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才田の社で

 そんな騒動もあって、紅榴たちが社に着いた頃にはかなり日が傾いてきていた。

 街のあちこちでは夕飯の支度が始まっているのだろう、湯気が立ち上り、食物を炊く匂いが立ち込めている。けれど紅榴のいる社は街外れの小高い丘の上にあるため匂いまでは届かない。その代わりにざくろの花が匂い立つように咲き乱れている。

「紅榴さん、裏庭のざくろの花も見所ですよ」

 参道の途中で侃雫が漏らした。

 王都にほど近い才田では信仰が赤孤に傾いているため、境内に赤い実のなる果樹を植える風習がある。中でもざくろは花も実も赤いので林檎や南天よりも上格とされ、邪を祓い、呪を破ると言われている。かつて、ざくろ一粒は人の生命よりも重いと詠った王がいたが、建国の使徒たる赤孤を崇拝する大絳国の王家にとって、ざくろは神木となる重要な木だ。それゆえ、王都癸苑にある王宮の裏庭にはざくろの森が広がっているという。

「癸苑か・・・ねえ、なんで栩煖は私の癸苑行きを反対したの? 侃雫なら何か知ってるよね」

 一座は次に王都癸苑へ赴く予定だが、紅榴は栩煖に止められ才田に居残ることになった。

 止めた張本人はその理由を教えてくれない。なので侃雫ならば、と思ったのだが、

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・で、では私はこれで。まだ社での準備が残っていまして、紅榴さんは裏庭に行かれるといいですよ、ほらほら、ね?」

 裏庭に紅榴を押し込めると爽やかな笑顔で侃雫は風の如く去った。侃雫が紅榴に隠し事をするのは決まって栩煖が絡むときだ。どうやら弱みを握られているらしい。

「ちっ、なんて文句言っても、栩煖が絡んでるんじゃ言うだけ無駄か・・・・・・ね、兄様」

 振り返った先、咲き狂うざくろの木。その根本に一抱えほどの石塔がある。石塔といっても適当な川原石を積み上げただけのもので、苔が鈍い灰色に鮮やかな色を添える。

 この石塔は以前才田に来た時に紅榴が建てたものだ。生き別れた兄のことを忘れぬよう、今一度逢えることを願ってここで誓いを立てた。以来、才田巡業の度に社へ来ては、墓標でもないのに愚痴だの何だの、他愛ないことを打ち明けている。

「今日も来たよ、今回はしばらく才田にいるから毎日来るつもりなんだ。今から剣舞の練習するから見ててよ。兄様みたいにうまく舞えるといいんだけどね」

 記憶の中の兄は何でもそつなくこなす麗人だった。母から与えられた剣で戦う様はまるで舞うようで、兄の顔はぼんやりとしているのに美しさだけは鮮明に覚えているーー。

 すらりと両刃の剣を抜いて、大空に高く掲げる。剣舞用といえども真剣には違いない、一瞬でも気を抜けば軽い怪我ではすまない。

 深く息を吐いて、肺の空気を全て吐き終えるまで静かに瞑想する。

 大地の気の流れを汲み取るよう、足を揃えて構え、剣で周囲を凪いだ。剣が空気を擦る音が聞こえ、社という神域に在るせいだろうか、辺りに清浄な空気が満ちてくる。

 まずは一太刀、継いで二太刀ーー。

 舞台の上で奏でられる楽は、頭の中で蕩々と流れている。舞の一挙一動一頭足、すべては観る者の心を奪うよう鋭く優艶に、剣は重さを捨てて絹布のように優雅に揺蕩う。

 舞の終焉まで、あと数歩。踏み出した体勢のまま逆手で剣を握り、眼前を凪ぎ払おうと一歩踏み出す、ーーその時、紅榴の手から剣が溢れ落ちた。

 どこからか甘く涼やかな薫りがふわりと漂う。気品があり、奥深く、妙に心地いい薫りは忘れていた周囲への感覚を呼び覚まし、集中力を一気に削いだ。

「おや、お嬢さんの邪魔をしてしまったかな」

 不意に届いた、腰を砕くような美声に紅榴は人目に気付かぬ程度に動きを止めた。

 まさか自分のことではあるまいーーそう思って剣を拾って鞘に収めてみたが、よくよく考えずとも獣たちは藪の中に消えて久しく、この場にいるのは自分だけだ。

 声の主はいつの間にか紅榴の数尺先、表情の見える範囲にいる。

「つれないねえ、もしかして想い人がいるのかい」

 いよいよ自分のことを言っているのだと腹を括り、男へ向けた目は即座に丸くなる。

(・・・・・・侃雫に負けず劣らず、っていうか違う方面の美形だ・・・・・・)

 声の主はいかにも貴族様といった端整な微笑を湛えている。かといって勝ち誇らずに美しさはさり気ない。纏う衣も趣味の良さが滲み出ていて、何より切れ長の双眸が見せる輝きは街行く乙女を瞬殺するだろう。だがどことなく近寄りがたい美しさがある。

