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図書館の夜

作者: 有馬枝三

 本館の入り口に置かれていたパンフレットを手にとった。赤い校舎を水彩で描いた表紙をめくると、近所の商店街の広告に挟まれて、日程表があった。

 今日の日付を見る。

『応援団ステージ、午後一時半より』

 応援団長、黒岩学の最後の舞台だ。

 パンフレットを閉じて時計を確認する。あと十五分。俺は野外ステージを目指して歩き出した。

 祭りの空気をふるわせる太鼓の音が聞こえる。



 黒岩学は小学校の同級生だ。三年生のときにクラスが一緒で仲良くなり、四年で一番の親友になったが、六年になる前に転校してしまった。当時はまだ携帯電話なんて便利なものもなく、互いに文通をするほどの繊細さもなく、そして電話は大人の機械だった。だからその別れは、「またね」ではなく純粋な「さよなら」だった。

 別れの記憶はろくに無い。確かクラスメート全員で夜に港まで見送りにいったはずなのだが、俺が微かに覚えているのは暗闇に消えていく船の明かりだけだ。言葉を交わしたり、紙テープを持ったりして別れを惜しん写真はアルバムの中に残っているのに、まったくと言っていいほど記憶には残っていなかった。

 俺にとって、学との記憶は、そのほとんどが、街の小さな図書館での思い出で占められていた。俺と学が仲良くなった一番の理由が、互いに珍しいくらいの読書好きであったということだったから。

 

 小学生だったあのころ、俺たちの社会の中で、読書をするということは異質の表れだった。男子たるもの、サッカーか野球に精を出し、インドアな遊びに手を出すべからず。保護者会の会長が熱心な野球指導者だったり、校長が地元サッカーチームのサポーターとして有名だったりしたことも影響しているのかも知れない。俺の小学校では休み時間に男子がする遊びはスポーツでなければならないという暗黙の不文律があった。

 それなのに、俺は本が読みたくて読みたくて仕方ない子供だった。小学2年生の時に読書感想文を書くために仕方なく読んだ「エルマーのぼうけん」で、すっかり物語の面白さにハマってしまったのだ。

 教室という狭い世界で異分子になることを恐れながら、本来の自分の性質を抑えきれなかった俺は、読書好きだということを友人たちから隠しつつ、二週間ごとに日曜の朝一番に図書館に行って本を借りるようになった。午前九時に図書館が開くと同時に中に入り、十分で本を選び、五分で手続きをして出てくる。もちろん行き帰りは全力ダッシュだ。誰にも見つかってはならない。小学二年のときから、これは俺にとって忍者やスパイ気分で楽しめる、小さな冒険であり、同時に禁忌を犯す恐ろしさを楽しむものだった。目指す宝は、本。

 ところが小学校四年の六月、二週間に一度の図書館へ通う日曜日に、親戚の結婚式が入ってしまった。仕方なく、俺は予定よりも一週間早く図書館に行き、本を返却しに行くことになった。

 年単位での予定を狂わされるのは、誰でも嫌なものだ。俺はびくびくしながら、図書館に向かった。

 その図書館は大きな坂の上に立っていた。坂の途中から、桜とイチョウが交互に並んだ並木道がある。その奥にひっそりとたたずむように聳える、白い箱のような形をした建物が、この街の図書館だった。 

 いつもと同様に九時ぴったりに図書館に着く。この時間ならば誰かとすれ違うことはまずない。本が詰まった灰色のリュックを背負い直し、いつものように駆け足で入り口の階段をあがろうとした。しかし、階段に一歩足をかけたそのとき、俺は図書館の入り口を囲うように咲いた紫色のパンジーの影に、同じくらいの身長の一人の人影を見つけてしまった。体が瞬間的に硬直し、図書館の玄関の前で立ち止まる。俺が向こうに気づいたのとほぼ同時に、向こうもこちらに気がついて、足を止めた。

 目が合う。妙な沈黙。

「お、おはよう」

 ぎこちなく相手は言った。

「……おはよう」

 俺の返事もぎこちなかった。また妙な沈黙が訪れる。

 口火を切ったのは、向こうだった。

「図書館に用事があるの?」

 直球の質問に戸惑った。頷いてしまうと、なにか決定的な証拠を相手に握らせてしまう気がして、俺はその問いに答える事を注意深く避けた。

「黒岩こそ、用事があるのか?」

 相手も一瞬怯んだようだった。軽く視線をそらそうとして、何かに目を留めた。俺の背後の、灰色のリュック。

 はっとしたように、俺は後ずさった。けれど相手は、なぜか安心したように胸を撫で下ろし、肩から下げていた青いショルダーバッグを下ろした。

「ぼくは、本を返しに来たんだよ」

 相手の行動に対し、他の普通のクラスメートがするであろう嘲りという反応で返すか、それとも正直に俺も、と言い切ってしまうかで逡巡している俺の前で、相手はそのパンパンに膨らんだ鞄を開けた。

「ぼく、このシリーズ好きなんだ」

 取り出されたのは、怪盗ルパンシリーズの一冊だった。

 俺は、穴があくくらいその本を見つめた。彼は、辛抱強く俺の反応を待っていた。動かない俺の様子を見ても、何の取り繕いもしないその瞳に、負けたと思った。

 灰色のリュックを下ろして、俺もまた本をとりだした。

「俺、その続き、借りてた」

 俺の取り出した本を見て、黒岩学は変な顔をした。ほっとしたような安心と、なぜか微かな敗北の色。

「ルパン、好き?」

 おずおずと繰り出された質問に、今度ははぐらかさずに答えた。

「好き」

 それはスポーツ至上主義社会に生活の重きを置いている十歳の男子にとって、ものすごく勇気が必要な言葉だった。けれど勇気を出し惜しみしなかったおかげで、俺と学は読書という秘密の趣味を持った、唯一無二の友人になったのだ。



 それからは、二週間に一度ではなく毎週図書館に通うようになった。行く時間も、朝ではなく午後になった。

 俺の家は図書館の裏にあった。俺が生まれる数年前にできた新興住宅地で、もとは田んぼだったところを埋め立ててできたらしい。直線距離としては図書館はすぐ近くと言えたけれど、図書館は丘の上で、俺の家はその裏側の崖のようになっていたところの下にあったから、遠回りしないと図書館にはたどり着けなかった。団地を出て小さな林の小道を抜けて、木の根を利用してできた土の階段をあがると、そこが図書館の前の並木道に通じている。

 図書館の一階は、左側が子供向けの本棚で、右手が専門書の棚だった。階段は右手の奥にあり、そこを上がって二階に行くと、今度は一般向けと書かれた、大人向けの小説コーナーになる。その背の高い本棚を抜けたところに、ぽっかりと明るい空間があった。丁度、図書館の玄関の上に位置していたその場所は、その奥にある談話室へと続く幅の広い廊下で、本にダメージを与えずに明かりをとるため、床を除いて全面ガラス張りになっていた。談話室に置かれているのと同じ、淡いオレンジ色をした二人がけのソファがひとつ、崖側のガラスにぴったりと寄せられておかれていた。

 図書館につくと、俺はいつも二階にあがって、そのオレンジ色のソファに座った。廊下の窓からは、図書館の並木道が見渡せる。並木道はアパートや団地の間をまっすぐと伸びて商店街の大通りにぶつかっていて、その向こうにはところどころビルが生えていた。天気がいいと、街の向こうに広がる大きな港が微かに見えて、俺はいつも大きなオレンジ色のソファに包まれるようにして座り、学が並木道を走ってくるのを待っていた。

 並木道に学の姿が見えると、俺はソファから立ち上がり灰色のバックを背負って一階におりる。そして図書館の入り口で学と合流し、二人で一階で本を選んで二階の談話室に向かうのだ。

 学と図書館で会ってから、俺は今まで読まなかったファンタジー小説を読むようになり、学は俺が勧める冒険小説を読むようになった。二人で二時間や三時間、盛り上がると図書館が終わるまで、談話室で本を読み、他の利用客の邪魔にならないくらいの小声で、感想をささやきあったりした。たまに、太陽が薄い雲に隠れているような、明るくて、でもまぶしくない日にはオレンジ色のソファに並んで座って読むこともあった。そういう日は、俺たちのラッキーデーだった。

 学の転校の事は、そんな図書館の日々が続いて、一年が過ぎた頃に、誰よりも早く本人から聞いた。小学校五年の秋、二人で、足早に図書館を出る直前だった。

「ぼく、来月転校するんだ」

 俺は最初、ふうんと返事をして三歩歩いてから、学と図書館で初めて会ったときと同じように図書館の入り口で立ち尽くした。学は一歩だけ俺よりも前で、足を止めた。

「うそだろ」

「うそじゃない。お父さんの転勤なんだ」

 学はなんでも無い事のように言った。何か感情のままに言葉を吐き出そうとしたけれど、でも何も言えなくて、俺も何でもないことのように、ただそうかとだけ言い放った。

 夕焼けが、緑の目立つイチョウをうっすらと赤く染めていた。ちょうど学が転校するころに、イチョウは散り始めるのだろうと思いながら、夕日が沈むまで二人ならんで立ち尽くした。

 再び歩み出すには、お互いに少しだけ時間が必要だった。



 学の引っ越しの前日、俺は灰色のリュックを背負って、学の家を訪ねた。

 扉をあけると段ボール箱がいくつも玄関に積まれていて、学はその隙間を縫うように現れた。学が何か言う前に、俺はリュックの中から茶色い紙袋を取り出して、押し付けるようにして、学に渡した。

