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5.

 僕らが新しい名前を得てからもうすぐ十年が経つ。

 僕は遺伝子工学関係の大学院生。ニナ――――仁奈はファッションデザイナーを目指して、デザイナーの助手のようなことをしている。

 仁奈がファッションに没頭するのは早かった。僕にはイマイチ分からない感覚だが、没頭する彼女は輝かしく見えた。

 僕は、反対にというか、いつも通りと言うか、何がやりたいのか何カ月も悩んだ。けど、やはり頭でチラついているのは、やはりあの労働場。僕の何が悪くてあんな所に入れられていたのか。外に出てから湧き上がるふつふつとした怒りが頭から離れてくれない。

 遺伝子は人間の設計図であり、逆らう事は出来ない。そう言われているが、本当にそうなのだろうか。例えばレン。彼は確かに直情的な所があるが、それでも面倒見がよく頼れる兄貴肌だ。悪人と一言でくくりつける事は僕にはできない。彼を見捨てた負い目かもしれないが、頻繁にそう考えてしまう。

 それに、外の世界にも、柄の悪い人やあくどい人は少なくない数いた。

 最初に僕が遺伝子を学ぼうと考えたのは、反逆の為だ。遺伝子だけですべてを決められる世界に対する反逆。僕らは自分の意識で悪人にも善人にもなりうることを、証明したい。

 しかし、ただ反抗的な考えから研究をしているわけではない。学ぶ事、研究、未知の解明、僕は自分でも 今行っている事が楽しくもある。新事実の発見の喜びは、何ものにも変えられない。

そのために大学で学んでいるわけだが、やはり身受け人とお金が必要だった。身受け人に関しては市民IDを渡してくれた男がなってくれた。理由は聞いても教えてくれなかった。あまり気乗りはしなかったが、他に手も無いので受け入れた。お金はあの男に識別証を渡した時に、それなりの額をもらった。識別証はかなり高価なものなのだろう。

 その他の稼ぎはもっぱら仁奈だ。僕は月に数万円程度バイトで稼いでいるだけの、半ヒモ状態。といっても、僕は奨学金や特待生としての授業料一部免除もあり、大学に通っている身としてはあまりお金がかかっていない方だから仁奈への負担も少ない。たぶん。

 ちなみに、彼女が買った(本当は僕が買ってやりたかったがいつの間にか買ってきた)安物のペアの指輪を付けているが、まだ籍は入れていないので同棲である。籍は僕が大学を出てからと言う事に決めた。彼女曰く「うーーんっと綺麗なウエディングドレスを着たいから稼げ」だ。

結婚がまだだからといっても、大学生活もあと一年。結婚も近い。(仁奈からしたら遠いのかも?)大学を出たらキリキリと働かなくてはならない。そして働き口も遺伝子工学関連にするつもりだ。だからこの大学生活中に学べる事はできる限り多く学んでおく必要がある。

 頑張らなくては。今の僕はやりたい事をやっているのだから。




 

「これからも頑張ってくれ。応援しているぞ」

 そして、大学では僕の研究を支援してくれている人もいる。直接金銭的な支援は法律上無理なのだが、この人は僕の研究に大学からお金が下りてきやすくなるように、大学へ声をかけてくれている。

 僕はお礼を言って、目の前の壮年の男、目黒総一を見送る。服装や髪形は整えられ、話をすると要点を分かり易く話すことも、僕の意図を掴むことも簡単にやってのけるので、僕の中では仕事のできる男という印象が強い。実際に中規模だが遺伝子研究所の所長をやっているので、頭の切れる人だということは間違いない。

 彼の見た目は四十歳ほどだが、実年齢は七十歳を超えていると聞いた。現代の社会では、ほとんどの人が二十代で体の変化を止める手術を行う。目黒さんは、上に立つ者の貫録を作るためにその手術を遅らせたらしい。政治家によくあることだ。

 僕はまだその手術をしていない。仁奈に激しく止められているからだ。童顔を変えろ、と言うことかもしれない。まだ僕も若い方だし、そんなに気にはしてはいないが、早く仁奈から許可を得たいものだ。


 僕は目黒さんが立ち去った後、時計を見ると、もう次の実験にとりかからなければならない時間が来ていた。茶菓子の片づけは後にして、僕は実験資料にさっと目を通し、これからの実験の手順をおさらいして実験室に向かった。

 今日の実験はラットの遺伝子解析だ。ラットにも「善悪の遺伝子」は存在する事は既に実証されている。 今回は、まず十匹のラットの善悪を把握し、悪の遺伝子を持つラットの身に薬品投与等を行い、悪の遺伝子の変化を試みる。遺伝子の変化を起こす事は可能であるが、その場合善悪の遺伝子の変化で無い場合や、癌化の可能性が九十パーセントを越える極めて高い危険度をはらむなど、悪の遺伝子を制御するには程遠い。目指す所は、例え悪の遺伝子を保有していたとしても、それが表に現れず沈黙させるため、抑制剤を作り上げることだ。