 ボンヤリと栩煖みたいだと紅榴は思った。

「あの・・・・・・女に、見えますか」

 問い返されて男は気まずそうに笑った。

「見える、といったら語弊を生むかもね。でも君は女の子だろう?」

 首を傾げる紅榴の髪を、男はおもむろに一房掴まえて自分の顔に近付ける。

「ん、やはりね。この香りは『月香木』、この国では花街でのみ取引を許されている特殊な香木だ。花街は君くらいの子が髪に香りが移るまで入り浸れる処じゃない。それならば出入りに自由が利く下働き、それも才田では裏方も女性しか奉公を認めていないはずだから、したがって君は女性ということになるね」

 睦言を語るように柔らかな微笑を言葉に添えられて、一瞬紅榴は返事に詰まった。

「よく、ご存じなんですね」

「まあ、度々転居していたからね。自然と色々なことが耳に入る。特殊な風物となればなおのこと記憶に残るものだよ」

(そういう問題でもないような・・・・・・)

 御仁の矜持を傷つけないようにと、紅榴はその言葉を押し留めた。それにしても、仕事で花街に行ったのは昨日なのに傍目にわかるほど香りが残っていただろうか。

 男は相変わらず、不敵な笑みを紅榴に投げかけ続けている。

「それで君、名は・・・・・・て、あれ、以前にどこかで」

 聞き慣れない典型的な誘い文句を耳許で囁かれて、背筋にゾクリとしたモノが走った。

「耳まで赤くなって、見掛け以上に初心なんだねえ」

 紅榴の腰はいつの間にか貴公子殿の腕に支えられ、身動ぎ一つ取れなくなっている。

(なっなんで、私、こんな目にっ)

 日頃、少年の扱いを受けている紅榴はひどく狼狽えた。いつもとは真逆、女性扱いされ慣れていないだけに妙な調子で脈は刻まれていく。

 だが、そんな心の叫びなど彼に通じるわけもなく、淡い吐息が髪を甘く湿らせる。

「いったいどこで会ったんだろうね、私としたことが思い出せないなんて」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ッいいえ、あ、ありませんから。お会いしたことなんて、一度もっ」

 逃れようとするほどどういう訳か密着状態は増すばかりで、雅な装いの下に鍛えられた肉体が在ることを知る羽目になる。

(なんて無駄のない体付きなんだ。やっぱりこの人、見間違えじゃなくて・・・・・・)

 半狂乱の中にいたはずなのに、冷静に観察する自分に肩を落とした。

「いやよいやよ、とは言うけれどその間が気になるねえ。君とはやはりどこかで、」

「お会いしたことなんてありませんっ。もしお会いしてるとしたらそれは私が、」

 月下香だから、

 素性を明かそうとしたそのとき、空気の異常さを察したのか白っぽい塊が茂みから飛び出した。それは紅榴が連れ歩いている銀色の獣、猪突猛進とばかりに男へ近づく。

「・・・・・・へえ、銀狐か」

 男の瞳が狡猾そうに閃いた。

 殺気にも似た獣の気配に呼応して、紅榴をそっと身体から放すと腰に佩く剣の柄を握る。

 振り返りざまに素速くその身を抜き、放った太刀は虚空を断つ。

 獣は今、男の首筋へーー。

「だめっ栩煖っ!!」

 喉が破れるような声で叫んだ。

 獣は波打つようにビクリと身じろぎし、男を飛び越えくるりと一回転する。トコトコと紅榴の傍へ歩み寄り、尾を逆立てたまま敵を見やる。

「銀狐ねえーー珍しいな、それに強い」

 男はかしゃりと剣を鞘に収めて、あっけらかんと呟いた。栩煖の剥きだしの敵意などお構いなしに手を伸ばし、膨らんだ艶のある毛先からピリピリと何かが伝わってくる。

「栩煖、いい名だねえ」

 男に触れられた途端、憑き物が落ちたように栩煖の尾の芯は失せた。だらりと垂れて、くぅーんと求めるように喉を鳴らしながら男に擦り寄る。

(く、栩煖が、懐いてる・・・・・・!?)

 その事実に紅榴は時を止めた。男の笑い声が届かなければ半刻はその状態で過ごせたほど、紅榴にとって驚愕の出来事だった。栩煖は気高く、人には決して懐かないのだ。

「すまなかった。おまえのご主人が可愛かったから、ついね。それに、」

 悪びれた風もなく男は続ける。

「まさか君が私の探していた月下香だったなんてねえ。昼間観たときは狐の面を被った優雅な女舞だったけれど、素顔の剣舞ともなると気魄が違うものだ」

 男はそう言うと、扇を片手に昼間紅榴が演じた「奏妖燈」の初手を構えてみせた。貴族ならば舞の心得もあるのだろう、男ながら女舞の妖艶な様を見事に醸し出している。

 不覚にもその姿に見惚れて、紅榴はハッと表情を改めた。

 男に甘く囁かれたときは即断即決、躊躇うなと薔薇香に言われている。

「月下香に仕事の依頼でしょうか。ならば無礼を承知で申し上げます。大層な貴人様とお見受けいたしますが、決め事ですので依頼は一座を通してくださいませ」

 そう言って膝をつき、深々と高貴な人に対する礼をとった。

 こういうことはよくある。街中で月下香かと問われ、酒宴の席に是非にと乞われる。そうして言われるがまま邸に連れ込まれたならば、ほぼ間違いなく身の保証はない。だから薔薇香から一座を通さぬ仕事は受けるなときつく言い含められている。

