宮城の一廓で
夏の到来を告げる虫の音が、王宮に広がるざくろの木立を心地好く染め上げる。鋭さを増した陽射しは、葉の緑をより一層濃くして庭の白い砂礫を明々と輝かせる。
城下の喧噪からも遠く離れた後宮は、常にひっそりと閑かだ。権謀術数の繰り広げられる凄惨な場と呼ばれていても、表向きは幽玄で時折流れる管弦が華を添える程度、後宮の花と呼ばれる女御たちの囁きこそがこの場を天上にも似た壮麗な世界に作り上げる。
「ん~、いい香りね。蜜柑みたいに爽やかだから、これからの暑さには丁度いいわ」
女官の一人が溶けるような声で漏らした。
白粉をこぼしたような彼女の手の上には、商人から贈られた小さな香炉がある。
彼女たち下っ端女官の賃金ではなかなか手に入らない枝玉の一品は、この香炉が賄賂であることを示していた。下級女官に手渡すことで、商人たちは簡単には目通りできない上級の女官や妃殿下に取り次いでもらおうという目論見なのだ。
「それにしてもあの売り子ときたら、伯大将の口利きだからといって婉麗様にまでお渡ししろだなんて図々しいにも程がありますわ。いくらわたくしたちが宮様付きの女官ではないからといって召使いではありませんのよ。もし殿下にお見染め頂ければこんな香炉の一つや二つなんてすぐにでも手に入りますのに」
「そうは仰っても、しばらくは夢物語じゃなくて? 六宮殿下と婉麗様の仲睦まじさと言ったら、オシドリも裸足で逃げ出すほどだもの。夕べは婚儀前だというのに御寝所を共にされたとか。それなのにわたくしたちがご寵愛いただけるはずがないわ」
やや目尻のきつい女官の険のある物言いに、隣の女官はやんわりと制す。
「まあその噂、本当でしたの。わたくしは指を絡めてもたれ合いながら池の周りを散策なさっていたと聞いたわ。それも六宮様が昼日中から睦言を囁いていらしたとか。ーーああ、なんて婉麗さまったら羨ましいのかしら。六宮様があのように見目麗しいと知っていたなら、桂宸殿ではなくて無理を通してでも六宮様の葵宸殿を希望いたしましたのに」
おそらくは行儀見習いで後宮入りしている一人が、天を仰いで吐息をこぼす。
婉麗姫が入内してからというもの、後宮内ので六宮人気は鰻登りだった。狐宮などと敬遠されていたのはいつのことやら、仮面を外した彼の美丈夫ぶりに色めき立った女官たちはあの手この手で彼に近付こうとし、望月の君と諸手を挙げて賞するほどだ。
「けれど、そのせいで菊宸殿は大変なことになっているそうよ」
急に声を潜めたのは、この場で一番耳聡いという女御だ。
彼女の言う菊宸殿とは、今上陛下の后が棲まう殿居のことだ。一宮ならば楓宸殿、六宮ならば葵宸殿のように、殿居には宮に棲まう貴人にちなんだ植物の名が付いている。
「無理もないわ。お后さまは一宮様を玉座に就かせるために心血を注いでおられたのよ。六宮殿下が万一、姫との間に御子をもうけたらすべてが水の泡になってしまうもの、気が気でないでしょうね。気性の激しいあの方のこと、もしかしたら今頃八つ当たりで下女の一人や二人首が刎ねられているかもしれないわ。ねえ、あなたもそう思うでしょ?」
「え?・・・・・・ええ」
後輩の濁とした返事に不服なのか、囁くように訊ねた女官は眦を釣り上げる。
「まさかあなた、菊宸殿の君に告げ口しようっていうんじゃ」
「違いますっ!! わたくしはその、ただ、皆さんの手がお留守なのが気になって。このままでは宴の準備が間に合いませんわ。・・・・・・それにっ、先ほどから女官長さまが射殺すような瞳でこちらをご覧になっていらっしゃいますのっ!!」