 悪の遺伝子は遺伝的に優性である。劣性である善の遺伝子を持つ人を主軸とする今の社会では、いずれ不具合が生じる可能性が高い。しかし、例えいびつでも一度出来上がってしまった社会を変革する事は並大抵のことではない。ならば、僕は悪の遺伝子を持つ人も善の遺伝子を持つ人と同じように生活できるような、何かを作り上げる、今ではそう思って研究している。


 実験室に入り、まず必要な実験器具を出し、遺伝子分析器の電源を付け、ラットの毛を分析器にかけた。

 分析結果が出るまでには数十分かかる。機械が動き出し、正常に稼働しているのを確認して、僕は目黒さんに出したカップと茶菓子を片付けに戻った。

 茶菓子は棚にしまい、カップを洗う。カップにはまだ紅茶の匂いが残っていた。こんなに香りの強い紅茶だったかな。そう思いながらカップに手をかけると、カップの中は一本の髪の毛が入っていた事に気が付いた。基本黒いが、根元が白く、目黒さんのものだとすぐに分かった。

「‥‥‥」

 ごくりと無意識に唾を飲み込んでいた。

 好奇心と危険な誘惑が前振りも無く僕に襲いかかった。

 そう。この髪の毛を遺伝子分析器にかけてみたい、と。僕らを暗闇に押し込めた善人と言われる遺伝子が 一体どれほどの物なのか自らの目で見てみたかった。

 こんな誘惑な何度もあったが、僕はまだ人の遺伝子の解析はやった事が無い。僕自身の遺伝子何てもっての外だ。僕が逃亡者だといっているようなデータを形にするなんて馬鹿げている。

 人の遺伝子分析も多分機械は対応してくれる。人の遺伝子を解析するには、今では特殊な資格が必要なの だが、遺伝子分析のための費用や実験用品の使用なども一度程度なら誤魔化せる。やれないことはない。

 しかし、今日の誘惑はどことなく甘美な香りを漂わせていた。思考が麻痺していく感覚がある。してはならないとこだ、と振りきれない。

 僕はその髪の毛を手に実験室に入ってしまった。

 自分の中で矛盾しているのがよく分かる。やるべきではないと言いながらも、僕の手は慣れた手つきで実験の準備を進めている。かつて自分で「保身型だから」と自分を卑下していた男とは思えない行動だ。自覚はある。しかし、止められなかった。

 そして、僕の中の葛藤が蹴りを付ける前に、僕は分析器を稼働させてしまった。


 実験室で結果を待っていたら、まずラットの遺伝子の分析結果が出た。僕は結果を印刷し、ノートにメモをとった。いつの間にか僕は、この実験を後回しにする気になっていた。

 目黒さんの遺伝子解析結果を待つ。時間はあっという間に流れた。

 結果が表示され、僕はそれを自分のパソコンに転送し、データバンクを開いて、何と一致しているか照らし合わせた。


「‥‥‥目黒さんが、『悪人』?」


 自分の目を疑った。もう一度、結果との照合をやり直した。

 結果は同じだった。

「‥‥‥本当、なのか」

 体の力が一気に抜けた。

 僕は一体何をしているんだ。急に吐き気が体を襲った。自分のしたこととその結果が恐ろしくなった。

 僕はすぐにそのデータを自分のUSB端末にしまい、履歴を消した。

 同じ研究室の同輩に気分が悪くなったから相対する旨を告げて、僕は早足で帰路についた。



 帰り道の事は全く記憶にない。バッグを大事に抱えた記憶しかない。汗の粘つきが気持ち悪い。

 家に帰っても、まだ仁奈はいなかった。良かった。大きく息を吐いた。

 直ぐにパソコンを起動し、持って帰ったデータを表示させた。

 一体どういう事だ。

 自分の目を疑ってならない。しかし何度見返しても結果は変わらない。

 まさか遺伝子分析したのは目黒さんの髪の毛ではなく、僕の物だったのではないかと、一瞬ほっとした。 しかし、そんなことはない。機械にかけた髪の毛は根元が白色になっていたが濃い黒色が基調だった。僕の髪の毛は白髪なんてないし、そもそも地毛が茶色がかっている。髪質だって全く違った。僕の物ではない。

 なら考えられる可能性は、目黒さんか、同じ研究室のメンバーの髪の毛が部屋の中で舞ってカップに入った可能性だ。


 ――――どちらにしても問題だ。


「えっと、つまり、僕と同じように労働場から抜け出した人が近くにいると言う事か。‥‥‥誰が‥‥‥いや、一人、なのか‥‥‥」

 背筋に悪寒が走った。

 僕ら以外にもあの労働場から逃走している人がいるかもしれないとは、すこしは考えた事もある。しかし、こんなに身近にいるとは考えもしなかった。こんなにも身近にいるとなると、逃げた人はもしかして各地に多数いるのではないかと思ってしまう。考え過ぎであってほしい。

 そんな事があってしまうなら、この社会は一体何だと言うのだ!

