旅立ち
新王の即位という慶事は、瞬く間に国中に響き渡った。
各地で盛大な祝祭が催され、先王の崩御や一宮の変死という凶事は、赤狐を従えた麗しき君主という話の前に、民衆の間ではどこ吹く風だった。ただこの慶事以上に民衆の心を奪ったのは新しい橘州候の存在で、神を凌ぐほどの美丈夫だという彼の舞は神事の効用を高めると言われている。そんな華々しい話題の影で、静悧彰が中将の座を剥奪されて、国を出奔したとの噂も立った。
だがそれは、全て民衆のしがない噂に過ぎない。
「ってことらしいですけど」
手綱を握る手を緩めて、紅榴は振り返った。
「うーん、そうだねえ。私は確かに中将の位も辞して、静氏の名も返上してただの悧彰となったけれど、出奔まではしていないのに。ほんと、風の噂とは恐ろしいものだねえ」
「まあ似たようなものでしょう、悧彰さんはただのプー…」
侃雫が一言を漏らしたのをきっかけに、言い争いが勃発する。
もはや日常茶飯事となったこの光景に紅榴は顔をほころばせた。栩暖が傍を離れてからというもの、黙りがちだった侃雫がいつものように戻って嬉しいということもある。それに決して口には出したくないが、悧彰と共にいられる幸せを紅榴は噛み締めていた。
「ところで紅榴、即位式を見届けずに出発してよかったのかい?」
敵に塩を送るような真似をして点数稼ぎですか、と侃雫が小声で突っかかる。侃雫の悧彰への暴言は、日に日にとどまるところをしらない。
「いいんです。傍にいるからといって、何かできるわけじゃないですから。それより、暎葵が自分の道を歩き出したのに、私が前に進まないわけにはいかないと思って。――私は母様を探す、そう決めたから」
あの晩の混乱から落ち着いて一番初めに思ったのは、自分の存在に関する疑問だった。記憶は確かに戻ったけれど、それが真実であるかどうか、母に会ってその口から直接聞きたいと思ったのだ。
「母上の居場所なら、父上に聞いたらいいと思うんだけどねぇ」
悧彰の提案に、侃雫はぎょっとした顔をしている。悧彰からしてみれば育ての父に尋ねるだけの気安い行為だが、侃雫からしてみれば赤狐の親玉である栩暖にお願い事をするなど正気の沙汰に思えない。
「多分ですけど、父上は教えてくれないと思います。――それどころか、あの晩以来会ってくれないんです。何を考えているんだか」
「いや、それは…」
普通に気まずいからだと、悧彰は思う。今までずっと飼い犬のようについて回っていた銀狐が自分の父親だったなど、今更どう接していけばいいというのか。
紅榴よりも栩暖との付き合いが長い悧彰は色々と察した。察したゆえに、父と年頃の娘の微妙な関係を思って、余計な事を口挟むことをやめた。
「それにですけど、そもそも母様が素直に会ってくれると思いますか?」
問われて妙に強く同意する悧彰に紅榴は大満足だ。
おそらく父は母の居場所を知っているだろう。なんとかして捕まえて聞きだすことに成功したとして、あの母のことだから会ってくれるわけがない。それどころか、母がどこかに張り巡らせた試練をどうにか乗り越えて初めて会える気がする。
「だから、私は自分で母様を探すことにしたんですっ!」
自然と握る手に力が入った。仰いだ空には僊蘆峰が迫る。
秋の訪れを告げるのか、頂上は赤く輝いている。
世界は確実に変わろうとしている。
「紅榴さんの決めた道なら、私はいつでもお供いたします」
侃雫は馬を横に並べてきた。その貴公子の笑みは、紅榴限定で本物だ。
「私はもちろん君を守ってみせるよ。君の行く手を阻むものがあるなら矛になろう」
彼の言葉も笑みもまた本物だったが、紅榴はそっぽを向いた。
「お断りします。自分の道くらい叩いてでも切り刻んでも、自分で開きますから。悧彰様はお構いなく」
「紅榴、やはり私には冷たくやしないかい?」
悧彰の嘆きは、侃雫の冷笑と街道を切り裂く風に掻き消されていった。




