引き剥がされた仮面
自分の大切なもの、誰かの大切なもの。
もう二度と失いたくなかったから、すべてを守れるようになりたかった。
そのために手に入れた剣の力、百花繚乱、先代から受け継いだ虎鶫の肩書き。
あのとき守れなかったから、今度は絶対に私が守るーー。
しんしんと夕明かりが降ってくる。
視界の端に映る池が、まるで地獄池のように血に似た赤さを湛えて暗い輝きを増す。
遥か彼方から遠雷の音が届き、紅榴は身をかすかに震わせた。
忍び寄る雲の気配は雨の匂いと共にある。目の前にある乾いた土は、そのうち雨に打たれてその身を黒く変えるだろう。だがその一部は、すでに点々と変色していた。
紅榴の、涙だった。
目から溢れた涙が頬をつたって大地を湿らす。幾筋もつたい落ちる涙に混じって、瞳に映る鮮やかな赤色が紅榴の記憶を甦らせ、大きく心を揺さぶった。
私が君を守るからーー。
そんな言葉なんて聞きたくなかった。守るなんて言って欲しくなかった。
だから彼を突き放して、だから逃げた。
望んでいない言葉を与えられても、拒むことしかできない。
痛い、怖い、胸が苦しい。
誰かを守りたいと願っているから、その自分が守られる側になるなんてイヤだ、というのとは違う。
自分がいつも誰かに守られていることくらい知っている。栩煖に侃雫、薔薇香に非時香菓のみんな、それに今は静中将もーー。
人は互いに支え合って生きている。誰かを守って誰かに守られて、人はそうあるべきだと思っているし、それが当たり前だとも紅榴は思っている。それでも。
守る、と誰かに言われるのは怖い。
紅榴を守ると言って、目の前からいなくなった人を知っているから。だから、怖い。
さあ紅榴、手を放して。でないと君を守れない。
もしかして、ぼくがどこか遠くへ行ってしまうと心配してるの?
なら大丈夫だよ。母上じゃないんだ、ぼくが君を置いてどこかに行くわけないよ。
私は母上に与えられたこの力で、君を守りたいだけなんだ。
だから奴らを片付ける少しの間だけ、手を放していてくれるよね。
大丈夫、心配はいらないよ。
絶対に、ぼくが君を守るからーー。
そう言った少し後に、振るわれた兇刃の前に倒れ伏した兄さま。
大好きな兄さまが倒れていく光景なんて思い出したくもない。
こぼれ落ちた刃、小柄な身体から流れ出る赤い液体、大地は兄さまの血で泥濘に変わっていった。飛び散る血飛沫は紅榴の強張った身体にもまとわりつき、四肢の自由を奪っていった。赤く染まった視界は心を凍てつかせ、震える身体は息継ぎさえ許さない。
十年近く経った今となっても、あの幼き日のことは夢に見る。ーーだから。
守る、と言われると自然と身が強張る。
また自分の目の前で、大切なものが失くなってしまうと思うから怖くなる。
紅榴にとって、守るという言葉は呪いの言葉だ。
一度聞いてしまったら言葉に心を絡めとられて、呼吸がうまくできなくなる。
実際、贔屓のお姉さん方に「守ってあげたーい」と言われて、舞台の上で呼吸困難になったこともあった。恐怖に膠着する紅榴を見かねた薔薇香が、座員や客相手に禁句令を発したほど、落ち着くまでにだいぶ時間がかかった。
その時に比べたら、お姉さま方の戯れ言を聞き流せるようになったし、仮に恐慌状態になっても立ち直るまでの時間は短くなって、随分と症状は改善されている。
けど、今回はそう簡単に立ち直れそうにない。
心配はいらない。私が君を守るからーー。
才田でその言葉を聞いた時は、どうにか心の外に押し退けて、記憶の片隅に封じてやり過ごした。それなのに、暎癸の一言で一気に甦ってしまった。
一瞬でも似ていると思ってしまったあの人から、守ると言われたから戸惑った。
兄さまみたいにあの人も手の届かぬ人になってしまうーー、そう思ってしまったらとにかく怖くて、嬉しかったはずなのにあの人の傍にいるのが憂鬱になった。
一度でも思い出してしまうと、今更になって自分ではどうしていいのかわからなくなるくらい心が苦しくて、混乱のあまり我を忘れて婉麗の私室を飛び出した。
ぐずぐずに乱れた心は、夕立の雨粒よりも大きな雫を地面に落とす。
そんな自分を、誰かに見られるのはイヤだった。だから、
「見つけたーー」
その声を聞いたとき、紅榴は思わず悲鳴を上げた。




