魄流の面
「静中将、コレに乗るんですか」
「悧彰でかまわないよ、紅榴」
声の主に振り返って、悧彰はかすかに動きを止めた。
そこにあるのは紅榴、ではなく頭から指の先あるいは毛先に至るまで、紛うことなく華婉麗その人だった。百合のような凛とした美しさと知性を兼ね備え、母君の出自も確か。殿下の妃とするにはこれ以上見合った者はそういない。
だがこの華婉麗は正真正銘、紅榴である。
「見たところ何の変哲のない仮面のようだけど、どうやって使うんだい?」
悧彰の泊まっていた宿を紅榴が訪れたときのことである。
紅榴の手に載せられた仮面に悧彰は目を輝かせた。白い釉薬を撫でた滑らかな肌に、ただ目と口の部分を穿っただけの簡素な仮面、どこか赤子のような危うい清らかさがある。
この面は俗に魄流の面と呼ばれる。
僊蘆峰に住まう仙人が作ったと伝えられ、面に封じられた妖の妖力により特異な力を発揮するという。ただ、使おうものならば代償に生気を吸われ、やがて面の使い手は死に至る。ゆえにこの面は魂魄が流れ出る仮面、との意で魄流の面という。
虎鶫のもつ魄流の面は、その名を「百花繚乱」という。
百花繚乱という絢爛な名と真逆な意匠にも、悧彰は深く興味を示していた。
「使い手の生気を吸わない魄流の面ねえ、なんとまあ妖しく美しいものだ」
「百花繚乱だって全く生気が要らないってわけじゃないんですよ。ただほかの魄流の面とは代償の払い方が違うだけで、ほら、こーして・・・・・・つッ」
顔を歪めながらも紅榴は躊躇わず人差し指に針を刺した。ゆるゆると膨らむ紅の玉を面にあて、何やら呪術めいた文様を書き始める。
「君の花弁のように愛らしい指から生命の欠片を奪うなんて罪深い仮面だねえ。ただ、その麗しい欠片を失わせる原因が私にあるかと思うと、ひどく心が痛むよ」
「お心遣い痛み入ります、静中将」
悧彰の戯れ言を適当に流した紅榴は、傍らにあった紙片を仮面の額の部分に貼り付けて「よし」と呟いた。紙片には婉麗姫の名や年齢、出生日などが事細かに書かれている。
「もっと完璧な姿を目指すなら、髪とか爪とか身体の一部があればいいんですけど。静中将がご不在の内に姫が攫われてしまったんだから、仕方ないですよね」
「可愛い口でずばり詮無きことを言うねえ、紅榴は」
伺うようにちらりと流された視線に悧彰は笑顔で返した。その双眸に動揺の色はない。
華婉麗は攫われた。
幾人もいる身代わりでなく本物が、だ。一人隊を離れ、虎鶫捜索に当たっていた悧彰がその報せを受けたのは令嬢一行が才田に着く予定日のこと、紅榴が知ったのはここへ来てからだ。姫になりきるために彼女を観察しようとしていた紅榴は正直に泡を食った。
いったい、どうやって華婉麗を演じればいいのか。演技の相談をしようにも、一座は一昨日癸苑に発ってしまった。・・・・・・とはいえ、そもそも薔薇香には相談できない。
「やっと紅榴に巡り逢えたのに、姫がいないなんて幸か不幸か判じがたい話だよねえ」
「私に、じゃなくて虎鶫にですよね、静中将」
「おや、そこに突っ掛かってくるってことは多少は脈在りと期待してもいいのかな、紅榴。それと私のことはただ悧彰と、可憐な声で囁いておくれ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
聞かなかったことにした。貴人の名を呼ぶなど出来るべくもない。そもそも紅榴の声は可憐というよりは、鍛えられた鋼のように冴えている。
「ま、婉麗様が大絳国に古くから続く血を継いでいるなら、うまくいくよね」
見た目が変われば、気分も変わるかもしれない。
紅榴は百花繚乱を手にとった。
虎鶫の変装術、いや変身術を目の当たりにした悧彰はらしくもなく目を丸くした。
伝承の世界に迷い込んだような不可思議さがその光景にはあった。
ーーパッと変わった、という表現がしっくりくる。
百花繚乱をつけた紅榴は、その瞬間に華婉麗に変身した。好奇心に満ちた黒曜の瞳は星を散らした瑪瑙の輝きに、少女にしてはやや短く颯爽としていた髪は柔らかで豊潤な黒髪へと変わった。心なしか背丈も縮み、手足も華奢になった。
「どうです?婉麗様に見えますか?」
問いかけは鈴が転がるように澄んだ音色で響く。
「完璧だよ。どこからどう見ても、声音までも婉麗姫だとしか言いようがない。虎鶫が化けるというのは本当だったんだねえ、さすがに驚いたな。紅榴も鏡で確認するかい」
