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一宮と六宮

 簡素な黒塗りの軒車はきれいに均された道を粛々と進んでいた。均等に砕かれた砂をじりじりと踏みしめながら、牛に引かれて車輪は規則的に回転する。

(平常心、平常心、平常心、そう、平常心っ!!)

 軒車に座す姫君は心中密かに唱えた。街道の荒れた道や石畳に比べたら揺れなど無きに等しいのに、彼女の恐怖は収まらない。だから、

(はやく着けばいいのに・・・・・・)

と思いはするものの、一方で着くことへの不安も拭いきれずにいた。

 宮中なんて紅榴には天ほど遠いところだ。それも入内の身代わりを務めるのだ、考えるだけで眩暈が起きる。まして悧彰から習った作法やしきたり云々は所詮は付け焼き刃、悪鬼の巣窟と呼ばれる後宮で正体がバレたら今度こそ命は無いだろう。

 ーーそれでも紅榴は、やると決めた。

 どうしても放っておけない人がこの先に、いる。だから自ら乗り込んだ舟がたとえ泥舟だろうとも無事に岸に着いてみせる、それくらいの覚悟が紅榴にはあった。

 やがて軒車はゆるりと止まった。

 許可を請う声に応じると、恭しく扉が開かれる。

 眼前に広がる優美な路地に目が眩む。才田の郷庁には幾度か足を踏み入れたことがあるが、その郷庁さえも箸にも棒にもかからないほどの壮大な世界がそこにはあった。

 道幅は車二台が通れるほどゆったりとしていて、囲う築地塀は今作られたかのように滑らか。塀の先にはいくつも巨大な建物が見え、そのどれもが規則正しい半円筒の瓦を頂き、陽のような明るい色彩を放っている。才田であの瓦を用いているのは重要な正庁だけで、このように連なっているのを初めて見た紅榴は密かに息を呑み、静かに瞬いた。

 そう、初めて、だったはずなのだがどうも既視感が拭えない。

「姫」

 傾げようとする首を押さえて、紅榴は声の方へ向く。

「内事ですので、これより先は人目に付かない抜け道を通っていただきます。王族と許された者しか知ることは罷りなりませんので、目隠しをお召しになって下さい」

 やけに腰の低い悧彰に手渡された布は、王族が好んで使う紅をしていた。

  この紅は、まるで鮮血ーー。

 そう思った途端に、仮面の下にある頬の筋がわずかに痙攣した。指先も繊細に震えて、手伝う女官に気づかれないかと背筋に汗が這う。

 ーー赤い布を見ると、兄が斬られた時のことを否応なく思い出すからどうも苦手だ。

 暗い記憶と想いを閉じこめて、紅榴は背筋を伸ばして布を取る。

 支度を手伝う女官は、侍る中でいかにも上位と思しき嫗だ。彼女は恭しく紅榴に近づいて、後宮外の男性の前で名乗ることを禁じられているのだと名乗らぬ非礼を詫びた。

 皺と節の際だった手に握られ、咄嗟に筋肉が強張った。悟られぬように浅く息を吐く。

「道案内、頼みます」

 思いの外しっかりとした婉麗の声に勇気づけられて、一歩前へと踏み出した。二歩三歩と足を運んで、悧彰の気配が徐々に遠のいていくことを肌で感じた。

『少しの間だけ私と離れ離れになってしまうけれど、泣かないでおくれよ。大丈夫、君を案内してくれる女官殿は信用に足る御方だから』

 車から紅榴を降ろしながら悧彰は目線だけでこの嫗を指し示した。

 たしかに、彼女は複数いる女官とは一線を画した雰囲気がある。ーーそれは年の功とはまた別の、言葉では表しにくいものがそう感じさせるのだが、紅榴にはそれが何かわからない。だが、その何かがあって彼女の手を取り続けることへの信頼を裏付けている。

 その嫗の手に導かれるまま右へ曲がったり左へ折れたり、時に何かを潜って飛び越えた。危急時に王族を逃す役目を担っているというのに、ずいぶんと山あり谷ありの道のりだ。途中何度も躓いて、頭をぶつけそうになって、そのたびに嫗に助けてもらった。

 そうしてしばらくして、ようやく開けた場所に出る。すでに後宮の敷地には入っていたが、目的の宮まではまだしばしあるらしい。

「もう目隠しはお外しいたしましょう。ーー先ほどは失礼いたしました、姫様。わたくしは女官の教育係を務めております、玉粢という者です。僭越ながら後宮での姫様の生活をお支えするよう、殿下直々に仰せつかっております」