 生まれてすぐに施設に押し込まれて、決められた事を淡々とこなす。遺伝子の問題だと言い聞かされて、 真っ暗な人生を送らされてきた意味が分からなくなる。社会の中では悪の遺伝子を持ち人がうようよといるのなら、僕らは何のために閉じ込められていたんだ!

 隔離される意味なんて無いじゃないか!

 感情が抑えられなくなっていた僕の耳に、携帯電話が鳴ったのが聞こえた。仁奈からだった。『今日は早く帰れそうなり。陸も早く帰るなり』、と謎の語尾と絵文字付きでメールが送られてきた。

 それを見て、小さな笑いがこぼれた。幾分冷静になれた。


「仁奈‥‥‥」

 最愛の人の名が口からこぼれてくると同時に、十年前の逃亡の日の記憶もこぼれ出した。

 監査官に逃げ方を教えてもらったと言った時の仁奈が頭にこびりつく。

 よくよく考えたらおかしな話だ。どんな取引をしたのか知らないけど、監査官が逃げ方を教えるはずがない。

 じゃあ、仁奈はどうやって逃げ方を知ったんだ。

 蓋をしていた記憶から、様々な場景が思い出される。

 あの日のことは僕にしても仁奈にしても話に上げる事はタブーとしていた。

「仁奈に会わないと」

 もう目を背けられない。気が付いてしまった以上、聞かなければ、僕は仁奈の目を見る事は出来なくなると思う。仁奈が怖く思えそうだ。そんなのは嫌だ。

 僕は携帯電話を使い、仁奈に『僕はもう帰っているよ。早くね。ご飯の準備をして待っている』と震える指でメッセージを送った。

 今日はやけに暑く感じる。鼓動が速い。

 落ち着かせるために冷たい飲み物を勢いよく飲んだ。落ち着かない。冷房を付けても汗は引かない。

 仁奈に会うのが怖いと思ったのはこれが初めてだ。

 




 扉が開き、ただいまー、と快活な声が部屋の中に響いた。

 僕も、おかえり、と返事をした。声が震えなかった事にほっとする。平常心を保て、と自分に言い聞かせて、仁奈を呼ぶ。

 腰の中程まで髪を伸ばし、化粧を施している仁奈は、当たり前に子どもの時と比べて綺麗になっている。肉体の変化はまだ止めていない。きっと彼女の魅力は歳を重ねるごとに増してくると思う。

 その綺麗な彼女が今は恐ろしく見える。

「今日の晩ご飯なにー? お、イワシじゃん。美味しそう! 早く食べよっか。あとビール!」

「早く食べるのは賛成だけど、今日はデザートがありません」

「えー、なんでー」

「大事な話があるんだ」

「‥‥ふーん。まあいっか。」


 いただきます、と食事を始める僕らは珍しく会話が少ない。

 かちゃかちゃと食器の音だけが聞こえ、料理の味が一切に感じ取れない。

 陸、と僕の名を呼ぶ仁奈の声に、心臓が大きく跳ねた。

「隠し事あるでしょ。‥‥‥もしかしてレンのこと?」

「レンって、労働場の? なんでレンの名前が出てくるんだ?」

「あ、違うの。そっか。‥‥‥なら浮気でもしたの?」

「‥‥‥へ?」

 殺気漂う仁奈とは対照的に、僕の反応は何とも間抜けだった。

「今日の陸おかしい。絶対おかしいから! さあ言いなさい。隠し事があるんでしょ!? まさか浮気!?」

「ないよ。浮気なんてしてない!」

「そ、そう。浮気だったら陸を海に沈める所だった。よかった。なら、何を隠しているの!? 早く言いなさい!」

 僕の緊張は、言っている事は怖いけど、仁奈のそのコロコロと変わる表情に少しほどけた。

「僕は仁奈のことが大好きだから裏切るような事は絶対にしない」

 昔なら気恥ずかしくて言えなかっただろう。成長か、若さが無くなったのか知らないが、昔と今ではやっぱり違うなあと実感できる。

 仁奈も照れ臭そうに、「そ、そう? ならいいんだけど」と言う。僕までつられて照れてしまうではないか。

 僕は箸を置き、一度深呼吸し、真剣に彼女と向かい合う。

「十年前の事を、聞きたい」

「‥‥‥」

仁奈の表情がこわばる。聞かれたくないのだ。しかし、今日は引けない。引いてしまえば、僕は二度と仁奈と心を通わす事が出来なくなりそうだ。それが一番怖い。

「あの日、仁奈は施設から逃げ出すための全てをしてくれた。本当に感謝している。言葉に表せられないほどの感謝がある。それに嬉しかった。危険でも僕を連れて行ってくれた事が。僕と一緒にいたいと思ってくれた事が。」