叫ぶような若い女官の忠告に、その場にいる全員が表情を凍らせた。
ゆっくりと振り返る視線の先では、齢七十を超える嫗が矍鑠と背筋を伸ばしてこちらを睨んでいる。中庭を挟んで数尺離れたところにいるというのに、その圧倒的な迫力は女官たちが職務を思い出してがむしゃらになるのに十分だった。
彼女たちは目の前の糸と針をとり、五色の布に緻密な火焔の刺繍を施し始める。
作っているのは三日後に後宮で行われる六宮の生誕記念祭の垂れ幕だ。例年かの王子様はこの宴を催さないのだが、今年は婉麗姫が入内したため急遽執り行われることになった。
(ふぅ・・・・・・、もう少し詳しく聞きたかったんだけどな)
必死に作業する彼女たちの中で、密かに安堵と当惑の息を漏らした者がいた。
それは先ほど忠告した年若の女官だ。年の頃は十を少し過ぎたくらいの良家の子女で、華やぐ雰囲気は貴族的ではなく、庶民めいた素朴さが愛らしい。
彼女も針でちまちまと縫いながら、先輩女官たちの姿を目で追っていた。
「それはそうと、六宮様ったら一宮様に御前試合を申し込んだらしいわ」
女官長の影が遠ざかると、何事もなかったかのように世間話が始まる。それでも作業速度は落ちないのだから、選りすぐりの子女がここに集っていることを伺わせる。
「一宮様にお誕生祝いとしてねだったというのでしょう?無理もないわ、一宮様の剣の腕前は素晴らしいもの。お手合わせしていただけるだけで武人の誉れだというじゃない」
「でもだからってそんな、まるでお命を・・・」
「しっ、滅多なことを口にするものではありませんわ」
この中で一番年嵩の女官が後輩たちを鋭く嗜める。
「それよりも、楽しい話をいたしませんこと?」
女官たちは一瞬だけ手を休めて、先輩女官を見やった。
「これは先ほど女官長様から伺った話なのだけれど、六宮様の宴にあの非時香菓が招かれたそうですわ。たまたま癸苑の城下で巡業していたんですって」
「まあ。それではあの傾国の美女と名高い薔薇香の舞を見られますの?琥珀の蝶もそれは大層美しいと聞くけれど、一宮様とどちらの方が美しいのかしら」
熱っぽい吐息に続いて、皆口々に美女たちへの熱い想いを暴露し始める。
やれ一宮様の切れ長の双眸はくりぬいた鷹の眼球のように気高いだとか、やれ薔薇香の透けるような肌は死者にも劣らぬ静謐さだとか、なんだか不吉な形容の賞讃も混ざっていたが陶酔する彼女たちが気づく様子はない。ーーたった一人の少女を除いて。
「ねえ、ではあの噂の笛吹童子も来るのかしら?」
とある女官が思い出してふと漏らす。
「笛吹童子? 琴の神童なら聞いたことがあるけれど」
「最近、非時香菓に入った子で、なんでも少女のように可憐な美少年だそうよ。笛の腕前も宮廷楽師に勝るというの、一度この目で見てみたいでしょう?」
「まあ呆れた、知ってはいたけれどあなたって気の多い方ね。たしかこの間は商人に懸想遊ばしていたのじゃなくて?」
「それはそれ、これはこれよ~。美少年はこれから成長して愛でる楽しみがあるでしょう?この間の方は静中将以上の美貌だったのよ、高嶺過ぎて届かぬ花とはいっても手に入れたいと思うのが女の性というものよ」
同期ゆえの軽口に注意した方が眉を顰めたが、周りの者は首を大きく揺らして肯いた。
後宮は女の園、護る武人のほとんどが無骨で、滅多に麗しい男性には会えないのだ。こんな時ばかりは誰だっていい夢を見たい。
(笛吹童子かーーどんな子なんだろう・・・・・・)
後宮入りして間もなくの女官も、幼いとはいえ立派な乙女だ。おそらくは同じ年頃であろう少年に、密かに思いを馳せたのだった。




