煙草
退屈な授業から抜け出し、数人の友達と一緒にカラオケではしゃぐ学生の姿がある。
花織は、今日も高校三年生の身でありながら、学校を途中で抜け出し、遊びに明け暮れていた。
将来なんて、どうなってもいい。高校はこのままでも、どうにか先生に頼めば、卒業はさせてくれるだろう。卒業後は、今の母のように、水商売に費やせば短時間で大量のお金が貰える。友達とも、ずっと遊んでいける。
毎日、そんな考えの元、日々を過ごしていた。もちろん、花織のその考えを否定する教師や、友人も中にはいたが、家庭環境を告げられると誰もが口を噤む。
花織の産みの親である母は、出産後、病気を患い愛娘の顔を見る事も叶わず、他界。父はその日を境に、精神に異常をきたし、花織を親戚に預け、独り身になると、ギャンブルに走った。
ギャンブルに費やしたお金は、全て母の生命保険の物である事が発覚した頃には、花織は高校生になっていた。親戚の皆は、花織の事を可哀そうと決め付けては、ずっと甘やかし続けていた。
花織自身、自分の境遇に対する折り合いのつけ方が分からず、また、周囲からのいたたまれない視線をはねのける為、暴言を吐いたり、暴力をふるう場面もあった。
親戚はとうとう音を上げ、花織を追い出す決心をし、アパートの一室をあてがった。花織は、飛び上がる程喜んだ。
これで周りの変な気遣いから解放される。反発もしなくて済む。心の底から安堵した。家賃や光熱費は、親戚がずっと払ってくれた。
高校一年生の頃から、そのアパートで一人暮らしを始め、一年程経った頃、大きな環境の変化が訪れた。
父に再婚相手が出来たのだ。父より、まだ十五も年下の年齢であり、花織とは五つしか離れていない、若い女であった。
まさか、あんな父に寄り添う女がいるとは、到底思えなかったので、当初は冗談だと決めつけていたが、その女は図々しく、花織の母親代わりである事を振る舞い、合鍵を使って、勝手にアパートに入り込むようになった。
何でも、娘の一人暮らしはやっぱり心配だからだと言う。
花織には分かっていた。そんな事は、ただの口実であり、血の繋がりの無い母は、愚痴を吐き出す場所を確保したかったのだと。
証拠に、ほぼ毎日花織のアパートに入り込んでは、勝手に煙草を吸い出し、再婚した父の性格や態度、金遣いの荒さについて、小一時間程は話し続ける。
聞いているほうの身としては、正直うんざりする内容の物ばかりであった。早く、離婚しないかと毎日、毎日、横目で話に耳を傾けつつ、適度に相槌を打ちながら思い悩んでいた。
また、母は部屋に上がり込む度、煙草を毎回と言ってよい程吸い続ける。その為、テーブルに置いている灰皿には吸い殻がたまる。口紅がべったりとついたそれを、毎回処分する作業も非常に億劫であった。
「弁護士と相談して、離婚した時の慰謝料について、今すごいもめててさ……」
「ふーん」
テレビを観ながら、くだらない母の愚痴に付き合う。煙草の嫌な臭いもセットだ。また、今日もこれから小一時間は、愚痴を聞き続けるのかと思うと嫌気がさし、こっそりと溜息をついた。
数ヶ月後
担任から呼び出しを食らい、長々と出席日数や今後の将来について、説教を受けた後、家路へと足を進めた。
今日も母は上がり込んでいるだろうか。そうであれば、最悪の一日だと考えにふけながら、アパートに到着した。
ドアを開ける。鍵はかかっていなかった。
(やっぱり……鍵は閉めてほしいんだけど)
毎回、母は上がり込む度に、鍵は閉めずにいる。危険だから、せめて閉めて欲しいとは、何度も懇願してきた。
しかし、水商売で酒を飲み過ぎ、思考回路の一部がおかしいのか、必ずと言っていいほど、鍵はかけてくれない。面倒だからの一点張りであった。
「お母さん?また来たの?」
ドアを開けた瞬間に、むせ返る程の煙草の臭いが花織の鼻を刺激する。その場で、若干むせながらも、部屋にいるであろう母に声をかける。
返事が無い。
いつもなら、気だるげな態度ではあるが、返事の一つは返してくれていた。今日は返してくれない。酒でも飲んで、酔いつぶれているのだろうか。
(ええ。面倒くさいな)
先月、お気に入りの美容師に染めてもらった、茶髪の髪の毛を片手でいじりながら、部屋の中へと足を踏み入れる。リビングに繋がるドアを開けた。
テレビが点いている。何故か音量は最小に絞られているせいか、全く聞こえない。そして、いつもの席に母の姿は無かった。
「あれ?」
頭の中に疑問符が浮かぶ。何故なら、テーブルの上にある灰皿には、まだ火が点いて半分程しか減っていない、吸い殻が残されていたからだ。流石に、煙草を点けたまま、外出するような人ではない。
一気に室内の気温が下がった気がした。思わず身震いする。見渡す限り、母の姿は無い。ベランダにも出て、確認するもやはり見付からない。
「何でどこにもいないんだろ」
そう呟きながら、ベランダから室内へと戻り、窓を閉めた。瞬間、悲鳴を上げそうになる。
花織から見て、左側の斜め後方にはクローゼットがあるが、今は、窓の方を向いている為、必然的に窓ガラスに反射して映る。
そのクローゼットが、少しずつ開かれている事に気付いた。
自分以外の第三者の存在を認識し、声を上げたくなったが、恐怖がその思考を上書きする。
クローゼットから見える手は血まみれであった。徐々に開かれていき、遂に中にいる人物が窓ガラスに映った。
クローゼットを開け放し、中から出てきた人物の姿が目に焼き付く。
右手には、まだ血の乾き切っていない包丁を握り締めている。着ているシャツには、元の色が分からない程、返り血の跡がびっしりと残っていた。
その人物は、久しぶりに娘の姿を見て、満面の笑みを浮かべながら、ゆっくりとした足取りで花織の方へと歩み寄る。
花織はその笑顔を眼にした瞬間、胸の中にあった、わだかまりの正体に気付いた。
(そういえば、煙草の吸殻に、口紅ついて無かったな。何で気付かなかったんだろう)
煙草の臭いに紛れた、鉄の臭いに今更ながら気づく。窓ガラスに反射し、自分目掛けて振り下ろされる包丁を、ただただ、見つめる事しか出来なかった。