取っ手にまで螺鈿が施された精緻な手鏡を渡されて、恐縮しながら紅榴は鏡面を覗き込んだ。慣れてはいるものの、映る姿が普段と異なることへの違和感を完全には拭えない。
(・・・・・・て、この顔っ)
思わず手鏡を両手で掴んで、鏡面に映った姿を食い入るように見つめた。
「静中将、私、この方にお会いしたことがあるんですけど」
紅榴の驚きとは真逆に、悧彰は淡々と返した。
「へえ。それは才田で見たってことだよねえ」
「破落戸に絡まれているところを助けたんですーーもしかして、疑ってますか」
「私が君を疑うわけないだろう?ただ、道理で私の首が危うくもなく繋がっているなあと思ってね。でなくば今頃華家の護衛と一戦交えているところだ」
キーンと不遜な閃きを言葉に載せて、悧彰は手にしていた剣の柄を鞘に落とした。
鎮めの鳴動が辺りに響いて、部屋を囲っていた気配が音もなく引いていく。
「静中将」
「使役した妖でこちらを探っていただけだ。君に手出しはさせないから安心していいよ」
使役した妖とは人と主従の契約を結んだ物の怪のこと。能力の高い妖とあれば妖道と呼ばれる人には見えぬ道に潜み、あるいは人の影に身を溶け込ませることで、誰にも悟られずに相手の様子を探ることができる。本来は妖が人を襲うために備わる能力だが、暗殺や情報収集など人にとっての利用価値は計り知れない。たとえ使役契約に挑戦して逆に妖に襲われ命を落とす危険があったとしても、将官ならば一度は欲する力だ。
紅榴は浅く息をついた。
侃雫は紅榴が使役している妖だ。栩煖に比べたら妖としてまだ成長途中だが、鏡と鏡を繋ぐ妖道ならば自由に行き来できる。今もこの手鏡の先で聞き耳を立てていて、紅榴の身に何かあれば光の速さで飛んでくるに違いない。だから身の危険など頭になかった。
「心配はいらない。私が君を守るからーー」
返事をしない紅榴を不服に思ったのか、悧彰は念を押すように耳許で囁いた。いつの間にか縮められた距離は、肌に掛かる吐息の流れがわかるほどに近い。
腰に回されそうになった腕に、紅榴は大きく肩を震わせた。
顔色は心なしか青冷め、頬は拒絶のためか引きつった。
咄嗟に突き出した両腕が、悧彰の身体を強く押し退ける。
「守る、なんて簡単に言わないでくださいっ。自分の身は自分で守れます。それに今は私の身なんてかまってる場合じゃないんです」
鬼気迫る紅榴に何かを感じ取ったのか、悧彰は黙って耳を傾けた。
「そんなものはそこいらの川にでも投げ捨てちゃってください。だけど、この件に関するありったけの情報はくださいね。知らなきゃ守れるものも失うことになりますから」
もちろん出来る範囲で構いませんから、と最後に付け足したのは悧彰の立場を考えてのことだ。いくら史書に名を残す虎鶫とはいえ、国権に障ることは許されない。悧彰とて将軍職にある以上、必要を超えた内容を外部に漏らすわけにはいかないだろう。
少女とはいえ紅榴が虎鶫として場数をこなしているのは伊達じゃない。紅榴の言葉には重みがあって、知れず悧彰は能吏の瞳で彼女を眺めていた。
「優しいねえ紅榴は。ではその優しさに甘えようかーー・・・王都までの道すがら、ひょっとすると私は変な独り言を言うかもしれない。けれど優しい君は見逃してくれるよね」
向けられた穏やかな微笑に、紅榴の頬は高揚感で朱が差す。悧彰は暗に、独り言に紛れて情報を流してくれると言っているのだ。
高名な武人に認めてもらえたのかと思うと何だか誇らしくて、そして純粋に嬉しい。
だが、その直後に紅榴は青冷める。
「静中将、ほんっとうにコレに乗るんですよね」
「うん、そうだよ。もっと豪華な方がよかったかな」
二度目の真剣な問いかけに、悧彰はふざけすぎたかと慌てて笑顔で応じた。
紅榴の言うコレ、というのは宿場の前に停まっている軒車のこと。凛々しい馬が自信に充ち満ちた瞳でこちらを見つめている。しかも双眸かけることの五。こんな上等な馬、一頭だってお目に掛かるのは稀である。まして黒塗りに金彩と「華」飾りを過剰なまでに施した軒車とあれば道行く人の目を引く。美的価値云々以前に、金品だろうと命だろうと持っていってくださいと主張しているようなものだ。
「大丈夫かい、顔色が優れないようだけど」
かがみ込んで下から見上げる悧彰に、紅榴は苦い笑顔で応じた。
「心配無用です。前途多難なんて一昨日来やがれってもんですよ」
握る拳は決意の表れ、小さく軋んだ音を立てた。




