姉弟の誓い
柄を握る手が脂で滑る。
一体、何人を切り捨てたのか覚えていない。けれどこの刀身は全く輝きを失わない。
この刀は母の形見、双琵から輿入れの際に持ってきたものだと聞く。またこの双琵特有の刀を得るために、大絳国が彼の国を手に入れようとしたのだとも。しかし、合併の折に刀匠たちがすべて自害し、この技術は失われた。今となっては幻の剣だ。
どれだけの血肉で穢れようとも、その身は清さを保ち続ける。
(くそっ、紫苑姉さまはどこに。御無事なのかっ)
紫苑がこれ以上死ぬはずがないと知りながら、焦りは常に暎癸の心に巣くっている。
何度も折れそうになる気持ちを奮い立たせて振るう刃は、やがて定める狙いを外す。致命傷を受ける寸前で躱すものの、体力の限界も見え始めていた。
暎癸の決意に満ちた表情が、不安で歪む。
「くっ・・・・・・!」
落ちる白刃、血でぬかるむ足元。
手から溢れた刀と、崩れた体勢はすぐには元に戻らない。
キィーンッ
ぐっと構えた暎癸の耳に届くのは、小気味いい金属音だ。
心を揺さぶる鼓動は、兇手の断末魔を掻き消すほどやかましく鳴り響いている。
見覚えのある太刀筋。わずかに燻る清廉な睡蓮の香り。ゆたかな黒髪は優雅にたなびいて――。
「腕が鈍ったようだな、暎癸。私の教えを忘れたか」
空気が凍えたように明瞭に響く声音に、暎癸の意識は一瞬で目覚めた。
「姉さま・・・・・・なぜ、ここに」
剣を拭った衣よりも、さめざめと鮮やかな唇は優しい微笑みを形作る。
「なぜ? 聞きたいのは私の方だ。以前も聞いたな、なぜ戻った。私はお前にここから逃げ出す猶予を与えたつもりだったが」
暎癸は泣きそうになった。夢でもみているのかと腕をつねって、走る激痛に顔を顰めた。
夢ではない。
心の奥底に仕舞い込んでいた感情がむくりと目を覚ます。
「姉さま、私は決めたのです。姉さまの御意思を継ぐと」
真剣な眼差しは揺らぐことを知らない。
泣き虫だった彼からは想像もつかない、深い度量を感じさせる言葉に、紫苑は自然と頬を緩めて笑った。
「そうか、ならばついてこい。もう私には時間がないのだ」
絞り出す声に嗚咽が混ざるかもしれない。
それでも暎癸は力強く、はいと応えた。
「どこへ行っておった、紫苑。妾に逆ろうて、出掛けるとはいつ以来じゃ。――そうか、そなたも奮い立って仕方ないと申すのか」
声を掛けた娘を顧みずに、菊花はただひたすらに何かを撫でていた。
それは彼女の身体よりも一回り大きいもの――、絳鎧園、かの人の亡骸だった。
それはそれは愛おしそうに、まるで強張った彼の身体をほぐすかのように菊花は撫で回し続けている。そんな彼女の瞳には、愛する人を亡くした哀しみの色はない。それとはまったく違った感情が浮かんでは消え、そしてまた現れる。
「紫苑、何をしておる。こちらへ参れ。陛下の魂をお呼びする手伝いをせい」
鬼気迫る口調で捲したてられて、否、魂を握る者に命じられて、紫苑は逃げることが出来ずに彼女に近づいた。
すぐ傍で人の気配を感じて、そこでようやく菊花は後ろを振り返る。
「こんなところにいらしたのですか、陛下」
有り得ぬ男の姿に菊花は途端に怒りの形相を浮かべる。
「六宮っ――なぜ、そなた」
「宴以来ですね、菊の御前。姉さまに招待していただきました。――ところで、貴女はいったい陛下の御遺骸をどうなさるおつもりか」
皺が刻まれ始めた菊花の指先が、ぴくりと撥ねる。
「そなたに答える義理などないわ。――紫苑、そやつを殺せ。目障りじゃ。それですべてに片がつく。さあ紫苑っ、妾の命が聞こえぬのか」
嫌な予感がした。
敵地にいながら嫌な予感とは変な話だが、部屋に籠もる空気が様変わりしたのは確かだ。張った琴線が忽ち腐敗するような禍禍しい変化は、暎癸のすぐ傍で巻き起こっている。
咄嗟に抜いたのは、月光のように冴え渡った形見の品だ。
「姉さま――っ」
童のように、何故とは問わない。昏く沈んだ焦点が、暎癸の急所を狙っている。
暎癸は奥歯を噛みしめる。
――武道に長ける女子とはいえ、成年男子相手に鍔迫り合いで敵うものか。
