今日の主役が誰か、お忘れみたいですね
「もうやめて!二人とも、私のために争わないで!」
視界を埋める華やかな礼装。そして裏がありながらも優雅で高貴な人々が今宵も楽しむ夜会の場で、場に相応しくない声が上がった。
人々の注目を一身に集めているのは三人の男女。
一人はロメイン・ヴェストリウス侯爵令息、一人はフェンネル・ロンバルディ公爵令息だ。
そして二人に挟まれるようにして立っている一人は、今年の社交シーズンで注目の的だった令嬢。
社交界の子猫と呼ばれている彼女のドレスは、白を基調として紫のグラデーションが入った色合いに銀糸で細やかな刺繍が刺されているものだ。
一介の男爵令嬢では身に着けられるはずのない、最上級ともいえる仕立てのドレスと揃えたらしいアクセサリーも紫。
令嬢を抱き寄せるロメインの婚約者とでもいいたげな色に、周囲の令嬢達が冷え切った目で見つめている。
彼女達がそんな目を向けるのは嫉妬でもやっかみでもなく、婚約者でもない相手の色を纏う非常識さを責めているものでしかない。
その視線の先にいるのは彼女だけではないけれど。
唐突に始まった立ち回りを好奇の目で見る者、非常識な振る舞いに侮蔑の視線を向ける者、何も悟らせぬように貴族然とした笑みを貼りつけたままに一部始終を見守ろうとする者。
後は対処をどうしたものかと考えて胃を擦っている王宮で現在も勤務中の者ぐらいか。
他よりも座の高い場所であればこそ、小柄なカリフローレでも貴族達の顔を確認することができる。
未だ王も王太子も入場していないからこその振る舞いなのか、目の前で繰り広げられる非常識な三人に、大半の貴族が情けなくも本音を顔に出し過ぎである。
正に恋は盲目であり慢心は敵だと思いながら、高貴なる身として手本は示さねばならぬと笑みは絶やさぬままに扇を開いた。
主催者が空の座であることをいいことに、この場の主役は我々だといわんばかりな彼らの態度と、自身の子を諫められない愚かな親達には呆れの感情しか持てない。
そもそも彼らは成人しているはずだというのに。
本当に恋というものは恐ろしいものである。
王の到来を待つ玉座の近くにいたカリフローレは、男爵令嬢の耳元で揺れるイヤリングを見ながら、扇で隠しつつ盛大に溜息をついた。
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今シーズンの社交の場は、どこに行っても彼らと彼女の名前が一番話題になっていたといって差支えはないだろう。
王家主催のチャリティーイベントとして定期的に開催される、デビュタントを迎えるご令嬢のための中規模な舞踏会に参加するリストへと、唐突に追加された名前がロマネスカ・トスティだった。
どうやらトスティ男爵の姪らしく、駆け落ちした弟夫婦の娘であったが両親が他界し、不憫に思った男爵が引き取ったとのこと。
実際は体裁上の作り話だ。
カードを裏に返してみれば、魅惑的な娼婦を高い金で身請けして囲った先での子どもだったという、息子の婚約者を探すためなら調査を怠らない貴族たちの間では有名な話である。
既に男爵夫人は嫡男であった子息を連れて実家に帰っているので、限りなく真実に近いのだろう。
そんなロマネスカ・トスティは昨年までは平民として生きてきた少女で、貴族の礼儀作法も何も知らないまま、貴族向けの学園へと編入したと聞いている。
地頭は良かったらしく学園内での成績は悪くはなかったのだが、どうにも貴族らしい振る舞いが苦手らしく、実に天真爛漫であったことだったと学園に通っていた誰もが知っていることだった。
もっとも天真爛漫であることを素直で可愛らしいとするか、貴族らしくあることを放棄した無作法者とするかは、男女で意見が大きく分かれるところだが。
貴族の礼儀作法を放棄したのか自由にのびのびと振る舞う様から学園で度々女生徒からは注意を受け、そして自分が愛されない僻みだとしてロマネスカ嬢を庇う男子生徒が現れ、結果として彼女が編入した一年間で、婚約解消や婚約破棄になった令嬢や令息は何組か現れている。
直接彼女が何かしたわけではない。彼女のしたことは婚約者のいる男子生徒に対して声をかけたり、手作りのマフィンを手渡したり、腕に抱き着いたりしたことぐらいだ。