 学は、何も言わない俺に少し戸惑ったようだったが、俺が無言で促すと少しためらってから袋に手を突っ込んだ。そして、あっ、と声をあげた。

 学は袋を破かないように、丁寧に中のものを取り出した。学が一番好きだと言い切って、何度も図書館から借りていた、エンデの『果てしない物語』だった。

「せんべつ」

 呆然と手にした本を見つめる学にぶっきらぼうな声で言った。こつこつと貯めていたお年玉をはたいて、近所の本屋で買って来たものだった。

「学校のやつらに見つからないように買うの、大変だったんだぜ」

 ちょっとだけおどけて言うと、学もつられてちょっとだけ笑った。でもすぐに顔を歪めて、上を向いた。俺はそっぽを向いて見ていない振りをした。涙もまた、俺たちの社会では禁忌だった。

 しばらくして、俺は何でもないことのような声で、学を誘った。

「今から図書館に行かない?」

 その日は土曜日だったけれど、学は頷いた。そっと本を紙袋にしまって一度奥に引っ込むと、手ぶらで戻って来て靴を履いた。

 もう本を借りる事はないから、鞄を持つ必要がないのだ。黄色い銀杏並木の下でそれを理解したとき、顔を歪めて立ち止まるのは俺の方だった。学は黙って待っていた。黄色いイチョウが風に吹かれて舞っていた。


 オレンジのソファに二人並んで腰掛けた。

 いつもなら、それぞれ本を手にしているはずのその席で、何の本も持たずにただ黙って座った。窓の向こうはイチョウで黄色く染まっていた。遠くに広がる街も、微かに見渡せた海も、舞い散る黄色い葉に彩られて現実味がなかった。

 何か言わなければならない焦りが微かにあった気がしたけれど、それは図書館の静寂に呑まれて徐々にどこかへ消えていった。窓ガラス越しに遠くの国道を走る車を眺め、並木道を走る自転車を目で追い、いつもの通学路や近所の古墳跡をぼんやりと見渡して、それから左手に座る学を見た。

 隣の学が見ていたのは、外の景色ではなく本棚だった。大人向けの背の高く分厚い本の並ぶ書棚を見つめていた。そして、唐突に振り返って俺を見た。

「昨日さ、夕方一人で、ここに来たんだ」

 図書館にいる人たちの密かな息づかいに紛れ込みそうな細い声で学は続けた。

「それで、はじめて大人向けの棚の本に、手を出してみたんだ」

「うん」

 俺は学が何を言いたいのかわからず、ただ相づちを打っていた。

「高い本棚は手が届かなかったから、あのあたりに並んでた、夏目漱石の本を読んでみたんだ」

 そこまで言うと、一度学は立ち上がって本棚の方に歩き出した。しばらくして、薄い文庫本を一冊もって戻って来た。『夢十夜』と記されていた。

「夏目漱石は、読んだ事ある?」

「うん。『坊ちゃん』と、『我が輩は猫である』なら」

「ぼくも、その二つ。だから、きっと読めるだろうと思って、それで選んだ」

 学は再び俺の隣に座ると、ぱらりと一ページ目を開いた。隣から覗き込むと、見た事もない漢字がたくさん並んでいた。

 学は本を開いたままで俺に手渡した。示されるまま最初の三ページくらいを読んでみた。見慣れない漢字を読み飛ばす読書法には慣れていたから、なんとなく書き記された内容は掴めたけれど、それだけだった。記された情景や言葉、そしてこの文章によって書き表したい世界がまったく理解できなかった。始まっても終わってもいない物語りのような気がした。

 これが読めないということなのかと思った。

「読めない」

 正直に申告すると、学は苦笑して「ぼくも」と言って再び立ち上り、また別の本を持って来た。一冊には『檸檬』、もう一冊には『舞姫』と書いてあった。

「なんか悔しくてさ、他のもいろいろ読もうとしたんだ」

 差し出されるままに手にとり、ページをめくった。『檸檬』は、かろうじて内容はわかったけれど、主人公の心情や情景から心に浮かび上がってくるものは何もなかったし、『舞姫』にいたっては外国語で記されているのかと思うくらい、言葉の意味すらほとんど分からなかった。

 広いと思った。

 今まで遊んでいた原っぱのすぐ横に、深く暗くそして巨大な崖があることを意識した瞬間だった。本の世界の広さと自分の世界の卑小さに絶望する思いだった。真の読書好きとは、こういうものを読みふけっている人たちの事を指すのかと思うと、本好きであることを隠していた自分が馬鹿みたいに思えた。

 俺はため息をついて、本のページを閉じた。

「まったく、読めない、俺」

「ぼくも同じさ」

 学は苦笑を浮かべたまま、再び俺の隣に腰掛けると、また『夢十夜』を手に持った。

「でもさ、いつかはきっと、わかるはずなんだ」

「いつか?」

 おうむ返しに問い返すと、学は小さく頷いた。それから何かに追い立てられているかのように早口で言葉を続けた。

「子供むけの本でも、毎日いろいろな本を読んでいれば、何年かしたらこういう難しい本だってちゃんと読めると思うんだ。僕たちがアガサクリスティやエンデを読んで思った事をここで毎週話していたように、今度はこういう本についていろんな話ができる日が来ると思うんだ」

 学はそこまで一息に言うと、一瞬息を止めた。そしてゆっくりと深呼吸しながら、愛おしそうに本をなでると、吐息にのせてささやくようにいった。

「その日が来たときに、語り合う相手は君がよかった」

 雲の隙間から斜めに差し込む日の光が、うつむく学の額にかかって宗教画のように見えた。聖書という神の足跡を持つことでかろうじてこの世の生に絶望しないでいる、敬虔な神官のようだった。

 俺は何の言葉もでなかった。自分の手元に視線を下ろした。こんなに薄いのに、どこまでも深い書物。幼い自分には、その鱗片すら垣間みる事すらできない世界がそこにあるように感じた。本に関して初めて感じた戸惑いだった。困惑と寂しさでごちゃまぜになって、どうしていいかわからずにただ俯いていた。学はしばらくして、今日は海が見えるねと言った。顔を上げて、遠くをみやり、俺も頷いた。

 その日の夜に、学は船に乗って遠いところにいってしまった。



 学がいなくなってから、図書館に行く頻度は少しずつ減っていった。そのかわり、一度行くと夕方まで帰らないようになった。学を待つ為に座っていたオレンジのソファに、一人で座って最後に学が見せてくれたような本を開く。漢字が難しくて、日常で見聞きするような日本語ではなくて、わかりにくい本を、必死で読み、そして読もうとする事に疲れ果てて、家に帰った。

 学が遠くへ行ってしまってから、俺はまだ欠片すら見えない深い書物と戦いを始めていた。連綿と受け継がれて来た物語という歴史を、紐とかなければならないと思った。それは、学と語り合える日が再び来ると信じて、行っていた行為ではなかった。遠い未来、会える日が来ると夢想することはできたけれど、それを信じられるほど現実を知っている子供ではなかった。

 必死で本を読んだのは、悔しかったからなのだと思う。俺にとって小説とは、自分をどこか遠くへ連れ去ってくれる何かであり、非現実で新しい何かであり、終わらない夏休みのような幸せに満ちた何かであった。例えるなら、それは海辺の貝殻のようなものだ。夢のかけら。見知らぬ誰かの希望のかけら。

 けれど、学と最後に話したあの日、学が小説に見ていたのは、もっと深く暗い海の底の石だった。深海の宝石。暗い塩水に阻まれて、俺はまだその輝きを目にすることもできないものだった。

 学は「このままでもいつかはたどり着ける」と言ったけれど、俺はそうは思わなかった。こどもの読書で満足していては、大人の文学を理解する日は永遠にこないと思った。俺が砂浜の貝殻を集める事に夢中になってはしゃいでいた頃、隣にいると思っていた学はすでに遠い海のそこを目指して、もう浅瀬へと足を踏み出していたのだ。隣にいるはずの学は、転校する前からもう、とっくに俺の隣にはいなかった。

 去り際に学が手を引いて連れ出して行った海に対し、俺は足先だけで触れた波に打ち震え怯えながらも、海に取り憑かれていた。手を引いてくれる学が居なくても、この海の中に入って行かなくてはならないと思った。

 だけど、泳ぐことの何たるかを知らずに、海の奥底まで潜る事はできないのと同じように、どんなに難しい本を読んでも海の宝石には手が届かなかった。深淵の淵にある何かを垣間みることすらできなかった。

 いつしか、本を手にすることが苦痛になっていった。

 中学に入ってからは、自分が取り憑かれた文字の海の事すら忘れた。忘れた振りをして、砂浜の貝殻を集める事すらしなくなった。サッカー部に入って、朝から晩まで泥まみれになりながらボールを蹴った。忙しさと肉体的な疲れに追われて、かつての読書好きの少年はどこかへ行ってしまった。学と共に過ごした、オレンジのソファから眺める並木の美しさも、黄色い別れの色彩に阻まれて輝きを失い、日差しの暖かさも波の音と一緒に忘れ去ってしまった。 

 やがて中学を卒業し、高校に入った。そこでもサッカー部に入り、試合に明け暮れた。本など読まない友達に囲まれて、たまにカラオケやゲームセンターで遊んだ。


 

 深く青い文字の海を思い出したのは、高校三年生になってからだった。

 理系のクラスで工学部志望だった俺は、国語や古典の授業中、いつも数学や物理の内職をしていた。『いまそがり』の用法に興味がある振りをして、頭の中では振り子運動の計算式を解く、といった具合である。古今和歌集の言の葉も、漆器の麗しさについての解釈も、右から左へ流れていく日々だった。

 十月の現代国語の授業中、いつものように数学の参考書を開いていた俺は、何かの拍子に我に返った。自分でもどうしてだがわからないが、頭の中を流れていった何かの言葉が気にかかったのだ。