だがそれが息もつけぬ状態へ持ち込まれている。やはり、彼女の力は尋常ではない。
「暎癸っ!」
そこへ差し込んだ声に暎癸はハッとした。
斜め後ろへ身体を引いて力を受け流す。だが所詮は一時凌ぎだ。同じく気を取られた一宮だったが、即座に次を打ち込んでくる。
暎癸の視界の端には紅榴、悧彰、それになぜか侃雫の姿がある。
助太刀しようにも集中力を欠いた方が敗者だ。いま、手を出したら確実に暎癸は紫苑の太刀の餌食になる。
息も継げぬ刃の猛攻応酬に、侃雫の眉間に皺が寄る。訝しみながら袖を口許へ運び、自分のものとよく似た紫色の袍を苦々しそうに見つめる。
「――これは、以前より死臭が増したようですね」
獣の鼻の訴えを何気なしに呟いて、すぐさまそれに反応したのは菊花だった。
「紫苑、その小五月蝿い男は目障りじゃ。先に始末せい」
途端に暎癸を責めていた矛先が、侃雫へと向いた。
侃雫の腰には護身用の刀が社司と同じように佩かれているが、到底一宮の凶刃をやり過ごすことが出来るような代物ではない。やはりここは自前の牙だろうと、瞬く間に白銀の毛並みを纏った碧狐の姿となっていた。
さしもの一宮も、突如現れた妖を前に人目にわからぬほど僅かにおののいた。
刹那、勝敗は決した。
視認できぬ俊敏さで打ち上げられた凶刃は、その勢いのまま天井へと突き刺さる。
己が優位であることが示せればいい、紅榴の教えを守って侃雫は命を奪うことはしなかった。それに、その必要がないことを妖である侃雫が誰よりも知っていた。
「姉さまっ!」
侃雫が紫苑を取り押さえようとしたその時、糸の切れた操り人形のように紫苑の身体が地面に崩れ落ちた。
心配を隠すことなく張り上げた一声で紫苑を支え直したのは暎葵で、菊花は舌打ちする勢いでさめざめと娘の姿を一瞥した。
状況のわからない紅榴と悧彰は呆気にとられる。
「ええいっ、妾に背くからそのようなことになるのじゃ。はようそやつらを始末せいっ」
沈黙したままの紫苑は、支える暎葵の肩にしがみついて苦しそうに母を見据えた。口を開きかけては、詰まる何かにむせぶ彼女に代わって、暎葵が菊花に噛みついた。
「あなたはどれだけ姉様を苦しめたら気が済むのですか。これ以上無謀なことはおやめくださいっ。姉さまはあなたの行動全てを憂えておられるのです」
「うるさいっ、おまえのような者に指図される謂われなどないわっ」
「そうかもしれません。けれど、我が母を毒殺したあなたを糾弾する権利が私にはあるっ。母ばかりか婉麗姫を狙い、そして何より陛下の御身に手を掛けた。決して許されることではないっ。――あなたの権力への執着が、陛下への愛情を凌駕したなど想いも寄らなかった。亡き母もさぞかし無念に思うことでしょう」
続く言葉に急転直下に菊花の顔色が変わった。目を剥く様は鬼神もかくやと言うほどで、これが我が国の国母たる存在なのかと背けたくなる視線を暎葵は必死に堪えた。
暎葵の母はよく言っていた。――菊の御前は陛下を愛しすぎるゆえに自分たちに非道なのだと、そしてそんな彼女を恨むのは哀しすぎると。
今となっては暎葵も多少は理解できる。世界から隔絶された後宮で王の寵愛が得られない苦しさは筆舌しがたいところがある。
何より、暎葵の母は王の初恋の人に似ているのだという。寵愛を得る年若い娘と、消すことのできない過去の女。幼い日より国母なるべくして育てられた菊花にしてみれば、目障りな女たちを始末する以外は、心安らかになる手段はない。
歪んだ先に待っているのは狂気のみ、息をするように彼女は闇へと堕ちた。
「貴様、妾を愚弄するというのだな。その命で贖う覚悟、できておうろな!」
激昂した菊花が懐から何かを取り出そうとした時だった。
「三の月四の日、菊花様の命にて行商の者から毒を入手。直ちに遥殿の香とすり替え、ご使用を確認。十の日、菊花様から遥殿の御加減が優れないようだと嬉々と告げられる」
淡々と冊子を朗読したのは紅榴だった。品のいい浅黄色の冊子からは、蓮の香りが立ち上ってくる。
「やめいぃっ、やめいというのが聞こえぬのかっ」