確かに貴族としての視線ならば、眉を顰める行動の数々に注意をするのは当然だといえる。
けれど婚約破棄に関してだけでいえば、互いの信頼関係が構築できていなかったと言われても仕方がない。
それでも彼女に関わった者達の婚約がご破算となるのだ。
割と早い内から接触しないように言い含められた令嬢令息が出てくるのも当然で、同学年の女生徒全員と婚約破棄なんてしたくない男子生徒は関わらないように一線を引いた。
それによって流れが大きく変わることになる。
良い方にではない。今回の騒動に至る切っ掛けなので悪い方だと言ってもいいだろう。
ロマネスカ嬢が長期休暇の後に学校へと来てみれば、波が引くように距離を空けられ、自分へと話しかけなくなったクラスメイトに驚いた。
彼女に降りかかった災難は自業自得だといえるもの。
けれど今度は虐められているのだと、目立つ場所で泣き出すようになったのだ。
そんな彼女に引っかかったのが、そこまで噂の回っていない上位クラスの上級生で、特にロメイン・ヴェストリウス侯爵令息が方向性を間違えた正義感から、フェンネル・ロンバルディ公爵令息はナンパぐらいの気持ちで声をかけたようで、最終的に恋の三角関係が噂されるようになってしまっていた。
ヴェストリウス侯爵令息は己の正義感を庇護欲と恋に変換し、ロンバルディ公爵令息は今までにいない真っすぐで貴族らしくなかった面白い女に惹かれたらしい、というのが学園に在籍している生徒の一人であった友人から聞いた話だ。
高位貴族の子息二人との三角関係は瞬く間に学園の外までも噂が拡散されていった。
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「ロンバルディ公爵令息」
少し高い澄んだ声が掛けられた。
視線を向ければ、玉座の近くにいるはずのカリフローレが、こちらへと歩み寄っているのが見える。
フェンネルが急いで臣下としての礼をすれば、一拍遅れてロメインも礼をする。
その中でロマネスカだけがキョトンとした顔でカリフローレを見て、それから二人を見て、わからないといわんばかりに首を傾げた。
「二人とも、どうしたの?」
フェンネルが慌てて礼をするように促したが、ロマネスカは弾けるように笑って「別にお辞儀の仕方を忘れてないよ。さっきもしたから今はしたくないだけ」と返してくる。
薄氷の君と呼ばれるほどに無表情で知られるロメインの、まさか驚愕する顔を見ることになるとは思わなかった。
とはいえ普段から愛想笑いばかり浮かべているフェンネル自身も、多分、同じ表情で彼女を見ているのかもしれないが。
デビュタントをまだ迎えていない王女、カリフローレは柔らかなレモンイエローのドレスと自身の瞳の色であるエメラルドの宝石で身を飾っている。
歩く姿や扇を持つ所作も美しく、立派な王族の一員だといえるだろう。
そんな彼女が口元を隠しつつ、穏やかな笑みを浮かべながらもかけてきた言葉は窘めるものであった。
「ロンバルディ公爵令息、騒がしくするのはよくないわ」
声は怒っておらずとも、眼は少しも笑っていなかったが。
誰もが固唾を呑んで静観する中、突拍子もない行動で動き出したのはロマネスカだった。
彼女はドレスがはしたなく翻るのも気にせずに大股でカリフローレに近づいて、胸元のネックレスを指さす。
「そのネックレス素敵ね!
でも今日は王女様が誕生日だから、少し地味な恰好がいいことを知らなかったんでしょ?
目立ちすぎるといけないから私が預かってあげる!次に会う時にでも返してあげるから!
ほら外して、早く」
誰もが息を呑む瞬間だっただろう。
カリフローレへと無造作に手を伸ばすのを、フェンネルが体ごと移動して遮る。
「フェンネル様、意地悪しちゃ駄目ですよ。
その子が怒られるかもしれないのに可哀そうじゃないですか」
両の手を腰に当て怒っているんですというポーズと、上目遣いでフェンネルを見るロマネスカに溜息だけ落とした。
カリフローレもロマネスカを一瞥だけして、フェンネルへと視線を戻して「静かにしてもらわないと」と途切れた会話を続けようとする。
それをどう思ったのか、ロマネスカがフェンネルの腕に手をかけて押し出そうとしながら、カリフローレへと再び口を開いた。
「ちょっと、無視するなんて最低よ!