 顔をあげた俺に、教科書の朗読をしていた、銀縁の眼鏡をかけた老いた国語の教師は、言葉を止めて俺を指名し「続きを読め」と言った。

 しまったと思いつつ立ち上がって、隣の女子生徒に耳打ちされたページを開き、一文字一文字をたどるように読み始めた。

 読みながら訝しんだ。今は現代文の時間ではなかったのか。何だろう、この時代錯誤な文章は。けれどまったく授業を聴いていなかったにも関わらず、不思議と読めない漢字があったり、つかえたりすることはなかった。

 遠くで幼い声が聞こえた。声は今俺が読んでいるのとまったく同じ文章を読み上げていた。次第に遠くの声が大きくなる。近くなる。俺の朗読と重なる。その声に取り憑かれたように、すらすらと文章を朗読しだした。幼い声が俺の太い声を通り過ぎていく。遠い記憶が蘇る。効きすぎた暖房。窓越しの日差し。談話室のソファ。高い本棚。

 知っている、記憶にある。この文体。この文章。

 朗々と読み上げる言葉に、いつしかクラスメート全員が聞き入っていた。さっきまでの自分同様、化学式や数列に頭を悩ませていた同級生たちが、いつの間にか全員ちゃんと教科書を広げて俺の朗読に耳を澄ましていた。

 俺自身、読み上げながらも誘われるように文章の波の間に呑まれて行った。次第にその書き表された文章の海の美しさに恍惚し、嘆き、哀しさに泣いた。

 最後の文章を読み終えたときには、右の目から一筋涙が滴っていた。教科書から顔を上げて、黒板の文字を見た。日付の脇に、右上がりの文字で『舞姫』と記されていた。

『いつか、わかる日が来ると思うんだ』

 記憶の中で、聡明な少年の横顔が言った。崩れ落ちるように椅子に座り込むと、教師はいつもと変わらぬ声で、しかし心なしかゆっくりと「大変結構な朗読でした」と言った。

 覚えているはずだ。何度読んだかわからないくらい、一人で読み解こうと努力した、あの暗く深い海。

 


 それから、俺はまた取り憑かれたように本を読んだ。かつて学が俺に示した、文豪と評される人々の本を片端から読んだ。幼い頃のあがきが嘘であったかの用に、その内容を理解することができた。

 海の淵をさまよい歩く事を止めた結果、いつの間にか俺は深く潜れるようになっていた。溺れそうになりながら文字を読み進めていた日々とは違って、それは心地よい冒険だった。海は暗く深く果てがなかったが、その広大ささえ好ましかった。

 そうして文豪たちの海から顔を出したとき、ふと思うのだ。

 お前はどこまで進んだのか。

 俺はここで少しは泳げるようになった。我流だけど、潜れるようにもなった。

 お前はどこにいるのか。

 もう通りすぎてしまったか。近くで、珊瑚礁でも眺めているか。それとも、もう宝石に手が届いたか。



 半月後の四月。

 俺は大学生になった。受験直前に小説にのめり込んでしまったせいで、センター試験の数学で失敗し、冗談のつもりで受けた経済学部の一年生になった。

 専門科目が授業のほとんどを占めたけれど、自由選択の科目で迷わず文学部の科目を取ろうと思った。近代文学と現代文学で迷い、最初の授業のガイダンスの時に両方の授業を聴きに行った。

 近代文学の教室に入ると、まだ数人しか来ていなかった。どこに座ろうかと教室内を見渡したとき、扉の開く気配に顔を上げた最前列のど真ん中に座っていた男と視線があった。普通ならすぐに目をそらして終わりになるはずだが、俺も男もそうしなかった。なぜだろうと不思議に思った。相手は口をすぼめて微かに首をかしげ、それから小さく眉をひそめた。何か思案している顔だった。

 それから二人同時に「あ」っと大声で叫んで、慌てて口を塞いだ。

 そして、顔を見合わせて吹き出した。

「久しぶり」

 と俺は言った。

「奇跡だね」

 と、そいつは言った。

 声も顔つきも変わっていたのにそれが学だとわかったのは、考え込むときに人差し指を唇の端に添える癖を覚えていたからだった。

 


 学は同じ大学の文学部に入学していた。学にとってその講義は必須科目だった。学が取るならと近代文学の授業をとろうとしたが、なぜか当人に止められた。

「いや、お前は現代文学をとってくれ」

「なんでだよ、せっかくだし、一緒の講義とろうよ」

「近代文学は僕がとる。だから君は現代文学をとって、僕に内容を教えてくれ」

「来年とれば良いじゃないか」

「内容がいつも一緒とは限らない」

 学は俺などよりもずっと文学に対して貪欲になっていた。いや、もともとそうだったのかもしれない。

 学に説得される形で、俺は現代文学の授業に出た。ここ数十年に出た純文学系統の作家について、教授が独自の解釈をひたすら加えるのが主な講義スタイルだった。講義は、金曜の五時限目で、授業が終わると学食で夕食を食べながら講義の内容を披露しあった。

 学の近代文学の講義は、とてもわかりやすかった。配布プリントへの書き込みも、自分の考えと教授の考えが細部にわたるまで記されていて、その講義内容や、その講義をうけて学が何を感じたのかさえ、手に取るようにわかった。学は、授業で扱った小説や論説文はすべて既に目を通りしていたようだった。

「中学、高校と文学部に入ってひたすら読んでいたんだ」

 それに対し、俺の説明は比較するのも悲しいくらい陳腐だった。読書の量も質も、ものすごく劣っていた。この比喩表現は実はこうだ、とか、これは作者の身体性を示す表現だとか、まったくそんなことは判断ができなかった。ひたすら教授の考えをこうだったああだったと繰り返すだけだった。

「君はどう思ったんだ」

 学はよくそう言って、俺を問いつめた。そういうときは、俺は苦労して言葉を探し、自分の中学、高校の経験の中から何かを絞り出すようにして学に語った。それは文学論ではなかった。小説と重ねられた自分の感情の屈折物だった。語る事がなくなると、俺は必ず三秒間沈黙して「実はこの本、まだ読んだ事ないんだ」と白状させられた。

 けれど学がそれに対し、何か苦言を呈することは無かった。

「じゃあ、読んだら聞かせて」

 必ず学はそう言った。だから俺は大学ではひたすら本を読むことにした。それは学を失ったあの図書館の日々にとても似ていたけれど、俺は以前よりも大人になっていたし、学はすぐそばにいた。それはとても大きな違いだった。



 五月のゴールデンウィークが開けた最初の金曜日、いつもの互いの模擬講義が終わったあと、学が言った。

「君、部活とかサークルとか、入る?」

「入らない。サッカーは高校まででやり尽くしたし、それほど興味あるサークルもないし、大学は部費やサークル費も高いし」

 余暇はすべて、読書に費やす気で居た。学はそうか、と呟いて、お茶を一口飲んだ。

「僕、應援部に入るから」

 俺は味噌汁を吹き出しそうになった。実際むせた。

「お前、中学、高校と文学部だったんだよな」

「ああ」

「なのに、應援部? あそこ、練習厳しいので有名だぞ」

「知ってる」

 学の決意は固かった。てっきり学も俺と一緒に図書館に入り浸りの生活を送るものと思っていたので、意外だという感想しか浮かばなかった。理由も無く不満げな顔をした俺の顔をちらりと伺うように見て、学は顔を背けて言った。

「高校ときの友達が、一緒に入ろうって。断る理由も無いし」

 くっつけるように二つ並べられたテーブルの境目が、急に大きくなった気がした。今まで気にもならなかった、互いの夕食を並べた机の境界線。

「今から、部活のミーティングなんだ」

 それじゃあと言って学は立ち上がった。俺は「がんばれよ」と気の抜けた声をかけた。



 考えてみれば、それは当然のことだったのだ。学には学の世界がある。お互いもう小学生じゃない。読書にあらがえない魅力を感じている事も、もうとっくに隠さなければならないことではなくなった。

 二人だけの秘密は、とっくの昔に消えてしまっていたのだった。



 金曜日、学は五時五十分まで学食にいる。そしてその後、俺に「それじゃあ」と一言断ってから部活に行った。俺はいつもそれを見送って図書館に行った。まだ読んでいない本を見つけては、読みふけった。

 夏休みには実家に帰った。親に「大学はどうだった?」と聞かれて、「学に会ったよ」と言ったけれど、親は学のことを覚えていなかった。そう言えばたいして話してもいなかったことを思い出した。二人だけの特別な秘密は、どちらかが忘れてしまえば、その存在さえ危ういのだということに気付き、少しだけ落ち込んだ。



 夏休みが終わって大学に戻ると、日焼けした学はこう言った。

「お疲れ」

 訝しげな顔をしてとりあえず頷くと、学は一瞬戸惑った顔をした。

「何か俺、変なこといったか?」

「別に何にも疲れてないんだが」

 学も少し訝しげな顔をしたが、やがて苦笑した。

「悪い。何か大学の挨拶って、会ったときも別れのあいさつも全部『お疲れ』なんだよな。僕も最初は変に思ってたけど、いつの間にか染まっていたようだ」

 学の変化はそれだけではなかった。俺が夏休みに実家で毎日本を読みあさっている間に、学は合宿や運動部の試合での應援を繰り返し、どんどん大学を自分の生活にしていった。学食で二人で居ると、学はよく顔を上げて、俺の知らない人に「やあ、」とか「おつかれさまです」とか声をかけることが多かった。



 それでも、学はいつも変わらず文学の話をした。俺が知っている作家の話。俺が知らない本の話。

 様子がおかしくなったのは、十二月に入ったあたりからだった。白いシュシュでポニーテールにまとめた女の子に「お疲れ」と声をかけられると、学はなぜかいつも少しだけ上ずった声で返事をするのだ。そうして、その女の子に声をかけられた後は、決まってどこまで話したかがわからなくなり、作家の名前や作品名を、間違った。

