう言うと、男は手慣れた手つきでゴブリンの尖った左耳を掴み、短剣の刃元でザクリと切り落とした。そして、血の滴るそれを革袋に無造作に放り込む。一連の動作に、一切の躊躇はなかった。
隣で一ノ瀬が「ひっ」と息を呑み、俺のブレザーで顔を覆うのが分かった。これが、この世界で生きていくということなのだろう。俺はそんな現実を冷静に受け止めながら、狩人に問いかけた。
「町は、ここから近いのか?」
「ああ。半刻も歩けば着く。どうする? 案内してやろうか?」
断る理由はなかった。むしろ、渡りに船だ。俺は背後の一ノ瀬を振り返った。
「一ノ瀬。どうする?」
彼女はまだ怯えた様子だったが、こくり、と力強く頷いた。その瞳には、か細いながらも「生きたい」という意志の光が宿っているように見えた。
「……わかった。あんたを信じよう。案内を頼む」
「おう、任せとけ。俺はグレイグだ。あんたたちは?」
「俺は蓮。こっちは一ノ瀬だ」
グレイグと名乗った狩人は、にかりと笑うと、俺たちに先を歩くよう促した。
「よし、行こうか。こんな気味の悪い場所に長居は無用だ」
俺は一ノ瀬の腕を軽く支え、グレイグの後について歩き始めた。鬱蒼とした森の先に、人の営みがある。その事実だけで、胸の内に微かな希望の灯がともるのを感じていた。
「……れん君。ありがとう」
その声は、さっきよりほんの少しだけ強かった。
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