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急変

 息が詰まるかと思った。

 ぜったいにばれた、薔薇香に、私だって。

 あの笑顔は八割方自分へ向けられたものだ。二割はたぶん暎癸への糾弾だ。

 どうしてばれたのかはわからない。でも絶対にばれた。直感がそう言っている。

 回廊を奥ゆかしく進みながら、紅榴の心の中はだらだらと脂汗を掻いていた。姫装束もこの回廊も慣れたものだが、薔薇香の説教ほど慣れないものはない。

 お色直しをすると宴を辞した紅榴は、控えの間に向かう途中にあった。

 薔薇香の消えたあの場にただ座しているのが居たたまれなくなって退出したのだが、結局は薔薇香に顔を合わせなければいけないのだから、妙に足取りが重くなる。

 そしてふと、立ち止まった。

 右へ曲がれば控えの間は目と鼻の先だ。だがこのまま真っ直ぐに進んでも、回り込むことにはなるが控えの間にはたどり着ける。

 紅榴はしばし逡巡した。控えている女房が声を掛けるも聞こえていないようだ。

(どうしよう、えーと、どうしよう)

 女房たちにどう思われようとも遠回りしたかった。でもその一方で大人しく近道をしたいと思っている自分がいることもまた認めがたい事実だった。

 右へ曲がった先、そこには悧彰がいて、警備に当たっているはずだ。

 姫の護衛を華州侯直々に指名されたこともあって、後宮入りしてからも彼は将軍職にありながら一兵卒と同じように婉麗の周りを警備している。たしか今日の彼は、控えの間周辺の警備を行うと暎癸が言っていた。

 ――会いたくない、できることなら。

 悧彰の腕の中で泣きじゃくったあの日から、面と向かって顔を合わせるのを躊躇っていた。暎癸といる時ならまだしも、一人の時は絶えず注がれる視線に耐えられない。女房たちの前で、悧彰相手に平然としていられるか紅榴は不安だった。

 紅榴、と名を呼ばれる度に何かが砕けていく気がした。

 取り繕おうと被る仮面は引き剥がされて、大地に吸いとられていく。

 彼の前で、婉麗姫でいられる自信がない。

(あーっ、もう)

 バカみたいだ、気にするなんて。無駄に意識しているのは、自分だけなのに。

 でも会いたいとも思った。会って、どうしても確かめたいことがある。

 だから紅榴は、腹を括った。

「あなたたち、ここからは下がりなさい。着替えなどわたくし一人でできますから」

「ですが――」

「心配はありません。ここからは静中将が務めているのだから、あなたたちが案じているようなことにはなりませんよ。――それに、恥ずかしいことに、わたくしもかの琥珀の蝶にあてられてしまったようなの。一人きりで休ませてもらえないかしら」

「まあ。姫様がそう仰るならわかりましたわ。それに他言はいたしません、ご安心なさってください。でも宴へお戻りになる際には、お呼びつけくださいませね」

 彼女たちも思い当たる節があったのか、存外素直に婉麗を手放した。

 ほっと息をついて、紅榴は回廊を右に折れた。

 一歩ずつ進む度に鼓動が速くなっていく。自分のことにかかずらっている場合でないとわかっているのに心臓は素直だった。――といっても、いま紅榴が暎癸のためにできることは、婉麗姫を完璧に演じることくらいしかないのだが。

 紫苑が死人だということが明らかになって、暎癸の心は完全に定まった。あの紫苑を継子の座から引きずり降ろす、そのために悧彰も暎癸も打つ手を変えてきた。

 一昨日は初めてある女官になりすまして、いくつかの書類を探してくるよう頼まれた。ついでにたまたま忍び込んだ部屋で見つけた冊子を二人に渡したのだが、二人ともそれを見るなり色を失った。見つけた紅榴自身、我が目を疑ったくらいだ。