 五回目にに同じ現象が起こったとき、俺は素直に聞いた。

「誰、あの子」

 学は一瞬で耳を赤くした。

「部活の子。同い年だよ」

 それからため息をついた。

「なんか、困ってるんだ。相性悪いのかな。どうもあの子に話しかけられると、妙に落ち着かなくなる」

 学が本当に上手に困った顔をするので、俺も上手に真面目な顔をして答えた。

「だったら、避けてみればいいんじゃないか」

「そうしよう」

 学は頷いた。



 その一週間後、なぜか学は少し疲れた顔をしていた。

「なんか変なんだ」

「何が」

「あの子のこと、言われた通り避けたんだけどさ。妙にいらいらする。あの子が先輩と話していたりすると、見ていられない。でも目をそらすのもなんだか、難しいというか、目をそらしてもまたすぐに視線が戻って」

 改めて、目の前の男をまじまじと見た。学は真剣な顔で俺に聞いた。

「僕、あの子の事、そんなに気に食わないんだろうか」

 自分がここまで人を嫌いになれるなんて、と学がどんどん落ち込みだしたので、俺はあわてて学の肩を叩いた。

「逆だろ、それは」

「何が」

「お前その子のこと好きなんだよ。恋だって恋」

 言ってからなんだか恥ずかしくなった。それとなくあたりを見回す。よかった、知り合いはいなそうだ。

 学はなぜか唖然としていた。

「お前今まで女子とつき合った事無いのか」

「あるよ」

「そのときはどうだった?」

「どうって、普通だよ。一緒に帰って、休日に二人で出かけて、誕生日とクリスマスにはプレゼントをしたよ」

「ずっと一緒にいたいとか、他の男と仲良さそうにしてると腹が立つとかなかったのかよ」

「何故?四六時中一緒に居たら、読みたい本も読めないし、別に他の男と会話しようが相手の自由だろう」

「……お前、切ないって言葉の意味知っているか」

「知っているよ。ギルバートが死にそうだと知ったときのアン=シャーリーの気持ちだろう」

 自信満々に言い放つ学に、なぜか俺はどうしようもない疲れを覚えた。

「じゃあお前、自分の症状をそのままその子に話してみろよ」

 やけっぱちでそう言うと、学は首を横に傾げたまま頷いた。



 翌週、学は開口一番こういった。

「なぜかつき合う事になった」

「そりゃおめでとう」

 学はまだ釈然としない顔をしていた。

「僕だって、今まで恋愛経験が無かった訳じゃない。それなのに、どうしてあの子に対してだと、例えば手をつなごうという一言を発するだけで、こんなに気力が必要なんだろう」

「恋してると思うことと、恋を感じることは別物なんだよ」

 そう言うと学はため息をついて、ぽつりと「切ない」と漏らした。

 でもそう言ってから、しっくりこないなと学は苦笑した。



 学年があがり、今度は俺が近代文学を、学が現代文学の講義をとった。

 学の目論見通り、現代文学の内容は去年とは違う作家を中心に行われたが、近代文学はほとんど去年学から聞いた授業のままだった。

 模擬講義は以前の半分の時間になった。

 学はますます部活が忙しくなっているようだった。パシリの一年のときとは違い、二年になると責任を負う役割も増える。実質幹部の三年と一年の間の中間管理職になっていて、板挟みだとときどきこぼした。

「そんなもんだろ、体育会なんてとくに」

 俺がそう言うと、学は怪訝そうに眉をひそめた。

「君にも経験があるのか?」

「まあ、大学ほど自治権がある訳じゃなかったけど、俺の高校もいい加減放任主義だったから」

 顧問なんていないようなものだった。遠征のときにバスの前に座って「がんばれよー」とひと声かけて終わりだ。

 学は、そうか、とだけ呟くと、黙って冷えたスポーツドリンクを飲み干した。

 蝉の鳴き声が屋内にまで響いていた。

「そういや、君、去年は学園祭に参加した?」

「いや、去年はモーターショー見に行っていた」

「あれはいいぞ」

 今年は暇があったら見るといいと学は言った。應援部はステージ場でのパフォーマンスもあるらしい。

 見に来てくれと言わないのが、学らしいと思った。



「これ、読んでみてくれないか」

 学が差し出したのは、今年度の学園祭のパンフレットだった。

 学の担当は、主に文章だった。文学部の学生は学園祭実行委員にもたくさんいたが、学ほど文章にのめり込んで生きて来た学生は珍しい。

 学は、忙しい部活の合間を縫ってたくさんの紹介文や説明文や呼び込み文句を考えていた。十月の頭、候補が三つくらいまでしぼられてくると、学は短い模擬講義の後に原稿用紙の束を俺の前に重ねた。

「どう思う」

 学は真剣な顔で俺に尋ねた。

「俺じゃなくって、実行委員に聞けば良いのに……」

 そう答えると、学は首を横に振った。

「僕は君の意見が聞きたいんだ」

 そういわれて悪い気はしない。学が書いた文章というものにも興味はあった。

 原稿用紙をめくっていくと、なるほどそれは学の世界だった。小難しい熟語が並びながらも、簡潔明瞭な文章でわかりやすく、すらすらと読めた。

「学は要約とか得意なんだろうなあ……」

 俺が呟きながらページをめくると、学は真剣な顔をして頷き、「要約が難しいという人の意味が分からない」と、受験生のほとんどを敵に回すような言葉を発した。

「で、どう。どれがいいと思う」

 珍しく身を乗り出して興奮気味に尋ねる学に、俺は返事を少しためらった。

「いや、どれでもいいと思うけど」

「なんだよ、張り合いがないな」

「いや、だってさ」

 頭をかいて、原稿用紙から顔をあげた。

「全部、同じなんだよね」

「なぜ? それぞれ視点を変えて、分かりやすく説明しているのに」

「それはそうなんだけどさ……」

 学は真剣な顔で返事を待っている。

「なんて言うか、遠いんだよ」

「遠い?」

「わかりやすいし、親切なんだけど、でもそれだけなんだ。どれを読んでも、同じように面白そうだなって思えるんだけど、でも書き手がどう思っているのかとか、よくわからない」

 学はやや憮然とした表情を見せた。

「こういう文章は、書き手の顔が見えた方がいいって言うのか」

「いや、わかんないけど。でも、どの文章でも同じなんだよ。これ読んでいると、この学園祭に来て感じる楽しさは、なんていうか平面的なものなんじゃないかって、そう受け取れるんだ。それこそ、何かの小説で学園祭の話を読めば事足りるんじゃないかって思ってしまうというか、厚みが、ない気がする……」

 話しているうちに、偉そうに講釈ぶっている自分が恥ずかしくなってうつむいた。

 学は唸った。自分の文章を読み返しながら、真剣にひたすら校正を続ける学に、文字を書く職業につきたいのかと、訊いてみた。

学ぶは顔すらもあげなかった。

「まさか」

 僕は読み手だよ、と学は笑った。



 三年にあがって、授業が重なるものはなくなった。

 いつもの時間にゼミが重なってしまって、時間を合わせて会うこともなくなった。学校ですれ違うときに声を掛け合う程度だった。

 勉強も格段に忙しくなり、読書の量は減った。本を読むためではなく、ゼミの資料集めのために図書館に通うようになった。



 久々に学に会ったのは、 夏学期のテスト期間の最後の日だった。研究棟の入り口の階段。ふと呼ばれたような気がして振り向くと、学は膝を抱えて、階段の下に隠れるように座り込んでいた。大学に入ってからめきめきとついていた筋肉は、見る影もなく、やせ衰えていた。

「どうしたんだ」

 学は消え入りそうな声で呟いた。

「僕、ごみだから」


 学食には行きたくないと言い張るので、近所の安い居酒屋に連れて行った。

 学はずっと黙っていたが、目の前にビールを置くと、ぐいっと飲み干してから、ぽつりぽつりと話を始めた。話の間、左手は何度もジョッキを口元へと運び、右手は瓶を傾けた。学が一人でビール瓶を三本空けたところで、俺はやんわりと学の手からお酒を下げて店員にお茶を頼んだ。

 少し不満げな顔をする学に、俺はジョッキを片手に言った。

「要するに、振られてショックで落ち込んでいるんだな」

 学はしばらく黙って、そんなの文学的じゃないとかよくわからない言葉を呟きながらお茶を啜った。

 余分な修飾語をとって学の話を要約すると、実に簡単な事だった。学の彼女が成人式で以前つき合っていた彼氏と再会。また連絡を取り合うようになって、二人はよりを戻そうと決め、学は振られてしまったらしい。

「いつ振られたんだ」

「二週間前」

 発狂しそうだ、と学は言った。何度も会いたいと繰り返しながら、酒の代わりにお茶をあおった。

「なあ、これが失恋なのか」

「たぶんな」

「死にたい」

「そうか」

「彼女が憎い」

「ああ」

「彼女が好きになった後輩が憎い」

「ああ」

「でも、彼女が好きだ」

「うん」

「大好きだ」

 学は、両手で顔を覆った。それからちょっとだけ笑って顔を上げた。

「切ないってさ」

「うん」

「感じるものなんだな」

「うん」

「会いたい、一緒にいたい。無理だとわかっていたって、それでも……」

 学は両腕を抱え込むようにしてうつむいた。

 学を見て、俺まで胸が苦しくなった。これはきっと、切ないという気持ち、なのだろう。けれど学が今感じているのは、切なさそのものだ。切ないの一言で伝えられるはずの、でも伝えきれない大きな感情の渦。どれだけ本を読んでも、愛しいものが無ければ感じきれない心の状態。