ちゃんと礼儀を習わなかったの?私の方が年上だし、それにロメイン様と交際しているから侯爵家の関係者だし、交際できないからお断りしたフェンネル様だって公爵様の息子だから偉いのよ!
いくら子どもだからって挨拶をしないのは許されないわ!」
瞬間、会場が沈黙に包まれた。
誰もが息を殺してロマネスカを見ていた。
カリフローレはフェンネルから視線を外すと、ロマネスカを見て短く告げる。
「私が、貴女のいう王女ですが」
カリフローレの切り返す言葉に、ポカンとロマネスカの口が開いたままとなった。
「驚きで煩く囀る口も無くなってしまったのかしら。
私がその王女ですが、ロンバルディ公爵令息に声を掛けたのは従兄であればこそ。
馴れ馴れしく話しかける見知らぬ方に、こちらから掛ける言葉など本来ありません」
「ああ、でもそうね。用事を思い出してしまったわ」
カリフローレがくるりと方向転換した先に立つのはロメインだ。
恋人を宥めるように肩を引き寄せていた彼は、カリフローレと目が合った瞬間に眉間へと皺を刻む。
「ヴェストリウス侯爵令息、一つ尋ねるわ。
嘘偽りなく答えなさい」
カリフローレの視線は冷たい。
「今宵の夜会に招待したのは伯爵以上の家格に属する者のみ。
それなのにロマネスカ・トスティを連れてきたのは貴方かしら?」
「そうです。ですが彼女は私の恋人です」
経営科ではなく騎士科に所属していたからか背筋を正し、真正面から答えを返すロメインを、けれどカリフローレの視線が緩むことなどない。
「愚かな回答をどうも。さらに問いましょう。
今夜の夜会に同伴できるのは家族もしくは家族同等の婚約者のみ。婚約者であっても伯爵位以上でなければ認めていません。
これはデビュタントもまだな私の祝い事であればこそ人を選んだものであると、招待状には正しく記載されていたはず。
それなのにロマネスカ・トスティを、婚約者ですらもない相手に自身の色をしたドレスを与えて連れてきたのですか?」
「そ、それは」
語尾が消え失せて言い訳が立たないのだという、自身の劣勢を察したロメインが視線を逸らす。
「この騒ぎについては、ロマネスカ・トスティがいることをロンバルディ公爵令息が注意して、陛下が入場される前に立ち去ることを諭していただけと知っています。
なにせ彼に頼んだのは私ですから。
それなのに貴方達は、自分が彼女に選ばれたから僻んでいるのだとか、ドレスがヴェストリウス侯爵令息の色だから見ているのが辛いのねとか、本当にわけがわからないことばかりを言って。
でもまあ似た者同士だから、周囲の様子に気づかないものよね」
「カリフローレ王女殿下!ロマネスカ嬢を貶めるのは止めて頂きたい!」
ロメインが抗議の声を上げたが、馬鹿にされたのが自分でもあるとは思ってもないらしい。
おめでたい頭だとフェンネルは思い、そして学園にいた頃には二人と同等ぐらいの目で見られていたことを思い出して、少しばかり気が重くなるのを感じながらもフェンネルはどこまでも笑みを絶やすことはない。
貴族である以上、目の前の二人のように感情を露わにするなんてことはしないのだ。
「この件については後日きちんとヴェストリウス家より釈明を頂けると思っていますけど、それよりも大事な本題があるの」
扇を閉じた瞬間、カリフローレの表情がすとんと落ちて消え失せた。
「ロメイン・ヴェストリウス侯爵令息には、かねてより王家より婚約者候補の申し入れがあったはず。
いつまでも返事を保留にされているのは、ロマネスカ嬢と上手くいかなかったときの保険かしら?」
途端に夜会でざわめきが波のように走っていく。
半年前に王女との婚約者候補の打診がいくつかの家にされていることはどこの貴族も知っているし、どこの家も栄誉なことだと早急に返事をしている。