 これで玉座と紫苑の誇りは守られる、と暎癸は言った。

 昨晩もその部屋に忍び込んで、冊子を元に戻す一方でいくつかの冊子を繰った。

 記憶した内容はすべて暎癸に伝えてある。いざ紫苑を引きずり降ろすときになったらその冊子を盗み出すように頼まれた。今はその冊子にあったことを別の証拠で裏付けできるか二人は考えているようだ。二人の考えが定まるまで紅榴は特にすることがない。

(ああでも一つだけ――、暎癸のためにできることがあるか)

 紫苑が操られているのではと疑っていた頃から、紅榴には考えていることがあった。侃雫に会えないと思っていたから半ば諦めていたのだがどうにかなりそうだ。それにもし、侃雫の推察通りなら、紅榴のしようとしていることは暎癸の助けになるだろう。

 侃雫に頼んで、手筈はほぼ整っている。あとは紅榴にできるかどうか試すだけ。

 ふっと、見下ろした自分の姿を見て、紅榴は頭を抱えた。

(こっちは、解決してないな)

 婉麗の行方は未だ知れない。悧彰はどうやらその尻尾を掴んだようだが、紅榴には何も伝えられていない。前に言っていたように、心配はいらないということだろうか。

 いつのまにか控えの間の戸が目の前にあった。考え込みながらぼんやりとここまで来てしまったが、悧彰には会えなかった。

 がっかりしたような、これでよかったような。

 それでも胸を撫で下ろして、湧き起こる疑問は別の疑問を呼び起こす。

(なんで、あんなにあっさり薔薇香にばれたんだろ)

 瓜二つなどと言って、差し向けられる笑顔は鋭かった。

(同じ顔がもう一つ・・・・・・って薔薇香みたいに双子じゃあるまいし、なぁ。――ん、ああ、用意しておいてくれたのか)

 控えの間にある机に、色鮮やかな三寸ほどの袋が置かれている。

 あれには婉麗姫の長櫃で見つけた横笛が入っている。手にしっとりと馴染むかの笛は、笛の名手と謳われる彼女にそぐった逸品だ。六宮への祝いとして婉麗はこの笛で一曲奏でることになっているのだが、紅榴は横笛があまり得意でないので気が重い。どうせなら今度一座に入ったという笛吹童子とやらに、代わってもらいたい。

(笛吹童子・・・・・・って、ああ。そうか――)

 思いついて――はまった。組木細工が空間を隙間なく埋めるように、きっちりと。

 才田に着く前に消えた婉麗姫、才田で見掛けた少女、攫われた姫をやっきに探さない従者、婉麗姫の姿を写す百花繚乱、婉麗を助けた女官、紅榴と入れ替わりに非時香菓に入ったという笛吹童子、そして笛の名手だという婉麗姫――。

 どうしてそんなことになったかはわからないけれど、薔薇香ならやりそうなことだ。

 だから悧彰は尻尾を掴んでも、彼女が安全だとわかっていたから紅榴には何も言わなかったのだ。切り札としておくためにも、敢えて相手をつつき出すような真似をしたくなかったのだろう。それには真実を握っている人間は一人でも少ない方がいい。

 納得して、ようやく息のつけた紅榴は、近くに佇立する人影に目を留めた。

「侃雫!」

「お加減はいかかですか、紅榴さん。素敵なお召し物ですね、できることなら素顔の貴女のままお会いしたかった。――それと、これは頼まれていたものです」

 普段と違って黒っぽい衣をまとった侃雫は、否応なく目立つ白銀の髪を一つに括って笑顔を浮かべている。碧狐である彼には、姿形が違えどそこにある少女は紅榴にしか見えないらしい。迷い無く近づいてきて、六寸四方程度の木箱を手渡してきた。

 紅榴は百花繚乱を外して侃雫の期待に応えてから、中身を検める。

「書面には私が知りうる限りの魄流の面の名と能力、力を使うための代償を書き付けておきました。紅榴さんに頼まれたとおり、碧狐の長にお願いをしてみたのですが、やはり人間のためとあっては教えて頂けませんでした。魄流の面を作った仙人と親しいあの方ならすべてをご存じなのですが・・・・・・。私の力が至らずにすみません」