 学の肩が震えだした。

 俺はメニューを見るふりをして目をそらした。



 人生で最後の学園祭だからなのかもしれない。あるいは単純に、学が書いたあの文章に惹かれたからかもしれない。大きな理由などなかった。

 俺はその日、四年間で一度も見ていなかった学園祭に行く事にした。

 駅に着いたときから、既に街は人ごみで溢れていた。ほんのり黄色に染まり始めたイチョウが、派手な看板の合間から覗いている。

 中高生の列に混じって、大学への道を辿って行く。

 目の前に居る女子高生は、もしかしたら受験生なのかもしれない。大学が見えてくると共に歓声は高まる。呼び込みの声が響いていた。

「安いよぉ、焼き鳥安いよぉ」

「本日二時より、劇団コラマ第六回公演が」

「名物たこ焼きー、たーこやき」

「クレープいかがっすか!」

 声が人を引き止めて行く。俺も止まる。店を覗く。

 他の大学の学園祭も行った事はあるけれど、一人でまわったのは初めてだった。自由だけど、何か感じでも話す相手が居ないことが、少し寂しいと思った。


「いかがでしたでぇ、しょうかぁ!」

 応援団独特の声の張り上げ方。進行をしているのは、三年生だろうか。

四年の名前が一人ずつ呼ばれ、その人が主役のパフォーマンスが次々と行われる。

 壇上では赤いチアリーディングのワンピースを来た女の子たちが踊っていた。学の彼女だった女の子が中央にいる。笑顔で、ボンボンをふっている。音楽に合わせてスカートが翻る。足があがる。全員で同じ動きで踊ったかと思うと、わっと中央に集まり肩車。ジャンプして着地し、また踊る。

 何をやっていても笑顔で、モーターショーのキャンペンガールを思い出したが、その何倍もすごいことのような気がした。次第に音楽が小さくなり、笑顔に引き込まれるように大きく手を叩いた。

 また進行役の男が現れる。

「いかがでしたでぇ、しょうか!つぎはぁ、団長、黒岩学でございます。高校のときは、根っからの本好きでぇ、ありました。外に出るのもおっくうだったこの男、それがいまやすべての体育会の部員から、信頼を集める中心人物でぇ、あります」

 中央に、黒い学ランを来た男たちが集まる。並んで整列。

 学が現れた。厳しい表情。はちまきが風になびいている。

 学が舞台の中心で立ち止まった。大きく手を上げて、一度静止する。一瞬の静寂。

 校歌が始まる。後ろに並んだ学ラン部隊が歌いだす。入学式などで聞いたことはある。運動部では、試合の度に歌うということも知っていた。けれど、俺にはなじみの無い歌。

 俺の周りに集まっていた学生たちも歌いだす。大声で。

 誰よりも大声を張り上げている学は苦しそうだった。必死の形相だった。気迫がどんと胸に来る。

 四年にとっては、最後の舞台だ。最後の学園祭だ。学がそこにどれだけの思いを注いで来たかが分かるようだった。

 恋をして戸惑っていた学。

 落ち込んで階段の隅に蹲っていた学。

 文学に目を輝かせた学。

 学びが歌い上げているのは、生の讃歌だった。喜びと悲しみ、絶望と希望。すべてをここで学んで行った男が歌い上げる、最高の歌だった。

 応援団の旗が、風に揺らめいている。空を飛行機が飛んでいた。団旗の穂先と飛行機が重なる。真っ青な空に、応援団旗が飛行機雲で道を描いているように見えた。まっすぐに、伸びやかに。

 壇上にいる男性はみんな真剣な顔をして、女性はみんな笑顔だった。

 ただ飛行機雲だけが、ゆっくりと滲んでいった。


 大音量の声に囲まれた中で、俺はどうしようもないもどかしさを感じていた。喉の奥で、何かが声を出す瞬間を待っていた。

 歌いたいと切に願った。でも歌えなかった。

 俺はこの大学で、新たに恋をしたわけでも、絶望を知ったわけでも、倒れるまで何かにがむしゃらになれたわけではない。海外で放浪生活をしたわけでも、友人と徹底的に口論して論文をかいたわけでもない。

 恋をした本を読み、冒険をした本を読み、絶望した本を読んだ。虚構の世界で泣け叫び、嘆き悲しみ、微かに胸に灯った希望に打ち震え、そうして現実を虚ろにしたままで過ごしてしまった気がした。

 自覚した途端に、周囲が遠くなった。

 幼い横顔が思い起こされる。『いつか君と』。文章の海。遠い海。

 俺が欲しかったのは海そのものではなかった。海に隠された真珠でもなかった。

 ただ、学と一緒にどこまでも深く潜ること。二人だけの秘密の真珠。

 学に追いつこうとして、とんでもない勘違いをしていたことに、大学四年目も半分以上終わった今になって俺はやっと気がついた。

 校歌が聞こえる。音程も気にせず大声で命の限り心のままに歌う校歌。

 俺はこの校歌の歌詞すら、ほとんど知らない。

 学の心からの歌を、俺は歌えない。

 曲が終わる。吹奏楽部のトランペットが鳴り止む。学が壇上で一礼した。周囲の割れんばかりの拍手に隠れるように、俺はその場を去った。

 隣に並ぶことなど、もう二度とできないだろうという気がした。


 勢い良く背中を押されて、つんのめった。転びそうになるところを慌ててバランスをとる。右足で踏みとどまり、そのまま右足を軸に振り返る。悪態をつこうと開いた口は、一拍の間を置いてから、目の前に発っている男の名前を呼んだ。

「学」

 急いで着替えたのだろう。イチョウも色づく季節だというのに、Tシャツ姿の学が、息を切らして立っていた。

「君、速すぎだよ」

 学は軽く俺の方を小突いた。額には無数の汗の玉が浮かんでいる。荒い息をするのに会わせて、汗が流れる。

 学は右腕で軽く汗を拭うと、歯を見せて笑った。

「どうだった、僕のステージ」

「良かったよ」

 俺は素直に言った。

「それだけかよ」

「言葉に何かならないよ」

 羨ましかった。俺も應援部に入れば良かった。部活をやれば良かった。誰かと一緒になって無我夢中で何かすればよかった。うやむやの思いを言葉にすれば、すべてが恨み言になると思った。

 本を読む事に費やした日々。学に追いつこうとした日々。何がいけなかったというのだろう。どこで道を間違えたのだろうか。

 学は俺の言葉を素直に受け取って、晴れやかに笑った。

「まあ、いいや。君がなんと言おうが、僕は全力でやり切ったから」

 他意はないと分かっていても、置き去りにされた気がした。

「本当に、良かったと思うよ。それじゃ」

「待って」

 逃げるようにその場から立ち去ろうとすると、学が俺の左肩を掴んで止めた。まだ何かあるのかと若干嫌々振り向くと、笑顔から一転して学は真剣な顔をして声を潜めた。

「君、来週の火曜は暇?」

「ゼミが夜まであるけど」

 急な学の変化に戸惑いながらも答えると、学は少しの間沈黙してから、ついてこいというように手招きして走り出した。


 学は図書館に入って行った。

「学生証は持ってるよな」

「そりゃまあ」

 カード型の学生証のバーコードを機械に通して、館内に入る。

 学はさっさと階段を上がって行った。

 学園祭の期間は、受験生が見学に来る事も見越して、図書館は一般公開されている。制服姿の学生も多い。

 四年間毎日のように通い続け、自分の一部になったような場所であるだけに、期待と羨望の視線がそこかしこに溢れている図書館は、見慣れた町並みをテレビで見たときのように、よそ行きの雰囲気がした。

 学は二階にあがると、足の速度を緩めて、本棚に近寄って行った。階段の正面にある柱を回り込み、一番奥の法学部の本棚の前で立ち止まった。

 隣に並んで本棚に視線を移す。国際法関係の書棚だ。

学は他の人から、見えないように、左手を小さく挙げて指差した。

「君、あれが見えるか」

 興奮を隠しきれない声に、戸惑いながらも頷く。

「『グロティウス自由海論の研究』がどうしたんだ?」

「違うよ」

 学は大声をあげて、慌てて周囲を気にして声を潜めた。

「そっちじゃない。もっとむこうだ!」

「……『人間マルクス~その愛の生涯~』」

「本から離れろ。そのずっと奥だ」

「その奥って、机しか無いだろう」

 学が指し示した所には、机が一つぽつんと置かれていた。

 もともとこの階には自習用の机と椅子がそこかしこに並べられているが、その机だけは自習用のものではなかった。

 あるのは机だけで椅子が無いのだ。本来椅子が置いてあるべき面は、壁際にある大きな柱にぴったりと接している。柱は大きなL字型で、壁との間に挟まれたその場所はコの字型をしているように見える。机の左側は、図書館の壁に面していて、右側柱との間に一メートルほどの小さな空間を作っていた。

「そう。机だよ」

 学は自信たっぷりに頷いた。それからきょろきょろとあたりを見回し、誰も自分たちに注目をしていないのを確かめると、早口で言った。

「ちょっと見てこい」

「見てこいって、机を?」

「そうだ。怪しまれるなよ」

 怪しまれるなよと言われても、そう言っている学自身が十分怪しい。何より意味がわからない。仕方なしに言われるまま机に近づく。

 至って普通の机だ。他の自習机と何も変わりはない。どこか壊れている箇所があるようにも見えない。卓上の蛍光灯が切れてでもいるのだろうか。ざっと見回しても、落書きの一つも見つからない。当然と言えば当然だ。大学生にもなって、消えない落書きをするような馬鹿はなかなかいないだろう。

