みぃつけた
「いやあああああぁぁ」
ひどく大きく響いた悲鳴に、紅榴は我ながら驚いた。
情緒不安定なせいか涙は止まるどころか大きくなって、ボロボロと地面に溢れ落ちる。
「私だよ、紅榴。怯えなくてもいい。そんなところに隠れていないで出てきておくれよ」
動揺で頬を引きつらせながらも、悧彰は紅榴を刺激しないように優しく言った。表情は未だ見えないが、その声から彼女が泣いていることは容易に知れる。
とはいえ、泣きたいのは悧彰の方だろう。女性たちに歓喜の悲鳴を上げられるのは日常茶飯事だが、拒絶の意味で悲鳴を上げられたのは初めてだった。
「わかってます、だからっ、ぐすっ、近づかないで、くださいっ」
しゃくりあげながらも懸命に訴える紅榴には、普段の中性的な雰囲気はナリを潜めて、たった今咲いた花のような馨しい色香が漂う。涙に濡れる長い睫毛も、陽光に彩られる露草もかくやとばかりに儚く美しい。
美少年と評されることの多い彼女ではあるが、美少女であることには変わりない。こんな女官姿ではなく、きちんとした姫装束を纏って化粧を施した姿であったら、誰もがその洗練された美しさに溜息を溢しただろう。傾国の美女と謳うにはまだ幼さが邪魔をするが、あと数年も経てばそれも夢ではない。
そんな彼女に明らかな拒絶をされれば、悧彰は極悪犯になったかのようだった。
何かまずいことをしたかーー、とまで考えたが、よくよく考えずとも自分が紅榴のことを忘れていたのがいけないのだ。もし、紅榴が自分の存在を忘れていたとしたらーー、それを思うと強く胸が締めつけられた。
だから紳士的に、いつも通りに悧彰は声を掛ける。
「その闇夜も照らす真珠の涙は、私が流させたものだろう?君を困らせたいわけではないんだよ、せめてその玉の肌を傷つける涙を拭わせてくれないか」
本当にその通りだと、紅榴は思った。
この人があんなことを言わなければ、こんなことになってなかった。きっと今頃は侃雫と栩煖と合流して、暎癸のために何かしらの行動を起こしていたはずだ。
けれど実際には無駄なほど涙を流しているばかり。混乱している暇などないと頭ではわかっているのに涙は止まらず、彼の雅で涼やかな声を聞いてしまったら、より一層涙がこぼれ落ちた。呼吸は泣きじゃくる子どものように、絶え絶えになる。
「放って、おいてください、ぐすっ、そのうち、ずず、泣きやみ、ますから、」
やっとのことで言い切ったが、説得力のないことこの上ない。
慰めようと近づいてきた彼の腕を力の入らない手で撥ね除けてようやく、砂を吐くような甘い言葉が止んだ。
いくら彼に原因があるとはいえ気遣いを仇で返すなんて、悧彰は呆れたかもしれない。
そうは思ったが、悧彰が傍にいること以上に紅榴の心を揺さぶることはない。これで心おきなく泣けると思ったら、少しだけ気持ちが軽くなった。
あと少しーー、少なくとも明日の朝までには心穏やかに仕事に戻れるはず。仮面をしてしまえば泣いた跡など消えてしまうのだから、思い切り泣きはらしたって構わない。
そうして気が緩んで両膝に顔を埋めた時だった。
「・・・・・・・・・・・・んっ!!」
紅榴のすぐ横、触れるほど近くに突然温かな気配が滑り込んできた。堪らず呻くような声を上げてしまったが、思いがけず甘い声だったと気付く前に温もりは更に近付く。
「っな、なにしてるん、ですか」
紅榴のすぐ脇で、悧彰が跪いていた。音もなく回廊下に潜り込んできた彼はさすが激昂の蘭と言うべきか、華のある微笑を浮かべてさり気なく紅榴の片腕を掴んだ。
「汚れ、ますよ」
「構わないよ。君が涙を流しているのは、我が身のこと以上に辛い。どんな謝罪をしたら、その涙が止まるか教えておくれ」
腕を取ったのとは別の手で、手の甲を優しく撫でられて、紅榴の涙は一瞬だけ止まった。
驚きのあまり言葉が出ない。わずかに溢れた言葉さえも、喧しいほど騒ぎ立てる鼓動のせいで、何を言っているのか自分にも聞こえなかった。
「ーー紅榴、」
予期せず背に回された腕に、紅榴はビクリと身を震わせた。押し退けようとしたが、身体が言うことを聞かない。全身が雨で湿って、寒さで身が強張っていた。
衣を隔てた悧彰の温もりが、じわりじわりと伝わってくる。
