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王位を借る者

 暗闇に沈んだ透廊の上を、暎葵の足は何かに吸い寄せられるように進んでいた。

 周囲に広がるのは戦場さながらの惨状。もしこの中に息があり自身を狙う者がいたとしても、人を斬り捨てる覚悟はもはやない。手にあった刀も今や鞘の内で沈黙し、母の形見でなければ放り捨てていただろう。

 だが一方で、覚悟も何も不要であることを察していた。すべての骸に共通する刀傷にも似た鮮やかな出血痕。これで息のある者がいればいよいよ人間ではないだろう。――それは、息の根を止めた人物についても言える。

 暎葵はゆっくりと歩みを止めた。

 視線の先には見覚えのない影が鎮座している。それでも、構える気は起きなかった。

「ようっ」

 鮮烈に男の声が室中に渡る。壮年と思しき男の声は苛烈なようでいて、相手に警戒させない落ち着きのある響きを孕んでいる。だからからか、相手が何者であるのか知れないというのに暎葵に緊張はなかった。

 やがて、天窓から漏れるわずかな月光が彼の者の姿を照らす。

 真っ先に目に飛び込んでくるのは、鋼とは異なる軽やかな銀の輝き。暎葵の稲穂色とは違って彼の鋭さを物語るようなその髪は、以前にも見たような気がしてならない。

「そなたは誰だ」

 わずかに声が掠れた。

 笑いたいのか、泣きたいのか、怒りたいのか、感情と表情が切り離されてしまった。泣いたのが悪い。皮膚も引き攣れて、思うように頬を動かすことができずにいる。

「誰だって? お前は知ってるはずだ。わかっているからここに来た。違うか?」

 試されるように問われて、ようやく紐解けた気がした。

「そなたは――。栩暖、だな」

「正解だ。賢くなったな、暎葵」

 突然、室を周に囲う灯籠が瞬いた。

 朱に染まる輝きが彼の者の姿を映し出す。年の頃は悧彰か少し上、銀の眼と波打つ銀の髪を優雅に垂らした青年だった。整った面差しは品良く貴公子然としているが、釣り気味な眼差しは野性味溢れていて、彼の不遜な態度を裏付けている。人外離れした造形美はどこか侃雫にも似ているが、それでいて真逆の雰囲気である。

 侃雫ほどではないが、いつも紅榴に寄り添っている栩暖。暎葵もよく知る銀狐とは、色彩上の共通点しか見受けられない。強いて言えば、悪戯っぽい銀の瞳は似ていなくもないが、それでも彼は栩暖なのだ。妖である彼もまた、人と為ることができる。

 屈託のない笑い声が広い室に響く。

「少しは驚けよ。張り合いねえな、ったく」

「驚いてはいる。驚いてはいるが、それよりなぜそなたがそこにいる。それは」

「これが誰のものだといいたいんだ」

 栩暖は行儀悪く片膝を立てて、椅子を足で叩く。

「俺の言葉をよく聞け。鎧園は死んだ、紫苑も死んだ。この王座は今、誰のモノでもない」

 暎葵は、押し黙った。

「俺は赤狐だ。武を司ると同時に」

「政を司る。初代国主と共に国を成した赤狐の名は栩暖。以来数百年に一度、栩暖の名を持つ赤狐が現れ王を輔く。赤狐を従えた王は名君と讃えられ、赤狐は我が国の象徴、他国の神なるものに値する」

 暎葵は紫苑と学んだ書物の序文を口にした。しばらく繙いていないというのに、思いの他すらすらと言葉が出てくるものだ。

「間違ってはいねえけど、正しいとも言えねえな。名君だって言われる奴らの一割くらいはマジで俺が面倒してやった。だがな、残りの奴らはてめえらの力量を誤魔化すために碧狐を連れ回してたバカ連中だ。史書の裏ってやつだな。まあ過去のことなんかお前には関係ねえ、なにせホンモノの俺がここにいるんだ。これがどういうことかわかるな」

「赤狐には玉座に就く者の決定権がある。それは先王の言葉さえ凌ぐ」

「わかってるじゃねえか。その通りだ、俺の一声で次代の王が決まる」

 思わず握りしめていた拳に気付いた暎葵は、自分の心が動いたことを悟る。

「玉座を私にくれ」

 すべきは一つだ。

『私はお前の作る国が見たい』

 紫苑は、耳許でそう言った。

「いい面だ。くれてやるよ、その眼差しに俺は賭ける」

 栩暖はニカッと歯を見せて笑った。

 人間らしいあどけない笑みに、暎葵は知れず胸を撫で下ろした。彼ならば信じられる、王たる未来に光が見えた。ただ無気力に過ごす日々とは今日で決別できる。

「お前の親父はよくやった。なんと言ってもお前に玉座を渡そうとしたんだ、その心眼は認めてやってもいい。そうでなくば、潰れる前に俺がこの国を潰していたところだ。だから親父に感謝しろよ。でもまあ正直、お前がここまで育つとは思わなかったけどな」

 貶されているのか褒められているのは、暎葵は不服そうに頬を膨らませた。

「ではなぜ私に。そなたが国を潰して国を作るというなら、そなたの娘を王にでもすればよかったではないか」

 待っていましたとばかりに輝く瞳に、暎葵の肩は落ちそうになる。

「お前のそういうところだよ。妙に察しがいい。そのせいで苦労してるところが、あいつに似てるんだ」

 褒められているんだ、そう言い聞かせる暎葵の耳に重い言葉がのしかかった。

「もう一度聞く。この血で穢れた玉座をお前は欲すか」

「ああ。それが私の生きる理由だ」

 腰掛けた玉座は、赤の布地に金の飾り、紫の玉が背もたれや脚から仰々しい輝きを放っている。

 紫苑との誓いを胸に、手に馴染まない手すりをかたく握りしめる。

「これが玉座……私には重いな。だが、やると決めた」

「せいぜい長生きしろ、でなくば国は変わらねえ。だがな、暎葵。玉座はやるけど、娘はやらねえよ」

「なっ!」

 玉座について幾ばくかののち、暎葵は飛び上がった。

『あの娘相手では、先が思いやられるな。だが、父上と同じ轍は踏むなよ』

 再び姉が遺した言葉が蘇る。

 

 ここに、大絳国の新たなる王が誕生する。一抹の不安と大きな希望を抱いて……。

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