 僕はもう一度深呼吸をする。ここからは、僕達が初めて話し合う内容だ。仁奈には絶対にこの話題に関して地雷がある。彼女から上手く聞き出さなければならない。自信は無いが、やるしかない。ぶつかれ!

「けど、知らないといけない事を僕はあえて無視した。そっちの方が都合が良いから。けど、今日、聞かなければならないと思わされる出来事があったんだ。聞かせてほしい。君はどうやって監査官から情報を仕入れたのか。どうやって外部と連絡を取って市民IDを用意させたのか。君はあの日、これ以上聞くなと言った。だけど、教えてほしい。そうしないと、また僕はあの、労働場と同じ暗闇に落ちそうなんだ。お願いだ。教えてくれ」

「‥‥‥」

 本心を嘘偽りなく語った。それは仁奈を困惑させている。僕が疑問を持った事か、それとも伝えるべきか 否か、なんにせよ何に関して困惑しているのか僕には分からない。ただ、彼女は真剣に考えてくれている事だけは分かる。

 僕は仁奈の答えを静かに待った。


「‥‥‥ごめんなさい。言えない」


 なんで! 叫びたい衝動を抑えて、僕は仁奈に尋ねた。

「言えない理由も聞かせてもらえないのか?」

「‥‥‥ごめんなさい」

 ぎりっ、と何かの擦れる音がした。僕の歯ぎしりだった。

「私は、陸に、軽蔑されたく、ないっ、から!」

 そんな声は聞いた事が無い。仁奈のそんな声は、一度だって聞いた事が無い。

 どんな感情を乗せてその怒声のような慟哭のような声をだしているんだ?

 僕にはそれが分からない。

 僕の怒りはどこかに飛んで、仁奈のその声と表情に戸惑っていた。

「僕は、仁奈を嫌いになったりしない」

「私だって信じている!! 信じているよ‥‥‥。だから怖い。怖くて、たまらないっ!」

僕はそれ以上何も言えなかった。彼女の涙は僕の疑問よりも何倍も秘められた想いがあると感じ取れた。

「お願い。この話は無かった事にして。お願い‥‥‥」

 かすれた声で懇願する仁奈の様子は、きっと僕が弱くしてしまったからなのだろう。僕が彼女を弱くさせてしまった。

 僕は仁奈のパートナーであると同時に、いつの間にか酷い重石になっていたのか? 

 いや、もしかしたらあの日から、ずっと重石だったかもしれない。

 顔をくしゃくしゃにしてすすり泣く彼女に、もう僕は何も聞けなかった。



 今日のベッドはやけに冷たく感じた。






7.

 目が覚めると、仁奈はもう家を出ていた。

 何も言わずに出て行かれたのは初めての事だ。部屋の中が広く感じられた。不思議な気分だ。もちろん悪い意味で、だ。

 仁奈を怒らせてしまったのだろうか。悲しませてしまったのだろうか。苦しませてしまったのだろうか。

 昨日は正直に言って、僕の何が悪かったのか、自分では良く分からない。

 聞き方も悪かったのかもしれないが、聞くこと自体が悪かったように思えてならない。もう仁奈には聞けない。彼女に二度とあんな表情をさせてはならない。

 しかし、僕も引き下がるわけにはいかない。

なら、別の方法を使うしかない。当時の監査官を調べ上げるか、僕達に市民IDを用意したあの男の元を尋ねるしかない。

「まずは監査官を調べるか」

 あの男の元には極力行きたくはない。犯罪臭が強すぎる。人の事は言えないけども。

 研究室の教授には体調不良と嘘をついて休む事を告げた。仮病なんて初めての事だ。もう使いたくは無いものだ。

 身支度をして、僕は近場の県立図書館に向かった。可能性は低いが、当時の職員名簿があれば恩の字だ。 名簿が無くても、施設の当時の所長の名前くらいはどこかに記されているだろう。