「あの、殿下とおっしゃるのは?」

 どちらを指しているのだろうーーそう紅榴が問おうとしたとき、視界の端に煌めくものを見つけて、考えるよりも先に身体が動いた。

「無礼者っ、わたくしが華婉麗と知っての狼藉かっ。ーーならば、わたくしの身を狙うわけを明かしなさい。さすれば命だけは見逃しましょう」

 か細いながらも深窓の姫君には似つかわしくない怒気に、女官はわずかに怯んだ。手にした小刀を握りかえして、途端に冷淡な表情を浮かべはじめる。

「たとえどんなに美しい花でも、行く手を遮るのならば手折るだけでございましょう?貴女様はわたくしたちにとって破滅の星。この国を再び混沌へと突き落とす星を放ってはおけないのです。ですからーー・・・散って、頂けますか?」

「このような人前でっ・・・・・・ただでは、済まなくてよ」

 女は淡泊な渇いた笑いを立てる。

「ご存じありませんか。ーー後宮とは、俗世とは隔絶された泡沫の世界。あなたがここで果てたとしても、華婉麗様は後宮にはおいでにならなかった、途中で賊に襲われたのでしょうと華家に伝えるだけのことです。これで伯も静の名も地に落ちることでしょうね」

 女の言葉に、背筋にゾクリとしたものが這いのぼった。

 女官たちは黄に青にと表情を様変わりさせている。しかし、玉粢を除いて止めに入る者はいない。白刃を振るう女よりも上位の者ですら黙りを決め込んで、ここで婉麗が死んだとしても無言を貫くつもりであることを紅榴は悟った。

 呆れのために息を吐く。

 再び、白く透きとおる首筋を狙う鋭い煌めきが寸前まで迫る。女は何かしらの武芸を身につけているのか、小刀を振り回しても表情を崩さない。

(ーーーーツゥッ!!)

 致命傷を避けようと突き出した左腕に鋭い痛みが走った。衣は裂け、血は滴り落ちて、白い砂礫の上に赤い華が咲いた。間もなくして、二撃目が放たれるーー。

 素早く抜いた赤い珊瑚の簪で、相手の刃を左へ流すようにして躱した。鍛えられた武器でない分だけ、明らかにこちらが不利だ。そもそも後宮へ入るときに護身用の懐刀は預けてしまっていたし、侃雫を呼ぼうにも手元に鏡はない。

 女はくるりとこちらへ向き直り、婉麗の喉を掻き切ろうと狙いを定めた。

(今度こそ、やられるッーー)

 そう覚悟したのも束の間、一陣の風が駆け抜けた。

 一瞬、なにが起きたのかわからなかった。

 目の前に紫の布が飛び込んできて、その向こうで女が倒れる音を聞いた。

 未練たらしく砂利を握りしめる白い手だけが目に留まり、やがて、動かなくなる。

 今度は煽るような風が流れて、紫の布が優雅に翻るーー。布、と思えたそれは人で、視界を凌駕したのは、悧彰ほどの上背誇る大柄な女性だ。彼女は左手に鍛え上げられた霜剣を携え、点々と衣に散った紅の華など気にする素振りもなく大胆にも刀を袖で拭う。

 みるみるうちに面紗と同じ紅へと変じた袖は、絢爛な模様を施したようにさえ見える。

「六宮は来なんだか、玉粢」

 面紗の下から漏れる言葉は布越しとは思えぬほど明瞭に響いた。

 キリリとしていて、それでいてゆったりとした声音は、薔薇香に引けを取らぬ色香を漂わせている。といっても老若男女を惑わず薔薇香のそれとは違って、彼女のは女性を酔わすに留まっている。ーー女官たちは、腰が砕けたようにゆるゆると平伏した。

 さすがに玉粢だけはきちんと傅いていて、紅榴も慌ててそれに倣う。

「構わぬ、姫君。まずは我が愚弟の非礼を詫びよう」

 手に掛けた面紗の下から現れたのは、女傑と呼ぶに相応しい鷹のような鋭い眼差しを持つ美女だった。くっきりとした二重に筋の通った鼻、ふっくらした唇は蠱惑的で、薔薇香のように抜ける色白さは持ち合わせてないが、かえって芯のある美しさを印象づける。

「我が一宮。よくぞ血塗られた後宮へ参られた、華家の姫君よ。心から歓迎いたそう」

 嘲笑の混じる豪胆な笑い声は、見惚れるほど華がある。ーー一瞬、その迫力に飲まれて気が遠のきかけた紅榴は、さっと礼を済まして目線を上げた。

 鈴の転がるような澄んだ声で、ころころと婉麗はたおやかに笑む。

「華剛腕が十二の姫、婉麗にございます。一宮殿下におかれましてはご機嫌麗しく、また拙のような者へのご配慮たいへん痛み入ります」

「ほう、私に動じぬとはさすが剛腕の娘といったところかーー。先ほどの動きといい、武の心得があるようだな。私も武に根ざす者として、そういった者が後宮入りすることは嬉しく思う。機会があれば是非手合わせを願いたいものだ」