「大丈夫だよ、紅榴。そう、大丈夫。落ち着いて」
涼やかで甘やかな声音は、心の底を優しく撫でる。
存在を乞うように抱き締められていると、微睡みに似た心地が頭をもたげる。
高鳴る鼓動は喧しくなるばかりだが、不思議と涙はナリを潜めて、収まり始めていた。
「可憐な君の囀りはそれだけで砂糖菓子よりもなお甘い。けれど、できることならはっきりと心の内を見せておくれ。私に言いたいことがあるのなら、なんでも言ってごらん。批難だろうと愚痴だろうと、その桃色の唇から溢れた言葉なら私には女神の託宣よりも甘美な詩に聞こえるからね。私は君の想いのすべてを受け止めるよ」
思わず見上げてしまった。
なんて恥ずかしいことを平気で言う人なんだろう。
前々から思っていたけれど、耳許で囁かれると聞いているこちらの方が恥ずかしい。なんとなくくすぐったくて、頬は勝手に赤く染まり、彼の衣を握る手に自然と力が籠もった。
彼の言葉と温もりで、和いできた自分の心に紅榴は気付かざるをえない。
「・・・・・・守る、って言わないで、ください」
悧彰の表情を覗こうと、少しだけ彼を押し退けた。ーーどうやら当惑の色が濃い。
だがそれは当然の反応だった。私のことを忘れるなんてひどい、と罵詈雑言を浴びせられると悧彰は予想していたのだ、そんなことを言われるなんて考えていなかった。
いつも通りに微笑を湛えーーけれど、いつになく寂しげな微笑で悧彰は言う。
「どういうことだい?私になんて守られるのがいやーーもしかして、武人たる者、自らの身は自分で守るべきであって他者に守られてはならない、なんて思っているのかい?」
自分を嫌いなのだと断言されたくなくて、さりげなく悧彰は話題をすげ替えた。紅榴はそのことに気づいたかどうか、思うよりも先に腕の内で彼女は精一杯に首を横に振った。
「違い、ます。私は静中将より、弱い。だから、守る、って言われるのは、仕方ない、ってわかって、ます。ただーー」
「ただ?」
「兄さまみたいに、いなく、なってしまう、んじゃないか、って思ったら」
怖くてーー。そう紅榴は言外に語った。
ようやく悧彰は彼女の涙の原因を悟る。紅榴にとって「守る」という言葉は、心の傷を呼び覚ます鍵なのだ。だから怯え、恐怖のあまり涙する。ーー聡い悧彰は、途切れとぎれの言葉からも幼き日の紅榴に何があったのか、ほとんど正確に理解した。
「ありがとう、私のことを心配してくれたんだね。嬉しすぎて、天にも昇りそうだよ」
紅榴の気遣いを知れば、不謹慎だとわかりながらも浮かれる自分がいた。
少なくとも嫌われているわけではなかったとわかって、悧彰はほっとしている。冷たくあしらわれることが多すぎて、嫌われていると疑っていたのだ。
「いじらしい紅榴もまた愛おしい。そんな君を守りたいと思うのはいけないことかい?たとえ君が止めろと言っても、私の想いは止められないよ。・・・・・・ねえ紅榴。もうこれ以上涙を見せないで。大丈夫、絶対に私が君を守るからーー」
心の傷は時が癒すこともある。けれど、悧彰は敢えて甘い響きで「守る」と続けた。
紅榴のことを思えばこそ、前言撤回など有り得なかった。そもそも悧彰とて、安易に「守る」と言葉を紡いだわけではない。悧彰だけでなくきっと彼女の兄も、強い決意と彼女への深い愛情を持って「守る」と言ったはずだ。彼はどうやら彼女の心まで守りきれなかったようだけれど、自分ならば彼女の心まで守れるはずだと悧彰は思う。
「守らないで、なんて、言ってない、です。ーーけど。ただ、守る、って、言って、欲しく、ないだけ、なんです」
紅榴の切実な想いと望みを、悧彰はすっかり呑み込んだ。
「紅榴が思っている以上に私は貪欲でねえ。紅榴が大切に思っているもの、すべてを守りたいと思っているんだよ。もし紅榴が私のことを少しでも思ってくれるなら、自らも守り抜いて、絶対に紅榴を哀しませるような真似はしない。だから君を守らせてくれるね」
閉じられた腕の中で、紅榴は驚いているようだった。
本当は半ば呆れていたのだが、そんなことは悧彰にはわからない。なんてこと言うんだと笑いそうになって、それよりも恐怖に負けて、紅榴は涙ながらに訴えた。