我が国は比較的平和な国であることから、余程の理由がない限りは婚約者のいる家や後継者の少ない家には申し入れをすることなどないし、相性がよくなさそうだといった理由や息子が望んでいないという理由で断って構わないとしているからだ。
ヴェストリウス侯爵令息は家格として釣合が取れることから最適だったとしても、婚約者とする相手がいるのだったら断るだけでいいのだ。
断ることは許されるが、返答しないままとなれば話は別。
すでに他家からは一月も経たない内に丁寧な返信を受け取っていると聞いている。
未回答のまま捨て置いているのはヴェストリウス侯爵家だけ。
これではヴェストリウス侯爵家がただの男爵令嬢と王女を天秤に掛け、王家を蔑ろにしたと取られても仕方ないだろう。
「ヴェストリウス侯爵は領地に戻って久しいから、書状を受け取って返事は不要と判断をしたのはロメイン・ヴェストリウス侯爵令息かしら。
それとも当主からの書簡を握り潰したのかしら」
とうとうロメインが俯いてしまったが、暴かれて困るような事など最初からしなければよかったのだ。
ここで許す気などないようで、カリフローレの目は攻撃的な熱を帯びたまま。
ふわふわとした巻き毛の淡い黄金と、輝く緑玉の瞳、小柄な体から、王宮で愛されるだけの掌中の珠だと思っているようだが、フェンネルは彼女の苛烈さをよく知っている。
外見など当てにならないことなど、貴族社会では当然の話だというのに。
「そうでもしないと、私は貴女と婚姻させられてしまう!」
悲痛な声を上げたロメインを鼻で嗤う。
「言わせて頂きますが、私だって貴方との婚約はお断りだったし、王家という立場から侯爵という家柄を無視することができないから体面上送っただけ。
今シーズンの社交場でこれだけ醜聞ばかりを賑わせている方に誰が嫁ぎたいものですか」
カリフローレの言葉は容赦なくロメインを刺していく。
「そんなの最初から言ってくだされば、」
「言えるわけがないでしょう。
貴方の家に嫁ぐ気はないけど仕方なく送ってあげただけだから、さっさと『いいえ』の返事を書いて寄越しなさいって。
とんだ恥を晒すことになるのに?
貴族社会は裏の事情を察するものだし、自身の立場は常に把握しているもの。
本来ならば打診する価値すらない相手だと判断されていたのに、貴方のせいで夜会に参加できずに困っている貴方の妹のアンジェリカが私の友人だから、侯爵家の面目が保たれるよう差配しただけよ。
けれど、まさかここまで浅はかだったとは」
そうしてからロマネスカのドレスをじっと見つめる。
「彼女のために仕立てたにしては少しサイズが合わないようだけど。
当然よね。アンジェリカのドレスを奪って、ロマネスカ・トスティに与えているのだから」
カリフローレの発言に、周囲で再びざわめきが広がり始める。
兄妹なだけあってアンジェリカ・ヴェストリウス侯爵令嬢の髪と瞳は兄であるロメインと同じ。
婚約者がいなければ自身の色を纏ってもおかしくはない。
「確かにアンジェリカと背格好は近いでしょうけど、婚約者として認められることのない恋人のために妹の仕立てたドレスを盗んで与えるなんて、ゾッとする話だわ。気持ち悪い」
元々寒空の下を感じさせる冷たさを宿していたご令嬢達だけではない、娘のいる貴族や、真っ当な倫理観を持つ親の立場にいる者は、今日という晴れ舞台の主役のように振る舞っていた美しいばかりの令息に刺すような視線を送る。
驚きや呆れと侮蔑が内包された目を向けられることなど初めてなのだろう。
ロメインが狼狽えたように周囲を見回しているのが滑稽だ。
「証拠、そう、証拠がない」
「あるわ」
誤魔化そうと証拠と言い出したロメインに、カリフローレはあっさり返す。ロメインが窺うように見つめていたが、カリフローレがイヤリングに触れると気づいたように表情を変えた。
「あら、気づいたようね。
ロマネスカ・トスティが身に着けているイヤリングと、色違いだけどデザインが同じでしょう?