「やめてもいいですが、ここにある事実は消えませんよ。これは菊の御前つきの侍女の室から拝借したものです。これに限って言えば全て裏がとれています。侍女殿はご自身を守る切り札として記してらっしゃったようです。私が拝借したのはほんの一部、今日を機に証拠として然るべき部署が回収することになるでしょう」
紅榴の断言は菊花にはいたく響いたようだ。目を白黒するばかりか突然立ち上がって多々良を踏んで長持に足をかけて倒れ込んだ。
「なぜじゃ。何故妾の思うようにならぬ。あの小娘だけがのうのうと男の子を産み、我慢ならなんだ。その小娘を息子共々消して何が悪いというのじゃ」
ムカツクから引っ掻いた、菊花の理屈は駄々をこねる子どもと同じだ。
「認めるんですね、母を殺すよう命じたこと。――それからあの、紫苑姉さまの命を奪った兇手があなたの手の者であったことも」
「なにを馬鹿な。紫苑はそこにおるではないか」
「人は騙せても、私は騙されませんよ」
しらを切り通そうという菊花の言葉を侃雫は遮った。
自分の鼻が間違えるはずがない。まして死者や血の臭いというものは遠くでもわかるものだ。そこに立つ一宮は紛れもなく死体。
「あなたをこの世に留めているのは「裂縛招魂」という仮面ですね。文献によれば死者に被せることで魂を遺骸に宿らせることが出来るとか。ただ死体は被せた者の命に服従する人形と化するといいます。だからあなたは……」
視線の先にある紫苑は泣き笑いのような顔になる。初めて他人に見せる感情が答えだ。
「ふんっまた妾を裏切るのか紫苑。六宮を救うた時のように」
嘲り笑う菊花はもはや貴人とは呼べない。紫苑の胸に暗雲が立ちこめる。
尊敬し、愛していたはずの母。歪んだ母の芯が浅ましく思えてくる。娘として、一番目の宮として諫めねばならないのは自分だ。だが自由とならない四肢がそれを遠ざけてきた。母の命令を跳ね返すだけで意識が混濁する。今の状態も、いつまで保つかわからない。
「裏切りと仰るか。私を道具としか思っていない貴女に言われる筋合いはない。私は身を挺しても暎癸を守りたかった、命落としたことに悔いはない。あるとすれば貴女を諫めず生かし続けたことだ。死者を蘇らせてまで欲望を叶えんとする自身の傲慢さに恥を知れ」
倒れた者とは思えぬ覇気に空気が共鳴した。ピリピリ肌を波打たせ、全てが固唾を呑んだ。紅榴たちだけではない、先ほどから息を殺して身を潜めている凶手たちもだ。
「母に向かって何を申すか!! そのように育てた覚えなどない」
菊花の反論に紫苑は動じない。吹雪を吐き出す唇の奥には氷の牙が待ち構えている。
「私も貴女に育てられた覚えなぞない。なあ暎癸」
力強く肯定する暎癸を見て紅榴は居たたまれない気分になった。
記憶の片隅にある自分の母も身勝手でどうしようもない人であるが、道具扱いされたことはない。おかしな言動の裏には愛情があって、表現が歪んでいただけだったのだとうっすら覚えている。
「病に見せかけて父上に毒を盛られたのも貴女ですね。私が知った時には手遅れでしたが」
「ふん、知っておったか六宮。教えたのは紫苑か、それともその紙きれか。――まあよい。毒はな、そなたの母親と同じ双琵のものを使うてやったわ。これでそなたが王たるは有り得ぬ。陛下の遺言も今頃すり替え終えておろう。こうして陛下は妾のもの。ほんによい下女をもって妾は幸せじゃ」
腹の内に積もったものを言い切って緊張の糸が緩んだのか菊花には涼しげな満足感さえ浮かぶ。ここぞとばかりに視界に割り込んできた紅榴は訝しげに認める程度に無視だ。
「やっと自供して下さいましたか」
「なんぞ小坊、その物言いは」
問われて目を剥きそうになった。侃雫の牙が最高潮に鋭く光って、慌てて唇を急かす。
「貴女の身柄を拘束します。当面の罪状は陛下誅殺で宜しいでしょうか」
暎癸と紫苑は正直に面食らった。背後で鈍い金物の音がしてもそれすら気にならない。
「お前に何の権限がある。静悧彰すら妾より卑しき身、六宮とて国母たる妾を拘束するなど……っ貴様、それは」
紅榴の懐から取り出された物を見て息を呑んだ。