「言いたい、ことは、わかり、ました。でも、なんで、守る、って、いうんですか。もう、黙って、てくれれば、それでいいのに」
悧彰の吐息が、紅榴の旋毛をくすぐる。
「んー、後悔している、からかな。以前、言いたいことを言えずに別れてしまった人がいてねえ。別れる前にもっと想いを伝えておけばよかったと今でも思うことがある。だから君を守りたいという想いを、口にしないなんてことはできない。いくら紅榴がいやだと言ってもね。もう言わないで後悔なんてしたくないんだよ」
嘘、と紅榴は思った。きっとこれは自分を慰めるための作り話なのだと。けれど、
この人は嘘をついていない。いやでも気付いてしまう。
紅榴は相手の心を覚る、と暎癸は言ったけれど真実は少し違う。紅榴が覚るのは相手の負の心だけ。悲しみ、怒り、憎しみ、そういった心は表情を見なくても相手の発する気配だけでなんとなくわかる。
だから今も、悧彰が深く後悔しているのだと、乙女を射落とす笑顔の裏にその想いを隠しているのだと、紅榴は正確に感じ取っていた。
「大切な、人ですかーー?」
涙はすっかり止まっていた。泣き腫らした後の潤んだ瞳で見上げても、ぼやけて悧彰の顔は見えない。負の想いを感じ取れるだけで、表情がわからないのは焦れったかった。
「んー、大切とは違うかな。特別なのは確かだけれどねえ。なにせあの人との出会いで、私の人生は色々と変わったから。ーーそれはもう天変地異さえ起こしそうな美人でねえ、あんな風に美しい人を見たのは後にも先に一人きりだよ。それなのに双子だというのだから、もう一人同じ顔の人間がいるなんてしばらくは信じられなかったものだよ」
懐かしげに語る悧彰の身体から、負の感情が薄れていく。
彼の腕の中で、彼の昔話を聞いているのは、なんとなく落ち着かない。優しく逞しい腕に抱き締められて、紅潮する肌は闇に紛れているだろうが、恥ずかしさのあまり紅榴は今更ながらジタバタと小さく抵抗した。
一刻も早く逃げ出したいーー、けれどその気持ちは呼び掛けられた途端に霧散した。
「どうしたの、紅榴」
吃驚した。彼に名を呼ばれることがこんなにも心地好かったろうか。
心の底を撫でる涼やかな呼び掛けは、どんな甘い言葉よりも痺れるように甘い。
一瞬湧き上がった想いに戸惑いーーそれゆえに紅榴は自分の心に目を逸らした。
「あのーーいま、その方は」
「ああ、長く行方が知れなかったのだけど、最近になって無事が確認されてねえ。つい先日、癸苑に着いたと報せを受けたよ。でもこれがまた忙しくてなかなか会いに行けない」
悧彰からは不安の気配が立ち上る。けれど負の感情としてはそう強くなく、押し潰されて、圧縮された感じがする。たとえば期待と不安、愛情と憎しみ、正負二つの感情が入り交じった心は、おしなべて紅榴にはそう見える。おそらく再会を喜ぶ一方で、数年ぶりに会うことへの不安を悧彰は抱えているのだ。
今度こそ想いを伝えられるだろうかーー、そんなことを考えているのかも知れない。
途端に大地が揺れた、と紅榴は思った。ーー逃げ出したい。とにかく離れたい。
いつの間にか温まっていた身体で、紅榴は悧彰を押し退けようとした。
「そんな人がいるなら私なんてかまってないで、会いに行けばいいじゃないですかっ!」
感情を曝しすぎだとわかっていたが、そんなことに構っている余裕はなかった。力説しながら力の限り押しやっても、紅榴の力では悧彰の腕はピクリとも動かない。
「静中将なら、今度こそ口説き落とせますよ。大丈夫です、私が保証します。癸苑に来る道々だって、あちこちの村のお姉さんたち見事にひっかかってたじゃないですか!」
紅榴がきっぱりと主張すると、落ちる柔らかな笑声に冷たさが混じった。
「ねえ紅榴、何か勘違いしているよね。私が何も考えず、ところ構わず女性を口説いているのだと思っているなら心外だよ。たしかに女性へ美辞麗句を尽くすのは趣味のようなものだけど、あれの目的は情報収集にあって、女性を口説き落とすことにはないのだから」