 紅榴は紫苑を操っている術を探していた。たとえば屍を操る妖がいるとして、それと七年もの間、契約し続けるのは非常に難しい。だが、妖の力の一部を封じ込めた魄流の面ならばどうだろう。自らの生気を代償として細々と使っていけば、唯人であっても長きに亘って特異な力が使えるはず。問題は該当する面が存在しているかどうかだったが、以前に魄流の面に詳しい碧狐の長の話を聞いていたので、侃雫に調べてもらっていたのだ。

「気にしなくていいよ、これだけでも十分だから。――へぇ、性別を入れ替える面なんてのもあるんだ。こっちは、姿を蛙に変える面ねえ。たしかに、人間の姿形を写し取る百花繚乱にはできない芸当だ。あ、この面、聞き覚えあるかも」

「ですが、日々、魄流の面は増えているといいますし、それだけでは・・・・・・」

「気にしないでいいよ。それに。もしかしたらこれから侃雫に無理させることになるかもしれなくてさ。謝るのはこっちの方になると思う。だから、ね」

「紅榴さん・・・・・・。それこそいいんです。私は紅榴さんのために在るんですから。紅榴さんのためだったら命だって惜しくはありませんよ」

 不意に落とされた言葉に、紅榴は眦を吊り上げる。

「そんなこと言うなって、いつも言ってるよね。・・・・・・今回は仕方なく頼んだけど。でも、本当は頼みたくなかったんだ。こんなこと聞いて碧狐の長に、叱られたりしなかった?」

「ああ、それは大丈夫ですよ。赤孤の長と違って非常に穏やかな方ですから。ええ、それはもう赤孤なんかとは大違いなので、魄流の面を人に渡す危険性を懇々と諭されて、ふたつみっつ、いや百くらいかな、少し人間との接し方について助言を頂いただけですよ」

 それを人は説教と呼ぶのではないだろうか。

 とはいえ当人が特に気にしている風でもないので、紅榴は敢えて言葉を呑み込んだ。

「じゃあその口振りだと、もう一つの方は無理だったみたいだね。赤孤の長って気難しいの?気性が激しいの?――それとも、会えなかった?」

「いえ。あの方の居所は存じ上げているので、伝えはしましたよ。けれど紅榴さんの仰るとおり気難しい、というか気まぐれな方なので聞き届けてくれるかどうかは。――・・・まあ、紅榴さんの頼みなら、あるいは可能性があるのかもしれませんが」

 最後の方は自嘲めいていて、紅榴には届かなかった。

 いつも傍にいて、常に紅榴を気に掛けている狐が赤孤の長などということを紅榴は知らない。侃雫はこれでも碧狐なので知りたくなくともわかってしまい、出会ったときは人に従っている赤孤の長に驚いて大声で叫ぶところだったのだが、どういうわけか彼は紅榴に自分の素性が知れることを極端に嫌っているようで、叫ぶ前に昏倒させられたものだ。

 彼は紅榴の前で人型をとることも、人語を操ることも絶対にしない。それだけ徹底して正体を隠している。侃雫も当然のこと口止めされているので、彼のこととなると言葉が鈍くなる。武を司る赤孤の長に逆らうには、余程の信念と覚悟が必要だ。紅榴のために我が命はあるといっても、彼の正体を明かすだけのために費えていいはずがない。