 首を傾げながら戻ると、学はそわそわしていた。

「あんなにじろじろ見るなよ、怪しまれるだろ」

 小声でそう言うと、そのまま俺を促して三階のトイレに行った。

「どうだった?」

「どうだったって言われても、至って普通の机だった」

 学はにやっと笑った。こういう笑い方をする学を、久しぶりに見た気がする。

「そう、普通の机だ。だから、あの机は特別なんだ」

「何で特別なんだよ」

 誰もいないのに、学はあたりを伺うように首をすくめて、さらに小さな声で言った。

「扉だよ」

 鋭く、とても真剣な声だった。

「あの机は、僕たちの物語への扉なんだ」



 外に出て、祭りの喧噪から少し離れたベンチに座ると、学は自動販売機で買ったお茶を飲みながら、ポケットから出したメモに図書館の二階の平面図を描きだした。

「あの形の机は、かなり机の書き物をする部分が広いだろう。資料を手元において調べものをする事を想定しているからだと思うが、だからこそ足が置けるスペースもかなり広い」

 相づちを打つ代わりに、ウーロン茶を飲んだ。まだ学が何を言おうとしているのかがわからなかった。

「あの机はかなり重いけど、固定されている訳じゃない。床は絨毯だから、音をたてずに動かす事もできる」

「いったい、何の話をしているんだよ、学」

「あそこに潜り込むための話をしている」

 学は低い声で言った。

「あそこって、あの机の下にか?」

「そうだ」

 学は早口で言葉を続けた。

「あの机は、座る側以外の三面の足場を完全に板で遮断しているから、外からは足下が見えない。側面だけは、机の部分よりも少し手前までしか隠れないから、横から見たらばれるかもしれないけど、左は壁に面しているし、右もすぐそばは柱だ。まさか中に人が居るとは思わないから、きっとそんな所まで調べたりはしないだろう」

 学は真剣な顔で図書館の平面図に見入っている。俺は口を半開きにしたまま、ただぽかんと学の顔を見ていた。

「あんな狭いところに入るのか」

「なんとかなる。警備員がいなくなる、ほんの十分足らずの辛抱だ」

「何の為に」

 学は少し眉をひそめた。

「わからないのか」

 責めるようなその声に、少し怯んだ。思わず目をそらした俺に、畳み掛けるように言葉が重ねられる。

「誰もいない図書館。静謐な本の海。書物の山。惹かれないのか」

 想像してみる。誰もいない図書館。暗闇に眠る本。

 恐ろしいほど深く終わらない、惹かれずにはいられない、本。

「『夜は、終わらない歴史が見える場所。』そう言ったのは、君だろう」



 寒い日だった。小学四年の冬。まだ学の転校が決まる前のこと。

 五時になり、図書館から追い出されたあと。まだ学と話したい事がたくさんあって、二人でいつもよりも長く外で話していたとき、何の前触れもなく目の前の図書館の明かりが消えた。裏口から、司書さんが出て行ったのがみえた。

 図書館が、無人になる。

 入り口の大きなガラス扉に顔をくっつけると、なじみの児童書の棚が、魔法にかかったかのように、暗闇の中でうっすらと光っていた。ガラス越しにみる暗闇の中の本棚は、ほんの少しだけ月明かりを反射した背表紙が光っていて、本の中に閉じ込められた物語が、誰もいなくなった図書館で溢れ出したようだと思った。

『いいなあ』

 隣にいた学がぽつりと言った。同じ気持ちなんだなと思うと、いつもより少しだけ饒舌になった。

『夜の図書館は、いいね』

『うん、いいね』

『図書館の本て、どんどん増えて行くけど、いつもはよくわかんないよね』

『うん?』

『夜の図書館ってさ、終わらない歴史で溢れている気がする』

 学は黙っていた。俺は変な事をいってしまったかなと、気まずい気持ちになった。

 帰ろうかと言い出したとき、学が言った。

『いつか、行こうよ』

『え』

『二人で、図書館の夜に入ろう』



 学は笑った。あの時と変わらない笑顔で、あの頃よりも少し低くなった声で。

「確かめよう。君と僕で、図書館の夜を見に行こう」



 学の計画は至って単純なものだった。

 図書館が閉館する一時間前、八時に、図書館に入る。四十分間は本を読んだりして、普通にすごす。残り二十分になると、図書館内には閉館間近であることを知らせる音楽が流れ、もともと居ない利用者は一気に減る。その隙を狙って誰にも見られないように二階の机の中に入る。俺が先に入り、学は五分後。

 閉館五分前になると、年老いた警備員が二人、三階から巡回し、電気を消して行く。外から見て、一回のカウンター付近の明かりが消えるのが、九時十分。念のため九時二十分まではその場で待機、それから誰もいない暗闇の図書館に繰り出すのだ。

「どうして来週の火曜なんだ」

「満月で明るいからさ。電気つけられないだろうからね。図書館の窓には雨戸が無いからね」

「雨だったらどうする」

 学は肩をすくめた。

「その時は、延期かな。翌日か、翌々日に」

「持ち物は?」

「小型の懐中電灯くらいかな。携帯は万が一音が出るとまずいから」

「手ぶらで図書館に入るのは怪しくないか」

「だけど机の下のスペースには、鞄を入れる余裕はないよ。そこは妥協しよう」

「懐中電灯は何に使う?」

「机から出るときと、念のためかな。階段には窓がないから、普通に辺りを照らすと見つかっちゃうし」

「机から出て、それからどうする」

 学はにやりと笑った。

「それは、図書館の夜のみぞ知る、だよ」



 翌日の夜八時、予行練習だと思って、一人で図書館に行った。祭りの後の静けさからか、人はいつもよりも少ない。二階に上がると、学習机に二人か三人陣取っているだけで、他の人の姿は見えない。

 周囲に気を配りながらも、例の机に近づいた。軽く動かしてみる。ずっと、絨毯を引きずる音がする。これなら、階段の足音の方がずっと大きい。次に窓を確認する。学の言う通り、外の光を遮るようなものはない。階段が見える位置にある学習机に陣取って、適当に選んだ本を開いた。

 八時四十分。音楽が鳴りだす。まだ粘っていると、警備員が姿を現した。それぞれ懐中電灯を手にしている。本を片付けて階段を下る途中、振り返って様子をうかがった。

 電気が消された中、懐中電灯の明かりが、一つ一つの学習机の上を念入りに確認して行く。忘れ物や落とし物の拾得も仕事のうちなのだろう。



 何も悪いことなどしていないのに、なぜか心臓が早鐘をうっていた。

 家に帰っても、胸の鼓動はおさまらない。

 遠足を目前に控えた小学生のように、俺は指折り数えてその日を待った。

 図書館の夜の扉を開ける日を。



 火曜日。

 目が覚めると、時計の針は七時を示していた。心なしか、いつもよりも部屋が暗い。

 嫌な予感がしてカーテンを開けると、雨が降っていた。テレビをつける。天気予報では青い傘のマークが元気に揺れていた。

 正午を過ぎても、空は泣き止んでくれない。昼休みに、学に会った。

「延期かな」

 学は夕方まで待とうと言った。学の鞄には、白いてるてる坊主がくっついていた。


 雨がやんだのは、夕方の五時過ぎだった。

 六時に近所のファーストフードで学と落ち合った。最後の確認をする。

「懐中電灯は」

「持って来たよ」

 小型の災害用懐中電灯を鞄から取り出すと、学はさっきのてるてる坊主を鞄からはずした。

 輪ゴムをほどくと、てるてる坊主は白い布二枚と輪ゴム二つにかわった。

 学は鞄から自分の懐中電灯を取り出すと、白い布で電灯部分を覆い、輪ゴムでとめた。明かりが必要以上に外に漏れるのを防ぐ為の措置だ。

「これは君の分」

 渡されたもう一組の布とゴムで、俺は自分の懐中電灯を覆った。

「分解されて怒らないかな、てるてる坊主。せっかく晴れたのに」

「どうして怒るんだ。ほら、見てよ」

 学が懐中電灯を俺の方に向けた。

「ちゃんと目が、電灯部分に来るようになってるだろ」

「……だから何なんだ」

「図書館の夜を見られるのに、怒ったりなんかしないさ」

 学はさらに、サインペンで口を書いた。懐中電灯に変身したてるてる坊主はにっこりと笑っていた。


 八時きっかりに俺は図書館のゲートをくぐった。

 今日に限って、職員が俺に注目している気がする。いつもと同じようにと心の中で呟きながら階段を上がる。知らず知らずのうちに、呼吸があがっていた。

 緊張している。それ以上にわくわくしている。

 こんな気分は久しぶりだ。

 早く九時になって欲しいと思いながらもこの焦りが心地良い。二階の奥にある学習机に座った。階段が本棚の隙間から見える。

 十分遅れて学が上がって来た。

 本棚越しに目が合う。笑いもしない。合図もしない。けれど交わされた視線には、押さえようの無い期待が含まれていた。あとは時が経つのを待つばかり。

 そして三十分後。

 人気がほとんどなくなった段階で、横を学が通り過ぎた。小さなメモ用紙。

『今、誰もいない』

 時計を見ると、予定の時間よりも五分速かった。

 学は何事の無かったかの用に階段に向かう。予想外の人目を避ける為だ。

 俺はメモをポケットに突っ込んで、早足で例の机に向かった。


 心臓の鼓動がさらに激しくなる。静まり返った図書館に響いてしまいそうだ。机の端を掴み、ゆっくりとずらす。一人分のスペースが空く。入り込もうとした瞬間、突然大きな声がした。

「あった!」

 学の声。誰か人が来たのだ。

 無我夢中で机の中に入り込み、息を潜める。自分の呼吸と心臓の音がうるさくて、足音さえ察する事ができない。

 しばらくすると、誰かが机の横に立ったのがわかった。すっとしゃがみ込んで、学が中に入ってくる。安堵のため息をつくと、学が自分の唇に人差し指を当てた。慌てて再び息を潜める。