 これは仁奈に対する裏切りかもしれないという想いは抱いている。けれども、彼女を愛し抜くためには、 この疑問を取り除かなければならない。

 僕は、これは裏切りではないと自分に言い聞かせながら、図書館に入った。

 浮気を疑う旦那はこんな気持ちなのかもしれない。信じたいがために疑ってしまう。

 ただし、僕の場合は浮気の心配はしていない。



 結論から言おう。何も分からなかった。無駄足だ。

 当時の施設の名簿どころか、所長の名前も分からない。僕は意図的にあの施設の事を調べる事をしなかったが、どうやら一般的には「触れてはならないもの」のようだ。情報がほとんどない。おそらく調べ方を変えても、結果は変わらないだろう

 ならば、

「あの男の所に行くしかないか」

 気乗りはしない。

 そもそもまだ十年前と同じ場所にいるのか、それすら知らない。仁奈がやっていた独特なリズムのノックも覚えていない。あれで合図を送っていたようだが、分からないとなると、部屋の中に入れさせてもらえない可能性が非常に高い。

 首を傾げ、考えてみるが、妙案は一切浮かんでこない。既に手詰まりか。

 時計を見ると、もう昼食時を大幅に過ぎていた。

 昼食を食べる事にしようと思い、近場のチェーン店のカフェに入った。昼時が過ぎていても、店の中には それなりに人がいた。七割くらいの席が埋まっている。

 僕はサンドイッチとコーヒーを頼み、席に座る。携帯端末を用いて、十年前のあの男の住所を調べながら、食事を始める。

 詳しい事は覚えていないが、頭からひねり出して、それらしいキーワードで検索する。

 検索結果にはそれらしい情報が一切表示されなかった。ネット地図で周囲を見渡してみても、その付近の情報はあまりのっていない。そして電池切れか、携帯端末の画面は真っ暗になった。

「ダメか‥‥‥」

 しかし、もうあの男以外に手がかりは思い浮かばない。調査するにしてもとっかかりが無さ過ぎる。他の 手を考えて後日調査し直すか。それとも、仁奈も拒絶している事だし、もう調査まがいな事をするのをやめるべきか?

 頭を抱えていると、後ろからとても懐かしい、ここで聞けるとは思えなかった人の声が聞こえた。

「悩んでいるようだな。リク」

「‥‥‥え?」

「どうした、そんなお化けでも見るようなかをして。それにしても成長したな。こんなにでかくなるとは十年前には全く思わなかったぜ」

「レン!」

「おう!」

 目の前の友人は昔と変わらない笑みで僕の後ろの席に座っていた。少し老けているけど、間違いなくレンだ。声も顔も、その纏う空気もレンに違いない。

「どうして!?」

 レンは労働場にいるはず。僕が、あの日、見捨てたのだから。

「久々に会って言う事がソレか? 感慨深い再開ってのは出来ないのか」

「だって、君は――――」

「おっと、ここで話すのもなんだ。外に出ようぜ。お、サンドイッチもらい」

 驚きのあまり頭が真っ白になった僕は、ひとまず彼に付いて店を出た。


 レンは迷いなく早足で裏路地に入って行った。僕もそれについて行くが、あまり裏路地に入る事が無いので、落ち着かず、きょろきょろとあたりを見渡してしまっている。

「こっちだ」

 とレンは僕をマンホールの中に促す。下水道か。ちょっとした既視感に襲われた。

「さて、もう話せる、が、リク、お前に一つ聞いておかないとならない事がある。不老手術は、もう、受けてしまったか?」

 レンにしては緊張感のある声だった。何か重要な意味が込められているように感じた。

「いや、受けていないよ。仁奈が受けさせてくれないんだ」

「そうか、それは良かった。本当に良かった」

 レンは両手で僕の肩を力強く掴み、呟いた。

「で、一体どういう事なんだ? 全部説明してくれ」

「ああ、分かっている。直ぐにするつもりだ。だけど、まずは隠れ家に向かう」

「隠れ家? ‥‥‥何から隠れているんだ? あ、そうか。警察機構に見つかったらまた労働場に入れられるしね」

 レンはその問いには何も答えず、何も言わず歩いて行く。全て隠れ家とやらで話してくれるのだろう、と僕は彼を信じての後ろを歩く。


 数分進むと、レンは下水道の横壁を撫でだした。隠し扉だろうと予想は付くが奇妙な光景だ。

 レンの手を止まると、かざしている所から機械的な光が放射された。指紋認証なのだろう。

 その光が消えると、ほとんど音を立てずに通路が下層に繋がる扉となって開いた。

 感嘆の声が漏れた。まるでスパイ映画か何かだ。

「さあ入れ」レンに誘導に従って、僕は下に続く階段に足をかけた。匂いは下水道と変わらない。酷く臭い。鼻が悲鳴を上げている。

入ると扉は閉まり、ただの床に戻ると、突然、蛍光灯が点灯した。センサー式なのだろう。下りきって前方を見ると、ここは部屋ではなく、まだ道であること知った。それにしても下水道の中にこんな物を作っていいものなのか、と不安混じりの視線をレンに送る。