 本当に感心しているのか、一宮はふっと力の抜けた柔らかい笑みを溢す。

「それにもしそなたが、その武の心で愚弟を鍛えて直してくれるとなお喜ばしいのだがな。あやつは弱い、私よりもーーだが、あやつがそなたの前に姿を見せることはないだろう」

「それは、どういう・・・・・・」

「そのままの意味だ、姫君」

 弟を語る一宮の瞳に浮かぶ色を伺うよりはやく、彼女は婉麗から視線を逸らした。さすがは武人としても名高い姫君だ、他人に心を覗かせるような隙は見せない。

 大人しく目蓋を伏せた紅榴は、何の気なしに物憂げに呟いた。

「いまだまみえぬというのに、わたくしは大層嫌われたことですわね」

「そう思っていればよい。その魂、己が身に留めたくばあやつに好かれるなどあってはならぬ。ゆえに会わぬに越したことはないのだがーー、遅かったか」

「えっ・・・・・・?」

 押し殺すような低い忠言が終わるか否かの内に、一宮は懐から取りだした扇子を目にも留まらぬ鮮やかな手つきで投げ果せた。

 その扇子が落ちた先を見て紅榴は息を呑み、婉麗は初めて紅榴の前で瞳を揺らした。

「ーー六宮、貴様何をしにここへ舞い戻った」

「決まっておりましょう、予定の刻を過ぎても一向に現れぬ我が君を迎えに参じたのです」

地獄の使者が来たのだと、紅榴は思った。

 六宮の声音は老人のように嗄れて這うように響く。反射的にそう思ってしまったら、指先一つ動かすことさえ躊躇してしまった。年相応な瑞々しさはその声から消え、それでいて一宮のような優美さも雄大さも感じられない。立ち姿は王子と呼ぶに相応しい優雅さを漂わせているというのに、まったくもって不釣り合いな声音を彼はしている。

 そして何より、彼の容貌を覆う狐の面も優雅さとはほど遠い。剥製めいた仮面に埋められた二対の鉱石はたぎるように煌めいて、この世のものとは思えぬ存在感を放っている。

 真摯な言葉とは裏腹に、彼は「狐宮」の渾名にふさわしい奇人らしい。驚いているのは紅榴だけで、前に立つ一宮も侍る女官たちも侮蔑の眼差しで静かに六宮を眺めている。

「ふっ笑止。そなたの口からそのような言葉が聞けるとは思わなんだ。ーーそれは私と、違える覚悟ができたということでよいのだな」

 六宮は応えない。無言のまま婉麗に近づいて、彼女の腕から流れる血に目を瞠ったーーように見えた。だがそれ以上の機微は見せず、彼は更に傍に来て淡々と手を差し伸べる。

 その繊細な指先に惹かれて、婉麗は六宮の手を取った。

「姉上が私のことをどう思われようと、すべては私の与り知らぬところです。ご自由になさってください。ですが、危殆に瀕した我が君をこのままになさろうというならば、それはご容赦願いたい。この場は早々に暇乞いをさせてもらいます」

「くっ、はっはっは、そうか。ーー・・・貴様の意地、とくと見せてもらうとしよう」

 婉麗の手を引きながら毅然と言い放つ六宮に、一宮はやはり嘲笑を浴びせる。

(なんで実の弟に、そんなこと言うんだろ。なんだか、怖い・・・・・・でも、って、あれ?)

 一宮の言葉に肝を冷やしたのも束の間、紅榴は突然の眩暈に足元を掬われる。

(あ、れ・・・・・・れ?)

 崩れるまま身を六宮に預けて、遠くへ行こうとする青い昊を手に収めようとした。

(そういえば、今って夏なんだ・・・・・・)

 唐突に思い出すと、木立を叩く蝉の喧しい鳴き声が聞こえる。なのに、寒さで身体が震えるのはどういうことだろう。ーー覚えのある感覚に、なぜか心が安らいできた。

「くそっ、遅速性の毒かっ」

 頭上に響く六宮の叫びで、ようやく事態を理解した。

(ごめん、侃雫、薔薇香・・・・・・言われた通りだった。でも、私はやるって決めたからーー)

 ひとたび宙に浮くと、ふわふわと殺気めいた空気は紅榴から遠ざかっていった。

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