拳大の紅玉は炎に照らされ、施された流麗な狐の彫り物が不遜に閃いた。
紅榴はおもむろに指先を懐刀に走らせた。滴る血を玉に注いで、時が満ちるのを待つ。
「私は茱州侯茱燈夏が一の姫、紅榴。この枝玉を預かる者として私は貴女を拘束します」
その場にいる全員が凍った。注がれた血は床を染めることなく、彫りから中へと吸い込まれる。やがてぼんやりと光を放つようになり、強く朱い輝きが室を満たす。隣の者の睫がわかるほど明るく、その神々しさにも一同は度肝を抜かれた。
悧彰には覚えがあった。あれはいつも母の傍らにあった物。悧彰の持つ枝玉と決定的に異なるのは一族の血に反応してこの世の物とは思えぬ光を発することだ。本来ならば州侯の手元にあって位を示す物なのだが、紅榴に託されていたのだろう。
「一木をもって四枝をなし、四枝をもって八葉をなす」これは大絳国の国政の基だ。則ち四枝は王家により絶大な権限を与えられ、国を治める柱となる。だがその一方で王家を諫める責務も課せられる。州侯の枝玉を持つ者は制限が加えられるものの当主名代として王族の不正を糺すことが出来るのだ。紅榴の地位は今、この時のみ六宮より上にある。
「私は貴女を許しません。私利私欲のために公を欠くなどあってはならぬこと。それに人としても大きな過ちを犯しています。手を下すばかりか罪のない者の心を傷つけた。それは身体に傷を負うよりも遥かに辛いこと。その責め、しかと受けて頂きます」
静かに念を押されて菊花の表情からは余裕が消えた。
焦燥、不安、杞憂が一度に面に出て、堪忍袋の緒がはじけ飛ぶ音を紫苑は聞いた。母の理性はもはや残されていないだろう。
「嘘を申すなっ燈夏の娘は僊蘆峰でのうなったはず。他でない妾が命じたのじゃ、なぜっ」
青ざめた顔は亡霊を見たとでも言いたげに怯えている。当の紅榴は虚を突かれて口を開けたまま固まっているので、悧彰はやれやれと口を開いた。
「菊の御前、十年前茱家邸宅を襲わせたのもあなたですね」
「あの小娘の次はあの女、陛下を妾のものにするにはそうするしかなかったのじゃ。そこのお前、ホンに女だと申すなら妾の想い理解してくれるな」
縋るように問われて食道が詰まるような苦しさを紅榴は覚えた。
「思わない。傷ついてでも守ることはあっても、傷つけてまで手に入れたくはないから」
「なっ、ならば紫苑、そなたはどうじゃ。わかってくれるな母のことを」
「母と思えぬ者の想い、解するに価しない。貴女は愛す人を縛ることが愛だと仰るのか」
怯えた瞳に一瞬の揺らぎが見えた。陛下と娘の墜ちた姿を見て、長持ちを抱え込んだ。
紫苑は自分の口に後悔を覚えた。だがもう遅い、言葉は届いてしまった。菊花からは生気すら失せた。憤りにも似た情念だけが四肢を、口を動かしている。
「もうよい、そなたになど頼らぬ。妾には手下がおるのじゃ。主ら全てここで消えるがいい。秘密を知ったからにはもう生かしてはおけぬ」
自白したクセに何をぬかすか、という糾弾は受けてもらえそうになかった。菊花を後押しするのはまさに狂気、人の理性は歯が立たない。
誰もが柄に手をかけた。兇手も光に浮かび、侃雫の毛並みが冷えたように瞬く。
あとは菊花が命を下すのみ、彼女の一言で兇手が動き、それに対処することになる。こちらから手を出すことは自らの意に背くことだ。争いは本意ではない。
だが、兇手の抜き身が放たれる直前に菊花は事切れた。雷鳴にも似た足音が近付く。
「立ち去れ。お前たちの主は今から私だ。母を継ぐ私の命が聞こえぬのか」
気配はその一言で遠ざかる。菊花亡き今、彼らも命を差し出すほど愚かではない。
紫苑は刀を拭った。紫の袍は新たに真っ赤な大輪の華を咲かせる。人は死してなおこの世に何かを残していくという。菊花の華は潔すぎるほど豪快だった。
「否定しておきながら私もやはり母の子か、誰かを傷つけてしか愛しい者を守れない」
自嘲気味な溜息は侃雫の心を揺さぶった。紅榴だけを守ろうとする自分と重なって見えたからかもしれない。侃雫にしては余計なことを口走った。
「そんなことをなさったら、あなたは」
