王宮の闇
事の起こりは一年ほど前、病床に伏す国王のこの世の際ともとれる一言だった。
『孫の・・・・・・、六宮の子の顔が見たい』
大絳国国主、絳鎧園には六人の御子がいる。そのうち唯一の男児が六番目の宮、すなわち六宮であり、この者は唯一妾妃の子であった。他国ならば彼こそが世継ぎという単純な話も、大絳国では長子・長姫のうち先に生まれた者を正統な継子とするため話は一転する。まだ夫子を得ぬ一宮を差し置いて六宮の子が見たいなどというのは、暗に玉座を六宮に明け渡すという意味を孕んでいた。
そのときの重鎮たちの動揺は天を駆ける勢いで、下々にまで伝播していった。
「六宮様が男の子とはいえ慣わしではやはり」「そもそも六宮様に政が務まりますかな」「六宮様の生母さまは異国の者、そんな血族に任せるなど」「いっそ一宮様に連れ添いを」と、上級官吏たちは口々に好き勝手に唱えた。
最も頭を抱えたのは「噂の鉄人」との異名を持つ礼部長官蔡石刻だった。王族の婚姻について絶大な権限を持つこの上級官吏は、一方ではかの伝播の張本人でもあった。
「わ、わしゃあ~どうしたらええもんかのぉ~~」
禿げた脳天からカッカッと湯気が上がる。人の良さそうな相好は不安に歪み、たなびく白髪は生気を失って今にも生え際の数本が投身自殺を図ろうとしていた。
「・・・・・・やはりここは覇気のある一宮様に・・・・・・だが陛下の御意志を無視するわけにも・・・・・・」
この独り言がすべて噂となって宮中を駆けめぐる。彼の部下たちには上司に秘密を話さない、という暗黙の掟があるほどだ。
「蔡尚書」
呼び止められて石刻は振り返った。そして、凍った。
ーー纏うは東雲を思わせる紫の衣、先につくのは絹のような気怠い指先、そして顔を覆うは紅色の蕩けるような透ける布地。
大地を震わせる泰然とした声音だけで気づくべきだった。政の中心となる外朝に女性などいない。唯一、彼女を除いては。
「い、一宮様・・・・・・」
大絳国第一王位継承者、それが一番目の宮様、つまりは一宮殿下である。その真名は玉座に就くまで、或いは降嫁するまで秘匿とされる。ただ、国主夫妻を除くと、後宮に携わるごく僅かな者だけは真名を呼ぶことを許されている。石刻はその数少ない部類であったが、彼女を真名では呼ばない。いや、呼べない。
「どうした。私がここにいてはおかしいか、王佐として任を全うするこの私が」
氷のような冷たい視線が石刻を射抜く。
後宮の慣わしから姫は面紗で顔を覆い隠している。しかし、彼女の冷酷さはそれを経て褪せることはない。表情が見えない分だけ増長しているようにさえ感ぜられる。
「な、何かわたくしに御用でしょうか」
「ああ、蔡尚書。頼みがある。父上、いや陛下の望みを叶えてやってはくれないか」
「は?それはどういう・・・・・・」
言葉の真意を測りかねて、石刻は無礼にも間抜けな面を晒した。
「陛下に孫の顔を見せてやれ、と言っている」
石刻は回答に詰まる。静かに一呼吸し、おずおずと紅の面紗を見上げた。
「ま、誠にですか。では、我々がお奨めいたしますは潘家の嫡子、或いは黄家の次男、どれも直系の由緒正しい家柄の者がよろしいかと」
「それは私の夫子のことか?まあ私を思うてのことだろうから、心に留め置いておこう。だがな、そうではない。私が言うのは六宮に、だ」
「む、六宮様にでございますか」
「ああ。私は寛大だからな。弟に先を越されようと何ら気にするところはない。だからそちらも私など気にせず、妃選びに励め」
「はは、畏まりまして」
気圧されて咄嗟にとった了承の礼など見届けずに、一宮は何事もなかったかのように回廊を進んでいった。あとには翻された鮮やかな衣の影と妖艶な囁きが残される。
「だがそれも狐宮などと呼ばれる奴の妃になろうという者がいるのなら、だがな」