珍しく憤慨する悧彰は、徒に少女の髪を梳いた。その慣れた甘い仕草は、女性を口説き落としているうちに培った手管だ。ーーとはいえ、悧彰が積極的に女性を口説くのは仕事が絡むときだけだ。それ以外は自ら何をせずとも向こうから勝手にやってくる。振り払うのも厭になるほど、異種とりどりの蝶は悧彰の周りを常に舞っている。
それにねえ、と呆れたように悧彰は続けた。
「そもそもその人は同い年の美丈夫だよ、いくら美しいからといってさすがの私も口説き落とす自信はないし、落としたくもないねえ」
「えーー?」
大きな眼を見開く紅榴に、降ってくる笑声は甘い。
「彼女ではなくて彼、傾国の美女でなくて美丈夫。そんな人、どうやって口説き落とせっていうんだい。ーーああそうか。もしかして紅榴、ヤキモチを妬いてくれているの?」
騙された、咄嗟に思った紅榴は更に頬を赤く染めた。穴があったら入りたい、とにかくこの場から逃げ出したい、と暴れたものの、やはり逃れられずに額が彼の肩口に消沈する。
「き、きっと、静中将なら男性相手だって大丈夫です、ね?」
どうにか腕が緩まないかと適当に言った紅榴を、悧彰はふやけたような今まで見せたことのない笑みで迎える。
「怯えなくてもいいんだよ。ーーそんなにも、私のことが気になる?」
少し屈んだ悧彰の口から漏れる吐息が、紅榴の耳朶を這う。羞恥で赤く染まった耳に落とされた唇は、流れる溶岩よりも熱く溶けるように紅榴の心を揺さぶった。
心臓を掴まれた、と思った。
「なっ、な、に、してるんですかっ。気に、なんて。それより、その、会い、に」
これ以上触れていたら、息が止まる。高熱にうなされた時のように、意識が混濁してきて、紅榴は無意識のうちに悧彰の胸元をぎゅっと掴んだ。
ぐっと近づく温もりに、悧彰は緩む頬だけは押さえられない。
「ごめん、ごめん。もうしないから、大丈夫だよ」
魚みたいに口を開閉させて、視線を泳がす紅榴の主張は聞かずともわかる。
「本当だよ、君の嫌がることはしない。ーー・・・でも、もし許されるのなら、君に贈り物をさせておくれよ。私の頼み事をしてくれた御礼くらいさせてくれるだろう?」
そもそも悧彰が婉麗の私室を訪れたのは、神木の枝を採ってきてくれた御礼の品を渡すためだった。悧彰としては、あくまで個人の依頼として報酬を支払うつもりが、紅榴はついでですからと頑として報酬金を受け取ろうとしなかったのだ。
そこで悧彰はせめてもの気持ちとして、簪を用意していた。
「御礼なんて、そんな高そうなもの・・・・・・」
懐から取りだした簪を見て戸惑う紅榴の髪を、悧彰は一房掬い上げると、器用にまとめてその簪を挿した。ざくろの枝葉を模した細工の端に据えられた小粒の紅玉が、本物のざくろの果実のような生きた色を簪に添えている。
「そう高くないから安心をし。質の悪い品ではないけれど、所詮は行商から買ったものだからねえ。けれど、君に贈るにはこれ以上のものはないと思ったんだよ。紅い柘榴の名を持つ君には、やはり紅玉がよく映える」
いつになく感情露わに、満足げに語る悧彰から負の心が少しばかり薫った。
紅榴が簪を気に入るかどうか、そのことが不安なのだとわかってしまうから、紅榴はされるがまま、優しく髪を梳く指に身を委ねた。
「ありがとう、ございます」
消え入りそうな御礼の言葉は届いたのか、悧彰から負の気配は遠ざかっていく。
変わらず柔らかく撫でられていると、くすぐったくて目を瞑りたくなる。
「赤い柘榴は、かの赤孤の力の象徴ーー、きっと紅榴の父君と母君は、建国の祖である赤孤に君の守護を願ったのだろうねえ。君の名は御両親の愛そのものだ。深く慈しみ、どれほど大切な君を守りたかったのか知れるようだよ」
突然に左手で頬をなぞられて、瞳を覗き込まれる。ーー誰かにそんなことを言われるのは初めてだった。訪れた高揚感と戸惑いに、きっと瞳は支配されている。
覗き込んできた悧彰の瞳は、見る者を惹きつける妖艶な薫りで紅榴を捕らえる。
「そんな御両親の深い愛情にも、負けたくないなーー」
「へ?」
間抜けな声を上げて、瞬きする紅榴も悧彰にとっては愛おしい。
「私が君を守るよ、どんなことをしても」
息を呑む紅榴へ、妖艶ながらも真摯に、そして何より力強い眼差しが注がれる。
