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幕間 悠久と泡沫

 泡がぶつかり合って弾けるように小さく、けれどそこには確かな脈動がある。

 あの人に名を呼ばれるたびに、見えない何かが軋む。

「ーー紅榴」

 人知れず、耳に届かぬような静かな音を立てて、繊細な玻璃が弾け飛ぶ。

 弾けた隙間から、清浄な靄が滲み出ていく。

「ーーーー」

 無意識に紡いだ言の葉は、彼の耳まで届いたろうか。

 名は心を捕らえる戒めの鎖。

 自らの言葉を確かめることも出来ずに、闇を作っていた帳が上がる。



 妖は概して耳がいい。

 人には聞こえぬ小さな音、異形の音も余さず捉える。

 どこかで遠くで玻璃の砕ける音がした。

 そんな微かな音を感じ取った妖は、小さく嘆息した。あれは異形の音、徒人には聞こえぬまやかしの音だ。彼は何の気なしに、玻璃が砕けたであろう先を見やった。

 森を染め上げようとする闇は、夜の匂いがしていた。

 枝を揺らす風は雨の残り香を運んで、世界から音を奪っていく。

 このような刻限に、このような場所ーー後宮の奥にあるざくろの森、その中にある社に人の気など在るはずもなく、聖域特有の張り詰めた静寂が漂っている・・・・・・はずだが、

「イタッ。ちょ、何するんですか。というか、どいてくださいよ」

 よりによって深奥部、玉と鍵の安置された祭壇の前である。それも御神鏡が盛大に砕ける音のおまけ付きで、入り口に立つ見張りが気づかないのが不思議なくらい騒々しい。

(よかった、玉は無事でしたか)

 片方の男はもう一方に押し潰されたまま思った。室内は全くの暗闇ながらも、御神体の一つである玉を、床に直撃する寸前で自ら掴んだという裏付けがあってそう思っている。

 戻した御神体に、一応とばかりに手を合わせる。最後に礼をとって一息ついたと思ったら、もう一方の男の姿は忽然と消えていた。

「ああっもうっ、そうやって自分勝手に。本当に頼まれごとでなかったらあなたと仕事なんて遠慮申し上げますよ。年長者を敬えなんて、クソ喰らえです、まったく」

 文句を言うべき相手がいないことを知りながらも彼は訴える。墨を掃いたような美麗な眉は歪められ、髪は怒りに任せて波状を為す。

 衝動に駆られて手近な物を投げつけようと手を伸ばしたが、即座に諦めた。ーー祭壇に並ぶ物はすべて由緒あるものばかりだ。そうでなくとも社に置かれた聖なる物を傷つけることは彼の理性が許さなかった。

(理性、か・・・・・・。私も人らしくなったものですね)

 ふと、床に散らばった輝くものに目が止まった。前にもこんな光景を見たことがある。

 あの人の嫌がらせに耐えかねて故意に割った鏡。それも祭殿の御神鏡で、ひどく紅榴に呵られた。そもそも人の信仰心など解さぬ当時、自分が正座させられていること自体謎だったが、今となっては自然とそれを守り、あるべき姿に戻すように身体が動く。

 ーーバラバラだった鏡は、割れた事実など存在しないかのように元の姿を保っている。

「いやな空気ですね。聖域まで侵すとは、人の業とはかくも醜いものか」

 社殿から一歩抜け出すと、わずかに残る柔和な月光が彼の姿形を照らし出す。

 瞬く金茶の長い髪、流麗な物腰は絵巻物から抜け出たようでーー。

 姿を夜空に晒した侃雫には、人を惑わす妖艶さが匂い立つ。人のナリはしていても彼は異形の者、鏡を介してならば瞬時に空間を転移することができる。たった今も、後宮内に与えられた非時香菓の支度部屋からこの社殿の御神鏡まで転移してきたところだ。

「紅榴さんったら仕様のない方ですね。あれほど無茶はなさらないよう申し上げたのに」

 彼の人の名を口にすると、自然と嗅覚が鋭くなる。ーーこの鈍色の臭気に満ちたこの後宮の中、はっと閃くような香気は間違いなく紅榴のものだ。

「私に頼み事だなんて、相当無茶してるってことじゃないですか、まったく」

 などと言いつつも、確かめて欲しいことがあるとねだられれば、小言を口にする前にやりましょうと答えていた。ーー・・・本当に自分は紅榴にだけ甘い。

「バーカ、その無茶頼まれて悦んでる奴の台詞じゃねーよ」

 思った通りの茶々に、侃雫は下方を力強く見返した。外野に指摘されると腑煮えたぎる思いだが、それは曲げようのない事実なので殊更な否定はせずにただただ見返す。

 視線の先には、灌木の下で四つん這いの獣がこちらを挑戦的に睨んでいた。ーー毛色は沈む陽と同じ茜色、瞳孔まで開かれた白銀色の瞳は寒空に凍える三日月を思わせる。見るからに彼は異形の者ーー、しかし本性とは裏腹な精悍な美しさが見る者の心を奪う。

 神を見た、そう言う者が現れてもおかしくない、そんな気配を纏っている。

「あなたに言われるとムカつくんですよ」

 彼の背後に後光を拝んだ気さえしたというのに、侃雫は口辛くも言い捨てた。普段表情の乏しい眉間には皺が深く刻まれ、本当に紅榴が絡むと止まらない。

「ついてこい。お前より俺の方がここは詳しいからな」

「え、どういうことです。ーーって、ちょ、私を置いていく気ですか!」

 すぐさま闇夜に消えようとする妖を、侃雫は慌てて追う。

 辺りは闇の気配が濃く、一寸先も覚束ない有様だったが、彼の身体から光が湧きでるようで、久々の夜目だというのに侃雫が全力疾走しても躓くことはなかった。

 そして何より、その先に待つ者がいるかと思うと、脚は更に軽くなる。

 軽くなって、跳ぶように脚を前に踏み出して、そして気づけば腕さえも脚となっていた。身体は銀に勝る光沢を放つ青灰色の毛並みで覆われ、瞳は紫紺の輝きを湛える。

(待っていてください、紅榴さん。私は、貴女のためにあるんですからーー)

 内に秘めた妖の本性と、紅榴から与えられた人の心に、消えることを知らぬ焔が灯った瞬間であった。


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