「構わぬ。私は既に死んだ身、ここで引かずしてどうする」
鮮やかに微笑まれて侃雫は二の句を告げられなかった。どこか紅榴に似ている。ぼんやりと感じて、矢張り何も言えなくなる。
暎癸は長椅子に腰掛ける紫苑の傍へ寄った。睡蓮の爽やかな香りが鼻を擽る。
「暎癸、私はお前を心の底から愛している」
鮮やかとは遠ざかった柔らかな笑みが暎癸を包んだ。頬が緩んだ。
「そんなの昔から知っています。私も姉様のことを好いておりますから」
「そうだったな。お前はこの後宮で唯一私と等しくあった。妹宮たちと違い、同じく国のために学ぶ者、それだけではない。打算を知らず、私を純に慕ってくれるお前が好きだった。結局は私がそれを壊してしまったのだがな。すまなかった、暎癸」
不意に頭を撫でられて暎癸は二人で勉強した東屋を思い出した。あの頃も正解のたびに撫でてもらったものだ。丹塗りの柱と六角形の姿が温かい想いとともに鮮烈に蘇る。
「何を仰いますか。謝らねばならぬのは私の方です。私が未熟だったばかりに姉様は。そればかりか姉様は私に恨みがあってこの世に留まってらっしゃるのだと思い込んで」
自ら言っておきながら悔しさと悲しさで喉が絞まった。
涙で濡れる目許に氷ほど冷たい指先が触れられて目を瞠る。
「すぎたことだ。それに私はお前のために何も出来なかった。国を治めるどころか、母を諫めることさえも。すまない。お前を国のしがらみから解き放ちたかったというのにな。この闇に呑まれるのは私だけで充分だったはずなのに」
「政に疎い父上を輔けていたのは他でもない姉様ではありませんか。私のことを想い、外へ出して下さったのも姉様です。感謝なんて言葉じゃまるで言い足りない、なのに」
謝らないでほしい、口にしたつもりなのに音にならなかった。噎せ返りそうになる。
「そう泣くな。私はもう心配してやれないのだからな。だが安堵した。お前の名を呼ぶ者がいて。私が死んだ時のように一人むせび泣くことはこれでなくなるな。嬉しく思っている。そなた、紅榴といったか」
紅榴は礼をした。座す王族を見下すなど不届きだが紫苑は構わず続けた。
「そなたが婉麗殿の身代わりか」
「は、はいっ?ええ、ええっとそうです。でもなぜ」
「私は人あらざる者、そのせいか人には見えぬ気配が見える。あの時見た姫とそなたは同じ色をしている。昇る陽に似た朱い色、その温かさが暎癸を救ったのだな」
少し嫉ましげな、喜びに満ちた笑み。鷹と言うよりは猫のような、悪戯っぽさが輝く。
「紅榴、暎癸を頼む。私の代わりに助けてやってくれ」
「はい。代わりといわず初めからそのつもりです、私の大切な友ですから」
考えるよりも先に口が動いた。迷う事なんてない。
「感謝する。暎癸、耳を貸せ」
「姉、様…?」
耳許で彼女の声が掠れる。やがて鷹のような瞳を湛える目蓋はとろりと落ちた。
暎癸は隣にいる紫苑が縮んだ気がした。カラリと面が石床に落ちる。
「姉様っ」
暎癸は声を押し殺して泣いた。目の前にある亡骸を強く抱きしめる。ふとその小さな肩に気づいて余計に悲しさが込み上げてきた。あまりに細い。
仮面の妖力から解放され、紫苑は十年前の幼さの残る体つきに戻っていた。
無敵に思っていた姉、こんなに小さな子どもだったのか。己の無力さに暎癸は腹立たしさを覚えた。この人のために自分は何も出来なかった。
「暎癸」
振り向き様に抱き締められた。月香木の甘い香りがそよいだ。
「大丈夫、暎癸には私がついているんだから、ね」
悧彰も侃雫は目を伏せた。紅榴が誰かに抱きついているところを見たくなかったということもある。でもそれより想いを託して散った気高き姫に哀悼し、黙祷を捧げた。
「暎癸、どこに行くんだい」
次に目蓋を開けた時には、暎癸は階段の中程にいた。覚束ない足取りに、悧彰は後を追わねばならないような気になった。それを紅榴は止める。
「大丈夫だよ、悧彰様。それより私たちはこの御遺骸を守っていましょう。暎癸のために。王族の首を狙っているのは菊の御前の手下だけじゃないもの」
不穏な金属音が新たに近付いていた。




