幕間 ある公子の情景
「なぜです、姉さまっ、なぜ」
訴える声は、恐怖に締め付けられて掠れた。喉の奥に絡むねっとりとした異物が、伝えたい言葉の多くを奪っていくーー。
目の前に佇むのは紫色の袍を纏う一人の女性。一振りの血まみれた太刀を構え、瞳孔見開く眼でこちらを見下ろす様は鬼神を思わせる。その狂気を前に後ずさりたくとも、彼女に片の腕を骨が軋むほど押さえつけられて、身を震わすことすら叶わない。
小さな瞳が、涙で大きく揺れた。
(姉さまの輔けになるように、今日もたくさん勉強するって約束した。なのにっ・・・・・・)
女の肩越しに見える正六角の屋根と地を結ぶ丹塗りの柱がいつになく赤く見える。
「私にはお前がいらなくなった。ーー邪魔だ」
落ちてくる言葉は、冷たく響く。
「だが、私とて一方的にお前を始末するのでは目覚めが悪い。そこでだ。お前も私も武人の端くれ、ここは正々堂々斬り合いで行く末を決めようではないか。なあ、六宮」
悪口雑言ばかり耳にする後宮で、唯一温かい言葉を掛けてくれた一番上の姉ーー。
その彼女に見限られた自分には、彼女がなにを言おうとも生きる価値などもはや無かった。彼女の言葉は最期の裁き、受け入れるだけが自分にできる唯一のこと。
緊張の糸が切れて、途端に身体から力が抜けていく。
「・・・・・・姉さまの道を私が塞ごうというのなら、どうぞこの場でお切り捨て下さい。ーーただ、せめてただ、最期は私の名を。・・・・・・私の名はもう、姉さましか呼んでくれませぬ」
一宮は涙で頬を濡らす六宮を一瞥すると、口許に微かな笑みを浮かべた。
太刀が、振り下ろされるーー。
「六宮様、どうなさいました」
突然、瞳孔ごと目蓋を開いた六宮に、驚く女の声が届いた。
衣は肩から落ち、たおやかに乱れて絡みつく稲穂色の髪を肌から引き離した。拍子に左眉の端を走ったわずかな痛みに顔をしかめ、思わず手を当てると脂汗が頬を濡らす。
「・・・・・・。なんでもない。ーーそれより、」
六宮は素速く女の手から得物を叩き落とした。ーー金属特有の、鋭い響きが床の大理石を這う。触れた相手からは容易く怯えが感じ取れた。
「も、申し訳ありません。これは・・・・・・」
震える身体を必死に抑え、女は寝台を飛び出す。宮仕えとあらば出自確かな娘だろうに、豊かな身体を露わにして冷たい床に傅く。闇に女の白い肌が、冴え冴えと浮かぶ。
「理由は問わぬ。差し詰め、義母上いや姉上の差し金といったところか」
女は首を振るばかりで応じる様子はない。六宮は呆れ半分、憤り半分の心持ちで立ち上がった。薄衣を羽織り、近くにある剣をとる。細身ながら粘り強く鋭い切れ味と評される、母の故郷より贈られた名匠の作だ。
「お、お許し下さい」
女は涙を浮かべ、六宮に慈悲を乞う。ーー一体、何度この光景を見ただろうか。許したところでまた同じ過ちを繰り返すだけだ。
「すまぬ。供養するゆえ、私だけを恨んで逝け」
ーー鮮血が、室を、六宮を、染める。
亡骸に掛けた女の衣もみるみるうちに紅に染まる。苦しむ間もなく逝ったことだろう。
「片付けろ。もう、あの室は使わぬ」
通りがかった若い侍従は、鬼神かと思える血まみれの姿に小さく息を呑んだ。恐ろしさのあまり了承の礼もままならずに、駆けだしてしまっている。
「ふっ」
口から嘲笑が溢れた。何を嘲っているのか自分でも判らない。愚かな女か、あの怯えた侍従か、はたまた義母か、姉か、あるいは自分かーー。
六宮は思う。自分は不覚にも夢を見ていた。他人の寝所で寝入るなど、ここ数年無かったというのに夢を見たのだ。それゆえあの女には自分を殺す時間はいくらでもあった。それを躊躇ったということはーーやはり、仮面を外していたせいだろうか。
狐の姿を模した仮面ーーこの面は、贈り主の思惑とは別の効力をも発揮している。
もう二度と会うことのないあの人ーー。名前も顔も知らない、暗い地下牢の中でたった一度会った女性。一宮に斬られたあの日、途切れる意識の中で声だけを吸収した。
「のう六宮、なぜ妾が面など着けているかわかるか」
その言葉を聞いて初めて女が仮面をしていることを知ったというのに、相手は自分のことを知っているようだった。だが、聞き返したくとも声が出ない。自らの血の海に六宮は浮かんでいた。ーーそれなのに、女が安否を気にする風は微塵もない。
「・・・・・・自分の、心を隠すため・・・・・・」
力を振り絞って口に出したのか、それとも頭に浮かんだだけだったのか、六宮の答を聞いた女は、妙に感情味のない笑い声を立てた。
ここは、地獄かーー。寒さと暑さが、同時に身体を支配する。
「及第点には及ばぬな。まあよい。ーー・・・面はのう、六宮。相手の心をすくい取る柄杓じゃ。対峙する者の力量、器、果ては微々たる心の変容も拡げてみせる。・・・・・・実はのう、妾はそなたの器を買っておる。じゃからそなたの名に相応しい面をやろう」
ころころ、と地下牢の石畳を何かが自分を目掛けてやってくる。何度も目地に躓いて、跳ね返り、右往左往して血溜まりに身を委ねる。
やっとの思いで手を伸ばして、それを掴んだ。
ーーまだ、自分は生きている。
手の内に籠もる確かな木の存在が身体を包みこんだ。床の冷たさが、肌を叩いた。
「生かすも殺すもそなた次第じゃ」
意識を放す直前に最後に響いた言葉、後に残るのは女の居丈高な笑い声。
主語は仮面か、それとも自分かーー。
何もかも生かすことも殺すことも出来ずに、六宮はいまだ答えを探している。