「さあ感動の再会だ! 来い!」

 そう叫んで、レンは両手を大きく広げた。

「‥‥なにしているんだ?」

「再開のハグだ!」

「拒否!」

「強制!」

 レンは無理矢理僕の体を抱き締めた。やめろ、加齢臭が漂っている。曲がりかけの鼻でも分かるぞ。

「大きくなったなあ。まさかこんなに成長するなんて。それに大学院に通っているんだろ。すげえな! お前がそんなに賢いなんて夢にも思わなかったぞ」

「わかった。わかったから離せ」

「そんなに照れんなよ」

「照れてなんかない。暑苦しいんだ」

「仕方ねえな」

 そう言ってようやくレンは僕を解放してくれた。照れで拒否していたのではない。負い目だ――――。

「積もる話もあるが、とりあえず隠れ家はまだ先だから、行こうぜ」

 僕はレンの背中に問う

「もう聞いてもいいか?」

「ああ、もうここからは安全だ。さっきは監視カメラとかの妨害電波を出していたら、直ぐに抜け出したかった。今なら何でも聞け」

 僕は大きく息を吸い、

「なんでレンがここにいるの!? 労働場から抜け出したの!? レンだけ!? 他の人も抜け出したの!? けどニュースにもなってないよ!? どういうこと!? けど良かった! 元気そうで! それで今は何しているの!? なんで僕の居場所が――――」

「ストーーーップ! 一気に聞き過ぎ。順を追って説明してやるから。というかお前そんな饒舌キャラだっけ?」

「十年もあればいろいろ変わるし、突然現れたレンが主な原因だ」

「そうか。まあ順を追って話してやるから、そう興奮するな。部屋に行けお茶もある。長い話になるから、そこでゆっくり話そう」

 わかった、と僕ははやる気持ちを抑えて彼らしからぬ穏やかな言葉に従った。


 奥に進み、扉を生体認証でリクが開くと、中は十畳以上の広いワンルームだった。家具は最低限のもの無く、机と二つの椅子、それにキッチンと食器棚しかない。生活感は感じられないが、埃っぽくないので手入れはされているようだ。

 視界の端に階段が映った。下る階段だ。まだ部屋はあるようだ。

 広いと感心し、次にどうやってこんな所を作り上げたのか疑惑が沸き、何のために、とレンが得体のしれない人物に見えた。

「まあ、座れ。茶を入れてやる。安物の紅茶だけど、文句はつけてくれるなよ」

「文句なんか付けないよ。紅茶の良し悪しが分かるほど、上品な舌は持ち合せてないからね」

 意識的か、そうでないかは曖昧だが、緊張を誤魔化そうとしているのが自分でも分かった。

 レンが紅茶を注ぎ、もう一つの椅子に座った。正面に座られると、レンが実物より大きく見えた。たぶん 僕が怖気づいているせいだと思う。

「さて、レンの質問に応えないといけねえな。まずは、どうして俺がここにいるか、だっけ? そんなもん答えは決まっているだろ。労働場から出てきたからだ」

 さも当たり前のように告げられたその言葉は、予想できなかった事ではないが、実際に聞いてみると、息をのみ込んでいた。

「やっぱり、レンも抜け出す事が出来たんだね。僕と同じように‥‥‥。僕はレンに謝らないといけない。十年前のあの日、僕は君を置いて出て行ってしまった。すまない。あの時は僕も必死だった。君に配慮する余裕が無かった。‥‥‥けど、振り返ってみると、後悔している。あの日、君を置いて行った事を。僕は、君を、あの環境の中で唯一、友達だと思っていたのに‥‥‥。僕が抜け出した後も君を助けに行かなかったことも‥‥‥。本当に、申し訳なかった」

 感情がこぼれた。ほとんど無意識で懺悔を求めていた。自分でも何を言ったのかよく覚えていない。想っていた事を勝手に口が言葉にした感じだ。だけど、そこには偽りの感情なんてもの乗せていない。本心で、レンに謝りたかった。それだけは本当だ。

 レンは苦笑いを浮かべ、困ったように頭を掻きながら、

「おまえが謝る必要なんて、これっぽっちも無い。気にするな」

「けど!」

「むしろ謝るべきは俺の方だ」

「なんでレンが謝るのさ! 僕が――――」

「まあ話を聞け」

 静かなレンの声に、僕は黙る他なかった。

「長い話だ。何から話すべきか、俺にも正解が分からない。それでも一個一個、きちんとお前に話さないといけないと思っている。そしてお前もそれを聞く必要がある。ニナの愛を受けているお前は聞かなければならない。」