 学は内側から、片手で机を壁際に引き寄せた。誰かに見られても分からないくらい、微かに、慎重に。

 学が机から手を離すのと同時に、『蛍の光』が聞こえて来た。図書館がもうすぐ閉まる。

 夜が、もうすぐそこまで来ているのだ。

 音楽とともに微かにしていた人の気配も完全に消えた。しばらくすると階段から大きな足音が聞こえてくる。電気が消された。机の下は真っ暗だ。

 学の背中のすぐそばを、丸い黄色い明かりが滑る。しばらくして、今度はもっと白い明かりが、微かに見える机の上を照らしていた。徐々に下がる。息を止めた。

 やがて明かりは遠くに流れ去り、また階段から、カツ、カツという足音が聞こえて来た。音は段々小さくなる。学はまだ何も言わない。暗くて、学がどんな顔をしているのかもわからない。

 心の中で数を数え始めた。一、二、三、ゆっくり三百まで数えたとき、急に目の前が明るくなった。

「うわっ」

 思わず声を出す。学が懐中電灯をつけたのだ。

「脅かすなよ」

「別に脅かしてないよ」

 学は澄ました顔で答えると、懐中電灯で俺の手元を照らした。俺も鞄から自分の光源を取り出す。

 ゆっくりと、音をたてないように机をずらした。学が先に出る。

「外を照らすなよ」

 慌てて注意深く懐中電灯を持つと、机の下から音をたてずに這い出た。

 学はもう、てるてる坊主の懐中電灯の明かりを消していた。机をもとに戻してから、俺も自分の明かりを消した。

 学は横に突っ立ったまま動かなかった。

「学?」

「いくぞ」

 学は小声で言った。隠しきれない喜びが、口元の笑みから伺える。心なしか声も少し上ずっている。

「ああ」

 頷いた俺の声も、学に負けないくらい上ずっていた。窓から指す月明かりが、絨毯をうっすらと照らしている。

 柱の影から、俺と学は「せえの」と声を合わせて、月夜の図書館に踊りだした。



 そこは青く壮大な別世界だった。窓から差し込む満月の光が、本の間をまばらに縫って行く。昼間木々の間から差し込む太陽の光の代わりに、薄い空色の木漏れ日が静かに本棚を輝かせていた。

 海だった。本の海だ。

 カラフルな背表紙の色彩が、すべて薄い青で染められていた。薄い色の本は淡く、濃い色の本は深い青色に染まり、波の緩急を作り出す。風に揺られる木々の影や、雲に隠れる月の光が絶え間なく揺れ、潮の満ち引きを作り出していた。

「潮って、本当に月の光で起こるんだな」

 そう呟くと、学はなぜか驚いたように身を引いた。

「なんだよ」

「いや」

 揺れる月明かりの下で、学は歯を見せて笑った。

「やっぱり、君と来てよかった」

 子供のように無邪気な笑顔だった。


 二人で、ゆっくりと本棚の間を練り歩いた。木々の影の合間に見える窓辺の本棚は明るく、ほんの少しだけ騒がしい気がした。

「木々も読書に来ているのさ」

 自分でそう言ってから、学は吹き出した。今までになく、学は笑い上戸になっていた。

 背表紙の一部が光に反射して、光っているように見える本があった。俺がそれに気づいたときには、学が先に手に取っていた。

「嵐が丘、だね」

 英語のタイトル表記のそれを手にとると、学は懐かしそうな顔をした。

「僕は確か中学二年生で読んだな」

「俺は一昨年だったかな」

「君は共感できるかい。ヒースクリフの歪んだ恋に」

「どうかな……」

 俺は首を傾げた。

「復讐にとらわれていろいろやっているときは馬鹿だなって思ったけど、キャサリンを求めてさまようところは、嫌いじゃないかな」

 学はぱらぱらと本をめくった。

「学は?」

「僕はよくわからなかったな」

 振り返った学は、どこか寂しげだった。

「ずっと憎み続けられるほど、人を好きになる気持ちなんて知らなかったからね。亡霊にうなされるくらい好きなら、もっと他にやりようがあったんじゃないかって思った。恋に我を忘れるなっていう、道徳的なお話かと思ってた」

 学は本を閉じて、また書棚の海へと戻した。

「今は、そんな心もあることを知ったけれどね」

 そう言って、学は再び歩き出した。二三歩間を空けて、俺も続く。

 ふと、学は立ち止まった。

「そういえば、君の恋の話は聞いた事なかったね」

 そうだ、と振り返った学は、自分の思いつきに酔って瞳を輝かせていた。

「これから、自分たちの恋の物語にぴったりの本を探さないか」

「なんで恋の話からのスタートなんだよ」

「図書館が僕たちに最初に寄越した本が、嵐が丘だったからさ」

 学はいたずらっこのような顔をして、大きく両手を広げた。

「これだけたくさん人生がここには詰まっている。どこかには、似たような恋物語だって見つかるさ」


 学が選んだのは、夏目漱石の『こころ』だった。

「これって、主人公ちゃんと好きな人と結婚するじゃないか」

「僕が重なっているのは主人公じゃなくって、友人のKだよ。誰かを好きな事に自分自身が耐えきれなかった青年さ」

「お前、付き合ってただろうが」

「だけど、自分の葛藤に耐えきれず死にかけていたあたりは似ていないかい?」

「似てないと思うけどな。学がただ漱石のファンなだけだろう? 大体、あれは恋愛感情にふりまわされている自分が許せなかったって話だし。第三者である主人公はその点においては無関係なんだから、恋人をとられたてぐずってたお前とは全然ちがう」

 そう言って、俺はふと海から浮かび上がって来た本を、本棚から抜き出した。

「まだこっちのほうが近い」

「『オペラ座の怪人』がか?」

「エリックは学にそっくりだと思うよ。愛を知らず育ち、知ってからは彼女への愛故に彼女を手放し死を選ぶ」

「僕はまだ死んでない」

「死にかけてただろう。実際」

 学は黙り込んだ。俺は本を元に戻した。

「君は何の本を選ぶ?」

「俺か?」

 青白い本棚を眺めながら言った。

「俺は最近エンタメ小説ばっかり読んでたからなあ……」

「君の恋の話は聞いた事無かったね」

 学がそう言って横に並んだ。

「なら聞かせてよ。僕が君の恋にぴったりな本を選んであげよう」

「お前、面白がっているだろう」

 横目で軽くにらむと、学は素知らぬ振りをしてとなりの本棚へと移動した。

 ため息をついてから苦笑した。いいか。だってここは、図書館の夜だから。

「高校のときにさ、付き合った人がいたんだ」

「うん」

 学は真剣に聞いていた。茶化すようなやつではなかったから、今まで誰にも話したことの無かった話をした。


「高校のとき、彼女がいたんだ。委員会の先輩でさ、ちっちゃくってかわいいけど、すごくしっかりしてて、いつでもみんなのリーダー格で、全部の学校行事の委員会で幹部やっているような人だった。でも時々頼りないときがあって、一人で居残って書類整理とかしてたりして、そういう背中見たから、頼って欲しいって思ったし、いつでもこの人の支えになりたいって思った。仲良くなって、二人で遊びにいったりすることもあった」

 ぶらぶらと本棚の間を歩きながら言葉を続けた。学は少し遅れるようにして後ろをついてくる。

「俺が二年で、向こうが三年の十二月だったかな。彼女がアメリアに留学することが決まったんだ」

「アメリカ?」

 驚いた声に少しだけ笑った。

「そう。優秀な人だったんだよ。留学が決まった放課後、向こうから告白されたんだ。自分がアメリカに行くまでの四ヶ月、付き合ってくれって。俺は、頷いたよ」

 振り向くと、学はなぜか立ち止まっていた。俺はただでさえゆっくりだった歩調を、さらに緩めた。

「たった四ヶ月だけど、すごく楽しかった。映画見たり、スケート行ったり、ただ喫茶店で話すだけでも特別だった。ずっと一緒にいたくて、どんどん惹かれた。だから、彼女がアメリカに発つとき、言ったんだ。『遠距離でもいい、俺とつきあってくれ』って」

 学は、本棚の角にもたれるようにして俺の話に耳を傾けていた。

「そしたら、笑顔で言われた。『無理だよ』って。俺はまだごねた。ずっと好きだって。離れていても変わらないって。そしたら、好きで居ることと、付き合うことは別なんだって言われた。彼女の目から涙がこぼれてさ。いてもたっても居られなくて、抱きしめようとしたら、それはもうできなくなるんだよって言った」

 自然と漏れたため息が、図書館の夜に浮かんでいた。苦笑しながら、立ち止まる。ちょうど目の前に、村上春樹全集が並んでいた。

「そのとき、わかったんだ。先輩が何を言おうとしているのか。もし先輩が、向こうでなにか嫌な事が会ったときに、俺は何もできない。涙を拭いてあげることも、抱きしめてあげることも、大丈夫だよってささやいてあげることも、何もできない。本当にそばに居なきゃいないときに、そばに居られないんだって」

 月が雲に翳っていて、学の顔は見えなかった。たぶん、俺の顔も見えないんだろう。だから、ほんの少しだけ、唇をゆがめた。

「俺が先輩にしてあげられる事は、恋人って言葉で縛るんじゃなくって、先輩が寂しいときに、すぐに誰かに頼れるようにしてあげることだった。だから、俺の独占欲のせいで、先輩が一人で泣いて一人でかかえこんで辛い思いをするくらいなら、そばに居られる誰かと新しい恋とした方が、先輩のためだって思ったんだ」

「好きだったのに?」

 静かな問いかけの声があった。ゆっくりと息を吐いて、答えた。

「好きだよ。叶うなら俺が支えたい。会いたい、一緒にいたい。だけど何より、笑顔で居て欲しい。辛い事を抱え込んでしまわないでほしい。だから、そのとき俺はわかったって言った」