当然よね、私はアンジェリカとお揃いになるようにと一緒に作ったのだから」
つい半刻前まではお祝いムードを孕んだ熱気に満ちていたのに、今や誰もが冷めた空気の中で事の成り行きを眺めている。
中心でロメインとロマネスカが身を寄せ合っているが、同情を浮かべる者など誰もいない。
「私はアンジェリカと誕生日を祝えるのだと、彼女宛に招待状を書いたというのに。
それなのにノコノコとやってきた愚か者が二人」
かつ、という床を歩くヒールの音がやけに響く。
「王家としても私個人としても侯爵家には改めて抗議の文を送らせてもらうわ」
「そんなことしたら父にばれてしまう……!」
途端に顔色を酷く蒼褪めさせたロメインにはさすがにカリフローレも呆れの顔を隠せないようだった。
「本気で言っていらっしゃるの?
返事が無い以上はこちらとて催促せざるを得ないでしょうし、それすらも返事がないようだったら直接使者が回答を貰うために当主のいる先へと向かうのだから、遅かれ早かれヴェストリウス侯爵令息のしたことは知られることになったでしょうに」
「今ここで断ります!だから止めてください!」
必死の懇願にカリフローレの表情が変わることはない。
「政略結婚は家と家の結びつきであり、婚約者候補の打診は私ではなく王家が出したもの。
ならば返事ができるのは当主であり、承諾するのは陛下だけ」
ここまでの大舞台で臆することなく年上を威圧する小さな王女を、誰もが陶酔したように眺めている。
勧善懲悪であればこそ、彼女の苛烈さは讃えられ、広い舞台でも輝くのだろう。これすらも狙って振る舞っているのだから、陛下が「男であれば」と残念そうにしていたのもわかる話だ。
フェンネルとしてはカリフローレが可愛らしい少女で良かったと思っているが。
これだけ大立ち回りをするのだ。男だったら手も足も剣も出ていたかもしれない。
口だけを武器に主役の座を取り返したカリフローレが、扇を口元に当て、眉を顰めてみせる。
「学園で何を学び、何をもって成人したのかしら」
「ひ、ひどいです!
いくら私が元平民だからって馬鹿にするのも程があります!」
悲鳴にも似た声の高さと涙目で抗議するロマネスカ・トスティを、カリフローレは虫けらがいるかのような目で見た。
「元平民ではないわ。今も平民よ」
「え、嘘!だってお父様に引き取られたし!」
確かに申請はあったけれど、とカリフローレの首が僅かに傾く。
「残念だけど貴女の庶子承認申請に不備があったので、庶子としての立場は解消されていてよ」
は、という短い言葉がロマネスカの口から零れ落ちた。
「トスティ男爵夫人より申し立てがあったので、貴女の出生を改めて国の役人が確認したの。
ロマネスカ・トスティの母親は、まあ見事に多くの元顧客を引き込んで贅沢するためのお金を手に入れていたようね。
お陰で父親は一切わからないまま。勿論男爵の可能性だってあるのだけど、可能性だけでは認められないわ」
そうしてロマネスカへと目を向ける。
ふんわりと波打つピンクゴールドの髪は男爵にも愛人にも似ていないもの。
ヘーゼルの瞳は男爵と同じだが、華やかに色づく金糸の髪は男爵家の先祖にも、愛人の直近の親族でも見当たらなかった。
そうなると本来の父親の色だと判断される。
男爵に囲われていようが、他に可能性があるのならば実の子とは認められない。残るは養子縁組となるが、男爵に実子がいる以上は必要性なしと判断されるに違いない。
あまつさえ立場を偽って庶子の申請までしていたのだから、養子縁組の申請など棄却されるだろう。
「ヴェストリウス侯爵令息は平民ロマネスカ・トスティと添い遂げるのでしょう?
