才田の街角で
薔薇香から逃れた紅榴は、丹塗りの鳥居が構える社に向かっていた。背後から銀色に近い純白の毛並みを持つ二匹の獣が追いかけてくる。
社とは二頭の狐を祀った斎場である。武を司る赤孤と文を司る碧狐。これらは世界創造に携わった獣として有史以前から神格化し、後に興る宗教とは異なる信仰のされ方をしている。特に大絳国では初代国主絳鋭が赤孤と共に国を成したと伝えられ、王家の紋にその姿が刻まれるなど信仰は民に限られるものではない。この国、いやこの狗駒大陸全土において狐とそれを祀る社の存在は大きいと言える。
「紅榴さん、一体いつまでそうしてるおつもりですか」
道すがら、塀の下から侃雫は苦言を漏らしたが、紅榴はそんなこと気にする風もなく屈託ない笑顔を浮かべる。
「見晴らしいいんだよ、ここ。才田の街並みがよく見える」
才田は国の学術機関である大学を有する学問の街だ。古来から禁領であり、街並みは理路整然と十字に切られた道沿いに作られている。街区は塀により分かれ、大学や大尽の邸がある北東の区画は橙色の丸瓦で輝いている。更に視線を長じれば、大絳国四仙山の一つ僊蘆峰が聳え、この雄大な景色に抱かれて学士たちは日々研鑽を積んでいる。
紅榴はこの景色を見るのが好きだった。軽業師かと嗤われることもあるけれど、塀の上に上がるだけで普段の世界が千里眼で覗いたように透き通って見える。その清々しさと訪れる高揚感を手放す気にはなれない。
「だからといって目立ちすぎでしょう、また羅卒にどやされても知りませんよ。まったく、」
紅榴さんは、と再び侃雫が小言をしようとしたまさにその時だった。
「きゃああああぁぁっっ」
塀の先から聞こえてきたそれは、一瞬、月下香を見つけた乙女たちの歓喜の叫びかと錯覚するほど澄んだ声音をしていた。ーーだが、違う。叫びは恐怖で彩られている。
それに気付いたとき、侃雫はハッとした。
「待ってください、また一人で行かれるおつもりですかっ」
「待てないって。あんな破落戸相手なら、私一人の方が速いしねっ」
侃雫の忠告も虚しく、紅榴は塀の先へ身を躍らせたーー。
紅榴の言葉通り、一瞬でケリがついた。
飛び降りるついでに一人を地面に叩き伏せ、捕まえようと屈んだ者には足をかけて転倒させた。そのあとは担いでいた刀を鞘のまま操り、確実に急所を仕留めていく。一人は鳩尾、一人は顎、最も頑強そうな大男でさえ紅榴の疾風のごとき早技に怯んだ。
「なんだ、てめぇはっ」
兄貴格の男がそう言い終える頃には、気絶する者二名、立ち上がれない者三名、兄貴分も肩で息をつく有様だった。破落戸にしたって女一人相手に情けない。
「そんなんどーだっていいじゃん。それよりお兄さんたち、か弱い女性をいじめるなんてふざけんのもいい加減にしなよ」
小柄な少年に下から睨みあげられて、兄貴分は僅かに身じろぎした。舐めやがって、とふっかけるはずの言葉が出てこない。ーーガキの瞳が紅く光ったように見えたのだ。それも臓腑を砕いたような深紅は、破落戸人生三十年の勘に警鐘を鳴らさせる。
「くそってめぇら引き上げだっ」
その一言で、意識のある奴らは一目散に逃げていった。ようやく捨て台詞は耳を通り抜けて、その時始めて紅榴は助けた人物に目をやれる。
(なに、この美少女っ)
纏う衣は貧相で使い古された感があるが、適当に括られた豊かな黒髪は高名な妓女さえ羨むほど瞬いている。筋の通った愛らしい鼻梁に、紅榴を見上げる瞳はまるで瑪瑙のよう、溢れんばかりに見開いて睫はしっとりと濡れている。
こんな薄暗い路地裏を一人で歩いていたら、破落戸に絡まれて当然だろう。
「きみ、怪我はない?」
年の頃は紅榴と同じくらいだろうか。警戒させまいと砕けた口調で話し掛けたのが災いしたのか、少女は惚けたままじっとして動かない。
どうしよう、と思って手を差し出すと痺れるほど握り返された。意外と力がある。
「ッーー!あ、あの、とりあえず大路まで出ようか。羅卒を探そう」
少女は静かに頷いた。黙しているのは恐ろしい体験をしたせいなのだろう、人寂しい路地裏に見知らぬ相手といるよりは公僕に任せた方がいいはずだ。
「・・・・・・あの、助けてくださってありがとうございます」
大路にまで来てようやく彼女は口を開いた。叫び声でさえそうであったが、鈴が転がるように涼しげな声音をしている。
「あ・・・・・・その・・・、お名前を・・・」
言われて紅榴は瞬いた。これまでの経験から、素性を伝えるとロクな事にならないのは判っている。楽屋にまで押しかけられて、あわや貞操の危機!!なんてこともあった。
だから、これでうまくいくはずだ。
「名乗るほどの者じゃありませんよ」
そこでつい、舞台上と同じ極上の笑顔を浮かべてしまった紅榴は、何事もなかったかのように颯爽と去っていった。