 だからといって芸人ごときが貴人に意見するなど許される行為ではない。自然と身を固くしていると「そう警戒しないでおくれよ」と困ったような微笑が降ってくる。

「私はね、月下香でなくて君に仕事を頼みに来たんだ。ねえ、虎鶫さん。その場合も一座を通した方がいいのかな」

「虎鶫に、ですか。ーー・・・月下香、じゃなくて」

 おずおず見上げると、目の前に差し出された手があった。

 女のようだと思ったそれは、滑らかな雪肌がそう見せるだけで実際は剣ダコで荒々しい。一見武人とは思えぬ風貌だが、隙のない動きと栩煖に浴びせた太刀がなによりの証拠だ。見る者が見れば思わず柄に手を掛けたくなるような覇気に満ちている。

 紅榴はその手を丁寧に取る。

「よく私が虎鶫だとお調べになりましたね。もしかして佩璧を使いましたか。それとも貴方のことだから、佩玉ーーそれよりは御名をお使いですか、激昂の蘭様」

 佩璧というのは官吏に与えられる一寸ほどの玉のこと。職に合わせて飾りが彫られ、小さく穿った穴には階級により組紐が通される。一方の佩玉は貴族が持つ一寸半ほどの玉のこと。成人した者が宗家の当主に与えられ、これを持って初めて貴族と認められる。特に宗家の佩玉は分家のものより一回り大きく、玉自体が特異な力を有するという。

 そんな貴重なものよりも、この男の通り名のほうが民草の中では効力を発揮する、そう紅榴は確信している。だから最後に名を確かめたのだ。

 男はまさか自分の通り名を出されるとは思っていなかったのだろう、一度だけ瞬くと扇の裏で満足そうな微笑みを浮かべる。

「嬉しいねえ、私のことを知っているなんて。やはり君とはどこかで」

「いいえ、ありません。この国に貴方様のことを知らぬ者がいないだけです」

 即座に否定して、紅榴は肩で息をつくーーまさかこんな人物だったなんて。

 激昂の蘭、真の名は静悧彰。庶民でさえ彼の名を知らぬ者はない。静姓で唯一の武官であり、一族の切り札として先の戦の前線に送り込まれた誉れ高き武人。この者の加戦で敗戦色を漂わせていた大絳国は巻き返し、これが大陸全土を征する機となった。大絳国の属国化を拒み続ける双琵を明け渡した英断の公子とともに、戦乱の世に終止符を打った功労者の一人である。史家の中にはこの二人なくして太平あらずと唱える者もいる。

 そんな人物が、

「可か不可か、答えてもらいたい。私の依頼、受けてくれるかな」

 後にも退かぬ様子で紅榴を求めている。

 思わず、話も聞かずに是と応えるところだった。風雅を形にしたような双眸に潜む強い意志が、紅榴の心の奥底にある鐘をやかましく鳴らさせる。

「虎鶫を探すことは禁忌、過去に天罰の下った者がいることはご存じでしょうに。それでも私のところへ来たってことは、相当厄介な仕事なんですね」

 悧彰の扇がパシリ、と歯切れ良く閉まるーー紅榴はゆるく目蓋を上下した。紅榴とて舞台人の端くれ、笑みの中に感情を隠すことくらいできる。

 だが次の悧彰の言葉はあまりに予想外すぎて、たまらず目を見開いてしまった。

「華州侯令嬢、婉麗姫に成り代わってもらいたい」

 華州は大絳国の南西部に位置し、その名の通り一年を通して花々が咲き乱れる常春の地だ。気候が穏やかで水と平地に恵まれ、農業を基盤に国の中でも昔から栄えている。

 そこを治める州侯華剛腕は当然のこと大貴族、八葉の一である華家の当主だ。それも先の戦では王の左腕と称されるほど武勲を立てた猛将で、その娘となれば言わずもがな大絳国屈指の高貴な身の上である。ーーそんな貴人に成り代われと悧彰は事も無げに言う。

「華州侯令嬢というのは・・・・・・もしかして例の噂の、花嫁ということですか」

 紅榴の問いに頷くものの、悧彰の心の内は肯定したくない思いでいっぱいだった。

 可憐な少女を自ら危険な目に晒そうとしていることに戸惑いがある。そして何より、民衆にまで浸透している噂に溜息をつきたくあった。

 その噂の根元さえなければ、静悧彰とあろう者がここにいるべくもなかっただろう。

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