 そして最後だからと、抱きしめた。今でも微かに腕に残る感触。小さくて、暖かい、愛しい思い。

「ときどき電話するよ。でも、付き合いたいとは言わない」

 期限付きの恋愛だった。けれど、思いの期限はまだ来ない。

 学は、そういう恋は悪くないねと言った。それから、自分で言った言葉に戸惑ったような顔をして、うつむいた。

「切ない、か」

「ああ、切ないよ」

 立場も、恋した時期も、相手も、環境も、別れた理由もすべて違うけれど、たぶん気持ちの本質は同じなのだろう。会いたい。会えない。痛い。苦しい。憎みたくなるほど愛しい。全部ひっくるめて。

「僕は今ふと思ったよ」

「何を?」

「切ないって言葉は、きっとこういう気持ちを誰かに伝えたくってそのためだけにできたことばじゃないかな」

「かもね」


 三階に上がろうと、学が言った。ポケットにしまっていた懐中電灯を取り出し、足下を照らす。俺も後に続いた。

 静かな図書館に足音が響く。二人しか居ないはずなのに、十人分くらいの足音がした。

「専門書が多いね」

 学はうきうきしながら言った。本なら何でもいいらしい。

「この辺は、君の専門?」

 学は経済の棚の前で立ち止まった。

「一応はね」

 いくつかの本を指し示す。

「この辺は持ってるよ」

 今度は俺が先に立って歩き出した。

「この奥はなんだっけ?」

「スポーツ工学だったはずだよ」

「君以前、サッカー部だったんだっけ?」

「ああ、これでもキャプテンだったんだ」

 月明かりに照らされて、時折見慣れたサッカー用語が見える。

「高校三年のときは、あと一回勝てばインターハイって所までいったんだ」

「そうなんだ」

 足音が止まる。学が立ち止まったのだ。俺はかまわず、裏の棚に回った。

「泣いた?」

「ああ」

 試合が終わったときは、呆然と地面を見つめていた。後輩や同輩が泣くなかで、一人だけ事態が飲み込めずにいた。胸のおくに何かがつまって、困惑したような顔をして更衣室のベンチに座っていた。

 後片付けのため後輩がいなくなったあと、駆けつけてくれた先輩が、「がんばったな」と言って無理矢理胸を押し付けて来た。何をするんだと一瞬思ったけれど、背中をぽんとたたかれて、やっと胸のつかえがとれた。泣きじゃくった。泣き止んでいたはずの同輩たちもまた泣いた。先生も泣いていた。

 暗闇の中に鮮やかな記憶が蘇り、俺は足を止めて上を見上げた。学は何も言わなかった。もしかしたら、学もつい先日の学園祭のこととかを思い出していたのかもしれない。次に行こうと声をかけた学の声が、少し涙ぐんでいたような気がしたから。


 四階は、雑誌が中心だ。

 他の階に比べて、圧倒的に窓が少なく、暗い。青いというより黒い。

「上に行くほど深くなるんだな」

 図書館の海の不思議だ。

 学は一度消したてるてる坊主の懐中電灯を再びつけた。

 てるてる坊主は、チョウチンアンコウになった。


 春秋や群像や文芸が、創刊からすべて並べられている。

 息をのむ音が重なった。

「文学の歴史だ」

 学は言った。

「真珠が並んでるみたいだ」

 俺は呟いた。

 二人で端から順に雑誌の名前を読み上げてみた。タ行まで行く前に顎が疲れて止めた。

「本をたくさん読んでいるとさ」

 学が言った。

「著者のことが気にならないかい」

「経歴とか、か」

「それもあるけど」

 学の声が少し笑っていた。

「この作者は、この物語を構築したのはどういう意図だったんだろうか、とか。この人物を通じて言いたい事はなんだろうとか。中学から高校にかけて、僕はひたすらそういうことを考える事に没頭していた」

「それが、大事なんじゃないのか」

 学は振り向いた。柱の影になっていて、表情は見えなかった。

「大事じゃないとは言わないよ。だけど、もっともっと純粋なところに物語の本質はあるんじゃないかって、君に会ってから、考えるようになったんだ」

 学はまた歩き出した。

「君は、僕と会っていない間、ほとんど本を読まなくなったと言っていた。でも、君が読んだ本の感想について語るとき、僕はなんだか羨ましくなった」

 学は本棚の裏に回った。俺は焦らずについていった。

「君の語る物語は、すべて君自身の物語から紡がれていた。君が泣いて、笑って、友情を育んで、全力で戦って、勝って、負けて、そういうすべてが君の中で輝いていた。君が読み僕に伝える物語は、生きていた。対して僕が語る物語は、あまりにも空虚だった。恋をせず、友も必要とはしない、心から喜んで泣いたことも、笑ったことも無かった気がした。作者がどうとか解釈がどうとか言っているだけでは、ダメだと思ったんだ。このままじゃ、何も響かないままで終わってしまうってね」

 学は遠くの本棚から振り返った。

「君はすごいよ」

 暗くて、学の顔は見えなかった。

「自分の物語を紡ぐ事で、こんなに深いところまで潜れるようになったんだから」

「違う」

 気づけば否定の言葉が口から漏れていた。つかつかと学に歩み寄った。

 学は立ち止まったまま動かなかった。

「俺は確かに、生きていたさ。だけどそれだけじゃ自分の物語しか知らなかった」

 学の隣に並んだ。

「学が見せてくれる、広い海に憧れた。俺一人では、広い大海原に出て行く事はできなかった。学が遠くの海を知っていたから、だから俺はここまで来ようと思う事ができたんだ」

 学は泣き笑いのような顔をして、それから俺の腹を小突いた。

「いてっ」

「それは僕の台詞だよ」

 トンッと、片手で本棚に寄りかかった。

「君があんまりにも深くにいるものだから、追いかけずにはいられなかった」


 それから二人で、広く深い書物の海で、とりとめの無い話を続けた。誰の何の本が好きかという話から、自分の昔の失敗談、部活の話やゼミの合宿の話、そしてまた本の話。あっちいったりこっちいったりしながら、話の輪はぐるぐると回った。

 何かの拍子に、ふと学が言葉を切った。

「文学について語り合える日が来ればいいと言ったね」

 学は唐突に言った。子供のように澄んだ声だった。

「実際に叶ってみれば、結局子供のころと、大して話す内容は変わってないじゃないか」

 学はくすくすと笑った。俺も小さく笑った。

 深く青い図書館に、二人の笑い声が響いた。どこかで反響して、それは少しずつ大きくなった。図書館も、笑っているのだと思った。

 これほどたくさん本があるにも関わらず、俺たちは本を一冊も開かなかった。

 図書館の夜で読む本は格別だろうという予想はできた。けれども、それよりも学と二人ですごす図書館の夜の方が、もっと貴重で大切なものになると思った。生産性のまるで無い馬鹿な事をして、ここで二人で笑いながらいろいろな話をすることが、どんな書物を読んだときよりも心に残るだろう。

 学は言った。

「もしも誰かが、夜の図書館を描いた小説を書いたとしても、僕たちの図書館の夜よりも、素晴らしいものを書き表すことはできないだろうね」

 俺たちは生きている。ご飯を食べ、泣き、笑い、信じてもいない神に祈り、誰かを想う。それを伝えたくて、伝えきれなくて文字にする。物語にする。

 図書館は、鮮明な記憶で溢れている。

「なあ、学」

「何?」

「俺はこれから本を読むときには、必ずこの青い本の海を思い出すよ」

 学は、そうだねと笑った。

「それができる僕らは、幸せ者だ」


 いつの間にか、夜明けはすぐそこまで来ていた。俺と学は、二階の本棚に戻り、窓の下に座りこんで、段々と青い海から浮かび上がって行く本棚を見つめていた。それから、あの忘れられた机の下に潜り込んで、日常の扉が開かれるのを待った。

 机の下に学はてるてる坊主の布を隠した。

「誰か使うかもしれないだろう」

 冗談だとわかっていても、ロマンチックだと思った。

 やがて図書館が開いた。少しずつ人が増える。

 人気が無いときを見計らって、俺たちは何気なく机の下から這い出た。

 学が先に、階段を下りて行った。俺はその姿を見送った。

 ふと思いついて、自分の懐中電灯を覆っていた布を取り出した。持っていたペンで、小さくかき込んだ。

『夜への入り口』

 それを、机の下に滑り込ませて俺も階段を降りた。

 学は外で待っていた。メモの事を話すと「やりすぎだ」と笑って頭を小突かれた。

「それじゃあ」

「ああ」

 別れの挨拶はこんなものだ。学は部室に向かって歩き出した。俺は家へ帰って、寝る。そしてきっと、海の夢をみるだろう。

 どんな蒼よりも美しい海の夢を。



 それから四ヶ月後に、大学を卒業した。卒業式当日に、二人で図書館のあの机の前で写真をとった。俺が今部屋に飾っている唯一の写真だ。

 卒業後、俺は地元の銀行に勤めだし、学は東京で就職しシステムエンジニアになった。卒業して間もないころは二ヶ月に一度は会って、飲みながら職場の愚痴を聞く事もあったが、三年後に学が結婚してからは、年賀状でやりとりをするだけになった。俺は学が結婚して一年後に、アメリカから帰国した高校の時の彼女と結婚した。

 毎年、元旦にきっちり届く学からの年賀状には、こんなことが書いてあった。

『今年こそは、あの夜の事を小説にしようと思う』

 毎年、元旦になってから年賀状を書く俺は、毎年学に『楽しみにしている』と書いていた。

 けれど、今年の元旦には年賀状が来なかった。かわりに、大きい封筒が一つ速達で送られて来た。中には、紐で綴じられた分厚い紙束と、たった一言の添え状があった。

『書いたよ』

 だから今年の新年の挨拶は、俺も長い手紙を書いてみようと思っている。読書感想文を書くのも、二十年ぶりだ。

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