「大丈夫だよ、私は死なない、君の前からいなくなったりしないから。紅榴自身だけでなく、君の願いも志もすべて、私は一生かけて守りたいと言っているんだよ。それなのに途中で息絶えて、離れてしまっては意味がないだろう?ーーだから、そんな顔はしないでおくれね。私は女性との約束は守る主義だよ、この誓いは絶対に破らない」
紅榴は泣きそうになってーー、でも、笑った。
ああなんでまたこの人はそういうことを言うのだろう。どうしてこの人の言葉を聞くと安心するのだろう。どうしてーー。
柔らかな微笑は、やがてお腹の底から湧き出る笑声に変わる。紅榴だって箸が転んでもおかしい年頃だ。お腹が痛い、胸がむずむずする、けれど笑って、笑って、笑い続けると、身体に溜まっていた悪い気を全て吐き出したような気になってきた。
「紅榴、何がそんなにおかしいの。私は至って真面目に言っているつもりなのだけどねえ」
悧彰の苦言も気にならない。むしろ不満を漏らす悧彰の姿が可笑しくて、また笑った。
悧彰は呆れているのか、それ以上は何も言わず、ただ紅榴を抱き留めて、優しい雅な風を掻き鳴らしている。それがまた紅榴には心地いい。
「はぁーーーーーっ」
ようやく笑いが落ち着いてきて、紅榴は悧彰の腕の中で大きく伸びをした。
思い切り吐き出した息に任せて悧彰に身を預けると、小さく呻くような声が聞こえたような気がした、というのはその時すでに紅榴の意識が飛んでいたからだ。
小刻みに音を立てる寝息は、悧彰の項を滑るように走る。
期せずして首に回された紅榴の細腕に、悧彰は言いしれぬ緊張を強いられていた。けれど伝わる紅榴の温もりは心を落ち着かせ、武人としての感覚を研ぎ澄ましていく。
(よかった、誰もいないか)
激昂の蘭の特異な力でもって無意識に周囲を警戒していたものの、意識的に行っていたのとはわけが違う。彼女の無事な姿を見つけた時にはほっとしたと同時に涙する姿に焦って、彼女の笑顔を見るたった今まで警戒を怠っていたらしい。
我ながら不甲斐ない、と小さく嘆息する悧彰は更にぞっとするほど甘い溜息を漏らした。
(一目惚れ、だったのかなーー?)
舞台に立つ彼女に惹かれ、再会は運命としか思えなかった。
自らこの件に巻き込んでおきながら、捕らえて、閉じこめて、誰の目にも触れないどこかにしまっておきたいと願った。けれどそれは彼女の想いを砕くとわかっているから、実行することは永遠にない。それでも、暎癸が彼女と楽しく語らう姿には嫉妬し、彼女を王宮へ連れてきたことを後悔した。ーーそこでようやく、紅榴への想いを深く自覚した悧彰だったが、かといって今すぐにその想いを伝えるべきかは考えあぐねている。
譲れないものがあるから、守るとは言った。けれどーー。
紅榴が悧彰を軟派な男と思っているのは態度から明白だ。自分の性分上、軽薄に見えるのは仕方ないにしても、その誤解は長い時をかけてでもきちんと解かねば、この想いは冗談として流されてしまうだろう。そう思うから安易に想いを口に出来ない。
けれど紅榴への賛辞は尽きないし、彼女を想うゆえの衝動は簡単に止まらない。
回廊の下で見つけた紅榴、その泣きじゃくる危うげな色香に誘われて、耳朶どころか白く透き通る首筋、そして衣に隠れてほんのりと桃色に染まる絹の肌にまで、口付けを落とすところだったなんて口が裂けても言えやしない。
密かに反省を続けていると、紅榴が腕の中で身じろいだ。晒されるあどけない寝姿は、邪な想いを抱く自分への非難のようだ。一方で湧き起こる懸念は悧彰の心を深く沈めた。
(もしかして私のこと、異性として認識していない・・・・・・?)
それどころか、保護者として認識されている気配すらある。信頼されていることは嬉しいが、それはそれで虚しい。紅榴と共にありたいと願っていても、保護者としてただ傍で見つめているだけなんて悧彰には耐えられない。
悧彰は切なく、深く、そして甘く紅榴に語りかける。
「私がこんな想いをするのは君にだけだよ。本心から贈り物をしたいと思ったのも、触れたいと思ったのも君だけだからね。いつになったら君は、私に気付いてくれるのかな」
手の内で健やかな寝息を立てる彼女に戸惑いながらも、これくらいは許されるだろうと、紅榴の額に溶けるような口付けをそっと落とした。