ならば当主になるのは難しいわね」
友人がされたことへの怒りからか、逃げ道を作ってやるつもりもなさそうだ。
「まさか、王家を蔑ろにしてまで手に入れた大切な恋人を、簡単に手放したりしないわよね」
カリフローレが浮かべる微笑みは淑女でありながら、獰猛な獣のようにも見え、フェンネルの目を離さない。
「私は、私は」
言葉にならずに同じことを繰り返しているロメインに、カリフローレが鷹揚に頷いてみせる。
「ええ、大丈夫ですわ。
二人が添い遂げられるよう、陛下に頼んで王命を出してもらいましょう。
さあ皆様、これから長く添い遂げる二人に祝福の拍手を!」
カリフローレに高々と宣言され、まばらに始まった拍手はそれなりに大きく会場内へと響く。
決して好意的ではない拍手に包まれて、引き攣った顔の二人が何を考えているのかは聞く必要もない。
後悔も謝罪も懺悔も、今では手遅れでしかないのだから。
「安心なさい。貴方が継がずとも、ヴェストリウス家には優秀なアンジェリカがいるわ。
彼女には私が責任をもって素敵な方を紹介するつもり。
王家からフォローが入れば、侯爵家の威光を多少でも取り戻すのには十分でしょう?
貴方は領地に引っ込んで、アンジェリカに土下座と謝罪でもして仕事をさせてもらいなさいな」
別に王都で働くのでもいいけど、と含み笑いをする。
「どんなに腕が良かろうと、王家に無礼を働いた貴方が近衛にも騎士にも文官にもなれると思わないで。
王家の尊厳に泥を塗りつける臣下など、王家の誰もが認めません。
それに逆恨みで後ろから刺されるなんてお断りよ」
ひらりと扇が舞う。
「ああ、でも顔はよろしいものね。
高貴なご婦人方だったら飽きるまで傍に置いてくれるかもしれなくってよ。
そういうお仕事もあるのでしょう?私ではどなたも紹介できないけれど」
断罪は終わった。
ロメインは呻き声を漏らして膝から崩れ落ちる。
既にロマネスカは拘束され、声を出さないように猿轡をされていた。
*******************
「ほんっとに要領の悪い人ね」
あの夢だと思いたい結末へと至った夜会より数日後、城内にある王族と許された者だけが立ち入れる庭園で、フェンネルはカリフローレの向かいに座ってお茶会をしていた。
「フィオ、それはロメインと私、どちらに対して言っているのかい?」
澄ました顔で問い返せば、淑女の皮を剥ぎ取った顔がフェンネルを睨みつけてきた。
「嫌味も嫌味と聞こえないようでは、次期公爵としての器を疑われてよ、フェンネルお兄様」
息を吐くように辛辣な言葉を投げかけたかと思えば、先日のことを思い出したようで渋い顔になった。
結局王の入場に間に合うよう、若い恋人同士は些か乱暴な扱いで会場の外に引きずり出された。
夜会の主役として離れられないカリフローレに頼まれて、二人を馬車に押し込むまでを見張っていたが、どちらも無言のままで目も合わさない状態だったのが笑えたぐらいだ。
二人にしてみれば、あったはずの輝ける将来が一気に消え失せてしまったのだから当然だろうが、周囲で見張っていた身からしたら予想できていた未来でしかない。
同じ馬車に乗せる際にロマネスカ嬢から媚びるような上目遣いで秋波を送られたが、「幾久しくお幸せに」と笑顔で扉を閉めたので、これ以上会うことはないだろう。学園も卒業したのだし夜会でカリフローレが止めを刺してしまったのだから、これ以上見張る必要もない。
戻ってみれば陛下と王太子は入場しており、後ろに澄ました顔のカリフローレが控えていたが、翌日にしこたま説教されたことを侍女から聞いている。
何にせよ鮮烈なデビューを果たしたことは間違いない。
きっと婚約者候補の打診に断りを入れた貴族たちは胸を撫で下ろしているだろう。
もしかしたら受けようとしていた貴族たちの中には、断る理由を考え始めている家もあるかもしれない。
「アンジェリカ嬢もこれで頭痛の種が減ったんじゃないかい?」
そう話を変えれば、カリフローレがニンマリと笑う。
「ええ、ヴェストリウス侯爵家の威光が地の底に落ちる前にはアンジェリカに次期当主の座を渡せたし、王家としても中立派のヴェストリウスが潰れず済んで一安心。
結果としては悪くないわね」
満足気な顔でケーキを小さく切り、小さな口へと運んでいく。
苺を見て少し悩むも、先程までケーキを細切れにしていたくせに、唐突に一口で食べてしまうのもカリフローレの豪胆さが窺える。
「そういえば、フェンネルお兄様。
婚約者も決めずにフラフラしているお兄様だけど、先日の件で意外なことに好感度が上がったのはご存知かしら」