より多くの栄達を望むならば彼女こそ玉座に相応しい。現王と同等の覇気、性をも超越する武の力。だがもし安定した、平等たる栄華を世が求めるのならば、彼女の才は愚王たる資質になり得る。故に六宮に賭けるのも悪くない。だが他方で、先々代の御代から続いた混沌とした戦乱の世を経て大絳国は大陸全土に領土を拡大し、莫大な富を得た。その代わりに失った物も、失った者も多い。そろそろ国の与り知らぬところで毒虫が大きく成長していてもおかしくない。そんな時世に、あの六宮が玉座に就いて何ができる。
さすがの石刻もその想いだけは自身の心の奥底に仕舞い込んだ。
が、されどやはり噂の鉄人、一宮の言葉は瞬く間に宮中に広まった。それからほどなくして一宮らの予想を裏切り、六宮の妃に我が娘をと華州侯が名乗りを上げたのである。
そんな人物になりかわれと、悧彰は言う。
「こんな厄介なこと君にしか頼めなくてね。報酬は君の言い値を出そうじゃないか」
国王直属の近衛師団である羽林軍の将軍職を預かる悧彰は、華州侯令嬢の輿入れに際した護衛の全権を任されている。この輿入れを無事成功させるために天文学的な予算も自由に動かせるのだ。この異例すぎる措置は今上陛下の真に迫る願いの顕れと言えよう。
「成功報酬は高いけど命の危険を伴う身代わり、ということですね。ーー・・・それってもしかして、六宮殿下とお会いすることになるかもしれないからですか」
おずおずと紅榴は問う。おずおずとーーというのは、巷で聞く六宮の噂を思い出したからだ。こんなことを静中将に聞いていいものか、とさすがに躊躇った。
六宮殿下は狐宮ーー、水疱の痘痕で乱れる顔を狐の面で覆い隠して、しゃがれた老人のような声で囁く奇行の王子、それゆえ巷では狐宮と忌み嫌われている。数々の彼の奇行の内で特に噂になっているのは彼の室から夜ごと聞こえる奇っ怪な音で、鋼を叩くような高音を奏でては死者を呼び覚ましているのだとか。それも真相を確かめようとその室を覗いた者はみな、誰一人として生きて戻れないという。
もし紅榴がうっかりその場に居合わせてしまったらーー、それを考えるとそれなりの上乗せ金が生じても納得できる。
「六宮殿下に会うのが恐ろしいかい?」
からかいめいた問いかけに紅榴は頭を振る。
「いえ、まったく。それにこの目で確かめるまでは、何事も信じないタチなんです。虎鶫なんて仙人だの、妖だのって言われてるんですよ。身をもって噂が当てにならないって知ってます。六宮殿下も案外、人畜無害の天然策士かもしれませんよ」
「まるで知っているような口振りだけど、殿下が本当にそんな人だったら私は厭だよ。そもそも策士って時点で無害かどうかは微妙だし、もし本当にそんな人がいるなら敵にしたくないねえ、特に今は」
「どういうことですか、特に今はって」
急に悧彰の口調が重くなって気がして、紅榴は首を傾げる。
「恥ずかしい話、守備状況が芳しくない。身代わりが見せしめに襲われてねえ」
「なんでですか。激昂の蘭とあろう方がついていながら・・・・・・」
やれやれといった風の悧彰に、紅榴は思わず口走った。深窓の令嬢ともなればその容姿を知る者は多くない。追っ手を捲く気になればいくらでも方法はあるはずだ。
紅榴の心中を察したのか、悧彰は苦く笑った。
「姫君の我が儘でね、行く先々で大々的に社へ参拝なんてするものだから精巧な人相書きが出回ってしまってるのさ。いくら身代わりを立てても、下手な偽物じゃ役に立たない。だから君を探していたんだよ。今までは脅しでもそろそろ敵も本腰で来るだろう。せめて後宮に入内するまででいい、仕事を引き受けてくれるかな虎鶫殿」
薔薇香に侃雫、紅榴を想う者たちの顔が脳裏を過ぎる。が、それとは別に心に浮かんだ人を想うと、一拍も待たずに略礼をしていた。
「静中将、お引き受けします。命を狙われて困っている方を放ってはおけませんから。ーーでも、」
「でも、なんだい」
「条件を一つ、飲んでいただけますか」
紅榴の蕩々とした瞳に、迷いと不安の色はなかった。