 最後の言葉の意味を僕は聞きたかったけど、それでは話が進まないと思い、僕は理性でレンの話の続きを促した。


「第一に俺は悪人として労働場に入れられたわけではない。自らあそこに逃げ込んだのさ」

「‥‥‥どういうことだ?」

「それを語るには、俺の生い立ちについて話さなきゃならねえ。‥‥‥俺は被検体だった。不老化実験の被検体だ。当時はまだ不老化技術が完成していなくてな、モルモットでは成功しても人での成功が断言できなかった。そんな背景があり、俺は誘拐され裏で人体実験を受けさせられた。成功すれば表世界へ、失敗すれば死体は海の藻屑にされる予定だった。しかし、俺は成功した。いや、成功してしまった。あの時、死んでいられたら良かったのかもしれない」

「ま、待ってくれ。不老化技術の完成はもう百年以上前の話だぞ。そうするとレン、君は‥‥‥。いや、そもそも君は歳をとっているじゃないか。出鱈目だ」

「いや、お前の想像通りだ。俺はもう百年以上前にこの世に生まれている。ただ当時の完成したての不老化技術は百年程しか持たなくてな。百年を過ぎたあたりから、再び歳を取り出した。あの時は俺も驚いたぜ。二度目の不老化手術はテロメアってやつの状態の問題でできないらしいから、諦めて歳をくらっている」

 軽い口調のレンの言葉は、僕には重すぎた。

 見た目が一回り年上の友人が、実は遙かに百歳以上年上だなんて誰が考えつくものか。疑いの眼差しを向けたのは仕方がないだろう。

「嘘じゃねえぞ。これマジなやつだから。証拠を示してやることはできないが、本当の話だ」

「つまり、証拠も無しにそんなフィクションみたいな話を信じろと?」

「そうだ」

「無理だ。そもそも労働場にいるものは不老化手術を受けさせてもらえない」

 金銭の問題なのか、あの施設の人は手術を受けさせてもらえずに、老いと戦いながら生きている。その戦いはもしかしたら普通の事かもしれないが、隣に不老者がいると、とたん惨めな戦いに思えてならない。

 レンは僕の言葉に首を横に振った。

「それは違う。順に話そう。まず、俺は不老化手術を受けた。その当時まだ労働場と言う物は存在しなかった。あそこは国民のほとんどが不老化してから作られた施設だ。だから例え、俺が労働場にいても不老化手術を受けた事と矛盾はしない」

「な、なるほど。それなら‥‥‥」


「って言っても、労働場にいるから手術が受けられないという理屈は出まかせだけどな」


「は?」何を言っているのか、僕は耳を疑った。

「逆なんだよ。逆。不老化手術に適応しない体質の人をあの施設に閉じ込めたのさ。『悪の遺伝子保有者』を銘打って」

「‥‥‥そんなこと、何の意味がある。別に不老化手術が出来なくとも‥‥‥」

「そうだ。本来ならば、不老化できなくても、それで社会から拒絶されるのはおかしい。しかし、不老化手術は、同時に脳内にあるものを入れこんでいた。そのあるものが国の大きな目的でもある。それを入れこむ事が出来ないがために、不老化できない人々は隔離された」

「その、あるもの、っていうのは?」

 唾を飲みこむ音がとても大きく感じられた。心臓もうるさくてたまらない。頭がこんがらがってたまらないが、真剣な眼差しのレンの言葉に僕は必死に耳を傾ける。


「チップだ。脳波を操るためのチップ。国は国民を道具としてしか見ていない。脳波を操る事で、思想も行動も思い通りにしている」


「‥‥‥本当の話なのか?」

「思ったよりも冷静だな。もっと驚く者だと思っていたが」

「いや、それは気のせいだ。かなり困惑している。もし冷静に見えているのなら、僕がそもそも、国を信じていないからなのかもしれない。それで、その話は本当なんだな?」

「ああ、本当だ」

 言われてみれば、自覚する。僕のこの動悸は困惑や焦り等ではない、むしろ新たな事実に興奮している節がある。

「続けてくれ」



「何十年も前から、脳内のチップで国民は無意識下で操られている。あたかも自分の考えで動いているかのように、国のトップに行動を決められている。そしてチップを埋め込んでいない人達は労働場に隔離されている。チップは不老化手術と同時に行わないと、理屈は良く分からないが、拒絶反応がひどいらしくてな。だから、手術に適応しない人はチップを埋め込めないから隔離された。