「みたいだね」
遊び人と噂されていたフェンネルは、今まで多くの女性に手当たり次第声をかけていた。
それをひっくり返したのだ。女遊びを止めて一途に相手を想いながらも、自分を抑えて礼節を説き、ライバルすらも窘める姿に印象を塗り替えてしまった貴族もいる。
フェンネルは公爵令息だ。今までは金と権力を目当てに妻や愛人の座を狙う貴族や裕福な商人の娘、高級娼館から斡旋される美女が多かったが、遊び人の印象を払拭したことから絶えず貴族のご令嬢たちの釣書と絵姿が届くようになったのだ。
実際のところは恋などしておらず、ヴェストリウス侯爵家が取り返しのつかなくなる前に事態を収束させようとしていた王家からの指示で、学園内限定で関わっていただけに過ぎないのだが。
カリフローレに言わない前提で、学園内で節度の無い不純異性交遊をしそうな二人を、度々窘めるだけだったのだが。
面白いことに、ロマネスカ・トスティと二人でいたこともなければ、三人でランチやカフェを一緒にするといったことも、自習のために図書館で鉢合わせもしたこともなかった。
ただ三人でいる所を見られただけで、一体どうしたら三角関係を想像させるのか。そしてどうしてあの二人はフェンネル側に好意があるのだと勘違いしたのか。
未だによくわからないし、聞いても理解できないだろうとは思っている。
「お父様とエルネストお兄様からの伝言よ。
早くお相手を決めてしまいなさいとね」
「国王陛下と王太子殿下の催促とあれば、致し方ないね」
肩をすくめれば同意したと見做したのだろう、カリフローレが僅かに身を乗り出す。
「フェンネルお兄様には誰かいい人がいるのかしら?
エルネストお兄様に言われたから、仕方がないけど協力して差し上げてよ」
その目は純粋に好奇心できらきらしている。
表情から読み取れる感情は、面白そう、の一つだけ。
ならばフェンネルにだって考えはある。
「本当に協力してくれるのかい?」
「あら、フェンネルお兄様は私が適当に言っていると思っているの?
あの件を対処したのは私なのだから、フェンネルお兄様の相手を探すのも当然よ。
一応お兄様の大切な想い人を、他の男にくれてしまったことになっているから」
噂をどこまで信じているのだろうか。
聞いてみたい気もするが、カリフローレはどうでもいいと答えるだろう。
少しだけ考える振りをしてからカリフローレを見る。
「私の婚約者にはフィオがいい」
ぱちりと瞬きをしてこちらを見返す顔は少し呆気に取られたようで、年相応で可愛らしい。
「……私?」
「そう、フィオがいい」
もう一度瞬きをして座り直したカリフローレを、逃さないとばかりに今度はフェンネルが身を乗り出した。
「フィオのことは幼い頃から見ていたからね。
私の後を追いかけてくる可愛い妹だった頃も、努力して王女らしくあろうとする頃も、今まで全部見てきた。
外見に似合わず負けず嫌いなところも、口の立つところも、気の強いところだって嫌いじゃない。
そして今もお互いに取り繕うことなく話ができるのもいいところだ」
小柄な王女様が指を折って数えるのは年齢だろうか。
ロリコ、と言いかけた口を咄嗟に片手で塞ぐ。
「5歳しか離れていないからね。
君がデビュタントを迎えて、それから成人しても私はまだ23歳。
年の頃としては何の問題もない」
「今の私を見て婚約者にしたいと言い出している時点で問題だと思うの」
ぐうの音も出ない。
どうにも小さな王女様は口が達者すぎる。
さてどうしたものかと考えたが、甘ったるい言葉を聞かせる気はないし、そもそも甘い空気になったこともない。フェンネルにとってカリフローレは、いつだって小さなお姫様なのだ。
それはきっと年を重ねても変わらないことだと、確信を持って言えること。
そんな小さなお姫様をずっと待っていた話ぐらいはしてもいいのかもしれないと、心が折れそうになりながらもフェンネルは口を開く。
「どうして私に婚約者がいないのか考えたことなかったかい?」
「女ったらしだから」
「そんな言葉を即答で返さない」
間違っていないけれども、決して事実でもない。
「相応に事情があって、カリフローレが夜会で言っていた裏を読み取りなさいっていう案件だよ」
そう、とだけ返したカリフローレが侍女にチョコレートケーキを取ってもらい、居住まいを正してフェンネルを見る。どうやら話は聞いてくれるらしい。
「フィオが物心の付いたときには婚約者の選別が始まっていたんだけど、王女様を降嫁できる家って限られているだろう?
