非時香菓
さあさ 寄ってごらんよ 見てごらん
我らが噂の非時香菓 唄に踊りに芝居に曲芸
老若男女 泣いて笑って心が躍る お狐様も踊り出す
嘘か誠かお疑い? しからば一度照覧あれ
されどゆめゆめ忘れるな
見つけた尾には気付かぬふりをーー
「あれが月下香ーー」
男は笠の内で呟いた。思わず呟いてしまったのには訳がある。彼の知る月下香と舞台に立つ人物とが別人に思えたのだ。
非時香菓の月下香といえば、かつて琴の神童ともて囃された旅芸人だ。
今は亡き隣国双琵の祭事の調べ、それが琴ーー。箏と似た楽器だが宗教国家双琵固有のものであり、譜面を持たないために完璧な楽曲を奏でられる者は少ない。だからこそ月下香はしがない旅芸人でありながら名が知れ渡った。
それなのに目の前に立つ神童は優雅に舞っている。神童と呼ばれてからはや幾年、年の頃は十四、五になったろうか、残る幼さは狐を象った仮面の内に閉ざされる。
「纏うは三日月、織るは幻。我は鵺の子、夜を縫うーー」
張った声は雄々しくされど可憐で、育ちきらない独特な色香を辺りに漂わせる。
足取りは凪を割く帆のごとく鋭敏で、時に荒々しく床を打ち付ける。
伸ばす腕は楽に合わせて躍動し、鯨の尾ひれを思わせる。
一挙一動に鳴る鈴が、清浄な空気を匂わせる。
奏でられた楽は風景に消え、その風景さえも虚無となる。
瞳に映るは、月明の下に咲く一輪の花の香り。
月下香、その姿のみーー。
「おにーちゃん、ねえ、これ落としたよ」
小さな女の子に袖を引かれて咄嗟に笑顔を作った。下げた視線の先、少女の手の中に自分の扇子が収まっている。どうやら落としたことにさえ気付かず見入っていたらしい。
それほどまでに月下香の舞は素晴らしかったろうかと思い返してみたが、記憶がトンと抜け落ちている。でも目が離せなかったのだ。まるで恋する乙女のように。
「明日はね、薔薇香が舞うんだって。おにーちゃん明日も来るでしょ?」
扇子を手渡しながら少女が問うてくる。
薔薇香とは非時香菓の座長で、琥珀の蝶と謳われる舞姫だ。彼女は傾国の美女としても名声を恣にし、その神懸かった美しさは男衆はおろか夫子持ちの奥方も頬を染め、魂飛ばした老人までいると言われるほどだ。けれど死ぬ前に一度は拝みたいというのが庶民の願いで、数多くの貴人が薔薇香を手に入れるために金子を山と積んでいるという。だがまだ座長を務めているところを見ると、彼女は金では買えない気位の持ち主らしい。
確かに、一度は会ってみたい女性ではある。が、
「教えてくれてありがとう、小さなお姫様。でもね、私は月下香に会いに来たんだ」
耳にした途端、嬉しそうな表情を浮かべる彼に少女はゾッとした。
このお兄さんは見るからに男、けれど舞台上に立つ月下香は自分よりもいくつか年上の美少年だ。自分の母を始め若奥さんたちに人気が高く、黒く大きめな瞳から黒曜の月と可愛がられている。
そんな彼に会いに来たなんて、子ども心に怪しいことこの上ない。
少女は悠然とその場を去る男を、冷ややかな眼差しで見送ったのだった。