序章 深夜の強襲
『そなたは妾の子。よいな、生き延びられぬ言い訳などするでないぞ』
それは単に死ぬな、という脅しだった。
生きろ、ではなく死ぬな。
あの人らしいといえば、あの人らしいが。
あの人、らしい?
場所は深い、暗い、森の一郭。辺りはボンヤリとしていて水の中にいるかのようだった。それでも、凛としたあの声だけは鮮明に鳴り響いている。
・・・・・・あれが、母親なのか。
幼子は落ちゆく闇の中で静かに思った。
深沓を履くほどの土砂降りの中を彼女は闊歩した。後方で不穏な金属音がしたが、振り返る間も惜しい。一歩でも前へと、進める歩を緩めない。
(まさかここまでやりおるとは・・・・・・)
予想していたとはいえ敵の一手は深かった。思い返すだけであの惨状には身が凝る。
ーー静まりかえった闇に、遠雷の光。
報せを受けて戻った邸には門番はおろか給仕の者の姿さえなかった。最悪の事態が脳裏をよぎり、不安が足を動かした。
暗がりの広間を心許ない手燭で灯すと、複数の黒い塊が浮かんできた。鉄臭い、生温かい空気が身体を絡めとる。
ゆっくりと目を伏せ、改めてそれを見、一筋の涙が頬を伝う。
(父、母、それにみなーー)
不自然に床に突き刺さる見知った顔。生気は失せ、赤黒い糊がべったりとこびりついていた。ただ、母だけはしかと目を閉じ、覚悟を決めているようではあったが。
そっと手を伸ばし、愛しげにそれらを懐に招き入れる。深紅の衣が赤黒く染まっていく。
「いい加減にしろ、子どもまで見殺しにするつもりか」
何かに呼び止められるまで幾時経ったのか、身体中が寒さで強張っていた。
(子ども・・・・・・そうだ、自分には子どもがいたはずだ・・・・・・)
茫然自失となっていた意識をかなぐり捨て、手当たり次第邸を探し回った。父と母のこと、何としても二人だけは守り抜いたに違いない。
(・・・・・・どこに隠せば)
思い立って骸を転がし始める。母のあった辺りの床板の隙間に剣の鞘を押し込めた。一枚目を外せばあとは容易い。何枚かが外れたところで闇の中に二対の煌球が浮かんだ。
「ははうぇ・・・・・・」
幼い方が先に声を上げた。よく見ると二人とも床から滴り落ちた血で彼女同様に赤黒い。互いを必死に支え合い、気配を押し殺していたのか震えは芯まで達している。
「ここを離れる。ついてきやれ」
彼女は二人を抱え上げたが、抱き留めることはしなかった。
声にならない悔しさが、腹の底から込み上げてくる。
ふと、外へ視線を向けると雨垂れが地面を突いていた。雷鳴も地響きのように皮膚を揺らす。いつのまにか、春の嵐が街を包みこんでいた。
(この雨はすべてを洗い流すだろう、だがーー)
思いついたことを言葉にしないまま彼女は邸を後にした。
今はただこの芽を守ることが自分の役目である、とーー。