公爵か侯爵か、ぎりぎりで裕福な伯爵あたりだと更にフィオと年が離れていないのが良かったのだけど、どうにも年と家格の合う年頃の令息は多くなかったから。
結局、小さい頃から付き合いのあった我が家が一番いいだろうと、口約束だけして様子見となった」
本当にカリフローレの生まれた年もその前にも家格の高い令息がいなかった。
場合によってはカリフローレより年の若い婚約者を選ぶという選択肢もあったのだ。が、高位貴族の様子を確認しても子どもの生まれる様子もないことから、少し年が離れていても釣り合いが取れていいだろうと、生まれたときから会っていたフェンネルに打診があったのだ。
フェンネルにしてみれば赤ちゃんを目の前にどうですかと聞かれても、いいですよと答えるのは難しい。
可愛いとはいっても感情の種類が違うのだろうし、五歳児に夫婦になるという想像ができるはずもない。ついでに言えば、外で同年代の少年たちと遊ぶのが楽しい年頃が、そんなことを言われても正直面倒臭い。
結局、カリフローレが考えられる年になればということで、見えない予約札を掛けられた状態で長く過ごすこととなった。
王太子との方が年齢的に離れていたことから、フェンネルをお兄たまと追いかけてくる姿は大変可愛らしかったし、今の少女らしい可愛らしさも、将来が楽しみな期待感が持てるのも大変よろしい。
それを妥協と呼ぶのは簡単だが、きっともう少し違うもので、限りなく情と呼ばれるものに近いのではないかとフェンネルは考えている。
そんな状況で他家から婚約の打診を受けても断る理由が無くて困るため、女好きというレッテルを自らかぶることになったのだ。
それもこれもカリフローレのため。
結局どう説明してもロリコンと言われそうなので、あまり口にしないほうがいいと思っているが。
「フィオに対して真実の愛とか言い出すつもりもないし、恋愛感情なんて無くても問題ない。今のように気軽にお茶をする延長線上に、互いの婚姻があればいいとは思っている。
燃え上がるような恋は無くても、相手を敬い、そして家族として過ごせるならば、私はそれが一番いいかな。
フィオはどう思う?」
チョコレートケーキを細切れにしながら考えること少し。
顔を上げたカリフローレが一言だけ呟く。
「反対するメリットがないわ」
困ったわ、と言いながらも落としどころを見つけたらしく、すっきりした顔でケーキを食べ始めたので納得してくれたようだった。
ああでも、と声が上がる。
何事かと見れば少しだけ恥ずかしそうに、プロポーズとか婚約の申し込みとかはきちんとしてほしいかもと明後日の方向を見ながら言ったカリフローレに、やっぱり可愛らしいなと思いながら席を立ち彼女の席へと回り込む。
跪いてカリフローレのフォークを持った右手を取り、そのままフォークに刺さったチョコレートケーキを口にする。
「婚約したらこういうことをしてもいいかもしれないね。
ということでカリフローレ王女殿下、私と婚約頂けますか」
返事の代わりにチョコレートケーキの残りを丸ごと押し込まれ、彼女が走って逃げるのを見送りながら、口の端についたチョコレートクリームを拭うべく、フェンネルは近くのナプキンへと手を伸ばした。
彼女の耳が赤かったのが後ろ姿からでもわかったが、自分の侍従からも顔が赤いと指摘されたので追いかけるのは諦めた。
それから半年ほどして、株を上げた公爵令息と苛烈な王女様の婚約が発表された際、大量に用意されたチョコレートケーキの馴れ初めを披露した王太子は、暫く妹から口を利いてもらえなかった。