 そういえば、その紅榴命の赤孤の長はどこへ行ったのだろう。紅榴に頼まれて宮城を離れて以来どころか、才田よりこの方紅榴の周りに彼の姿がない。

 不思議に思ったが、紅榴の言葉に侃雫は弾かれたように思考から浮かび上がった。

「そっか、あんま期待できないのか。暎癸は後ろ盾がないからなぁ・・・・・・それなら適当にその辺りの赤孤を捕まえてきて、どうにかするしか」

「紅榴さん、それはどうかと思います。それじゃあ玉座を簒奪しようって輩と同じですよ」

「ははは。・・・・・・だよねぇ、やっぱ。わかってる、そんなことはしないよ」

 悪巧みは諦めたらしい主を見て肩を竦めた侃雫は、部屋の隅に水差しを見つけた。

 話していたせいか喉が渇いていた。連日の快晴で、今日は夕刻に差し掛かっても部屋の暑さがなかなか薄れていかない。紅榴も喉を潤した方がいいだろう。

 振り返って、一幅の掛け軸にあるような秀麗な笑顔を紅榴に向ける。

「宴に戻るまでまだしばしの猶予はあるのでしょう?立ち話も難ですから、座ったらいかがです、か――・・・・・・て、紅榴さんっ、どうされたんですかっ!!」

 取り落とした水差しが、床に黒い染みを広げていく。

 そんなことには構わず、侃雫は紅榴に駆け寄った。

 膝からくずおれた紅榴は、苦しそうに胸を押さえている。胸元は苦しみに比例して乱れていき、身体すべてで息を吸って、喘鳴は床を穿つようだ。

 喘鳴に混じって、侃雫の耳に何かが砕ける音が届いた。

 はじめは侃雫にしか聞こえぬほど微かだった音は、徐々に激しい音になっていく。

 バリンッ――。

 一際大きな音が聞こえたとき、紅榴は大きく身体をのけぞらせた。

「紅榴さん、紅榴さん!」



  な・・・・・・に・・・・・・、何が起きたんだ。

  わからない。でも、何かが一気に壊れた、剥がれ落ちた。

  自分の中の、芯にあるものが、剥き出しになっていく。

  ああ、知りたくない。

  でもそれが受け止めるべき真実。

  知りたくなかった。でも忘れたくなかった、知りたかった。

  聞きたかった、その声を。離したくなかった、その温もりを。

  そこにあったなんて、知らなかった。

  ううん、そんなのは嘘。

  知ってたんだ、ずっと前から。わかってたんだ、心の奥は。

  呼ばれると、大きく心が鳴り響いた。いつでも。

  だから、私は――。

  でもなんで、今になって――?



「――・・・紅榴さん?」

 気遣う柔らかな声に引き抜かれて、紅榴は一気に覚醒した。

 どれだけ、そうして蹲っていただろう。

 侃雫に支えられながら、よたよたと椅子に腰掛ける。

「だい、じょぶ。ちょっと疲れただけだから、心が」

「こころ――?それって、どういう・・・・・・っ」

 咄嗟に侃雫は鏡に手を触れた。触れた先から溶けるように身体が吸い込まれていく。

 紅榴も異変に気づいて、引き寄せた百花繚乱を適当に被る。

 慌ただしい足音が、こちらに近づいてきていた。

 誰だろう。足音は軽い。おそらくは女官だ。

 とはいえ普段の彼女たちからは想像もつかない、荒々しい足取りだった。

「お休みのところ失礼いたします、姫様」

「構いません、入りなさい。――なにかあったのですか」

 楚々と入室した彼女たちは先ほど別れた二人の女官だった。泰然と腰掛ける婉麗への挨拶もそこそこに、おどおどと面を上げる。片方の顔色はひどく青い。

「その・・・・・・、このあとの宴は中止となりました」

「中止って、それはどういうこと?六宮様がお決めになったの?」

 婉麗らしく素直に疑問を口にして、紅榴は息をついた。まだ先ほどの精神的衝撃から抜け切れていないので、できることなら彼女たちには早く退出してもらいたい。

 要件はなんなのだ、彼女たちが言いたいのは宴のことだけではない気がする。

 後宮全体が、異様な空気で押し潰されているのを紅榴は感じていた。

「それが、その、」

 やはり何かある。言い淀んで、青冷めていない方の女官は意を決した。

「陛下が、今上陛下がたったいま身罷られました――!」

 婉麗の表情が、驚愕に彩られた。


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