幕間 ある妖の情景
柔らかな光が、自分を包みこむーー。
手を伸ばしても届かないと思っていた。それはあまりに尊くて、卑しい自分には不釣り合いなモノだった。しかし差し出された手は温かくて、躊躇う心情など生まれなかった。そもそも心などというものは持ち合わせていなかったのだが。
長年待ち兼ねたこの日、ようやく自分がこの世に生を受けたことを理解できた。それまでには感じられなかった光や風や生きるモノの吐息が五感を通じて心に訴えかけてくる。
ーー世界が変わった
同時に、自責の念も覚えた。愛情の籠もった手の主に自分は何をしようとしていたのか。心から自分を救おうとした幼子を、振り払うばかりかあまつさえ手に掛けた。それは失敗に終わったが、思い返すたびに自らの首を絞めたくあった。それをも少女は阻む。
挙げ句、いつも少女の傍らに立つ男にも釘を刺された。
「お前バカだろ。コレだから碧の一族は質がワリイ。よく言や真面目、俺に言わせりゃただの恩知らずだ」
喉を痛めて声が出ないのをいいことに、彼は容赦なく続ける。
「俺はこれっぽちもお前のことなんか心配しちゃいない。だがお前が死ねばアイツの心に傷が付く。・・・・・・もしそんなことがあれば、俺がお前を生き返らせてやるよ」
後半に殺気めいた鋭さが加わる。嘯く風はなく、彼が真剣であることは明白だった。赤の一族の長である彼ならそれも可能なのだろう。
溜息混じりに悟ることがあった。ーーそういう、生き方もある。
殺伐とした仙の住む山で過ごした日々。本能のままに妖を、時に人を喰らって生きてきた。或いは人の態をして人里で狩りをすることもあった。
生まれてしばらくの妖というものには感情がなく死体をも喰らうのだが、より新鮮でうまい餌をという嗜好が、少女と出会ったとき自分の中にある唯一の感情だった。
真性の妖である自分を忘れようというわけではない。人より長く生きられるこの身、自分を思う少女のためにしばし生を選ぶ覚悟が出来ただけのことだ。
ーー自分の中にある愛情、感情はすべて彼女の中に帰結するのだから。
その少女とこんなにも長い間離れるのは初めてだった。しかも、その傍らには自分ではなく、得体の知れぬ男が張り付いている。
追いかけようと思った。守りたいと思った。しかし想いは玉砕される。
『私のことはいいから、侃雫は自分のために生きて』
鮮やかすぎる笑顔に、侃雫は言うべき言葉を見失った。
ーー紅榴が、自分の生きる理由すべてだというのに。
一筋の涙と、碧狐の炎にも似た毛並みとが絡んで消えていく。