 その際『悪の遺伝子』と銘打った。まあ実際に存在する遺伝子なのだが、今となっては、どうでもいいことだ。その遺伝子を持つ人間が、罪を犯しやすい傾向にあるのは確かだが、犯罪なんてそんな遺伝子持っていない奴だって起こす。生まれた時の遺伝子より、その後の成長が重要なんだ。かつては、それが当たり前だった。

 しかし、操つる奴らと操られた奴らが、無茶な考えを社会に上付けやがった。それが「悪の遺伝子保有者は社会のゴミ」という今の社会の常識だ。そして、もう操られていない人間はほとんどいない。この常識は覆らない。

 俺と仲間達は、不老化がまだ実験段階だった事もあり、チップを埋め込まれずに手術を受けた。そしてチップの事実を知り、逃げ出した。労働増の中に紛れ込んだのは、外の社会より監視の目が緩いからだ。外はどこでも機械による監視をうけているからな。そして施設の中で力を蓄えながら、反逆の機会をてらっていた。だが、それも失敗した」


 レンは過去の話を止まらずに語り続けた。僕はそれを黙って聞いていたが、レンの視線はゆっくりと下に落ちていき、もう僕の目を見ていない。どこか哀愁が漂っていた。


「失敗した? 労働場の人達がいるだろ。この国の総人口の三割程度が各地に散らばる施設にいる。彼らと共に立ち上がれば、その操る側の奴らをどうにかできるかもしれない」

「無理なんだ、もう遅い‥‥‥」

 どうして、と僕は何も考えずに疑問を口にした。

「施設の人間は全員、死んだ。全ての施設で、ほぼ全ての人がだ。生き残れたのは百人といない」

「は? 何を言っているんだ」

 返ってきた言葉は、きっと嘘なのだと思った。しかし、レンは暗い面持ちで語り続ける。その表情が話に真実味を加えていた。


「軍人が操られた。施設は集中砲火を受け、壊滅だ。俺は外と連絡を取っていたが、そんな情報は得る事が出来なかった」

「‥‥‥」

「それは、なぜか。監視させていた国のトップが動いたわけではなかったからだ。今回の一件の首謀者はニナだ。あいつは俺達の作戦を利用して、国民の洗脳装置を奪いやがった」

 何故その名が出てくるんだ。

「お前の恋人が、何百万人の人々の命を無慈悲に奪った」

「おい、くだらない冗談はやめろよ」

 気付けば、僕は立ちあがってレンの胸倉をつかんでいた。

「冗談ではない。お前はあいつの事を知らなさすぎるんだ」

「知っているよ! 仁奈が好きなことも嫌いな事も。カレーやジャズが好きで、ダンスが得意で、乗り物に弱くて、――――」

 僕の反論は、まるで子どものそれだ。焦って、無駄な言葉ばかり重ねていた。知っておくべき事はもっと他にある。僕は図星を突かれていただけだ。


 そんな僕にレンの言葉は容赦が無かった。

「なら問うが、お前はニナが俺と同じ、不老化実験の元被験者だと言う事は知っているか?」

「え‥‥‥?」

「やはり聞かされていなかったか。ニナは俺と同じで百歳をとうの昔に超えている。今は不老化の効果が切れ、普通人のように成長し、老いている。そして、仲間だった俺達を裏切った女だ」

「裏切った‥‥‥?」

「そう、裏切りだ。‥‥‥何から話すかな。‥‥‥俺達の不老化が切れたのがだいたい二十年前だ。徐々に成長していく体に恐怖を感じていた。ちょうど同じころに、チップの制御塔への侵入方法を施設の外にいた仲間が見つけた。俺達は動き出す事を決めた。

 最初に労働場から抜け出した。これは簡単だった。ニナと仲間が喧嘩をしている風を装って、監査官をおびき出し、IDやパスワードを奪った。お前も喧嘩は見ていただろ?」

「それは、覚えている。あ、‥‥え、まさか、そんな時から‥‥‥。けど、奪ったってどうやって? 盗んでもすぐにIDを変えられるだけじゃないか?」


 まさか仁奈を初めてみた時から、もう仁奈は裏で多くの活動をしていたなんて思いたくなかったが、僕は気持ちを切り替える。

 今重要なのは、そこではなく、全ての流れを掴むことが重要なんだ。無理矢理自分に言い聞かせた。


「ハッキングだよ。お前は気が付かなかっただろうが、あの監査官は全員ロボットだぜ」

「それは、気が付かなかった。けど、そこまで驚きはしない。監査官は感情も表情も変化を見た事なくて、薄気味悪かったから、むしろ納得がいった」

「納得してもらって何よりだ。そして、奪った監査官の権限を利用して俺達は識別証を解除した。その時、お前が俺達のかつての仲間の息子という事実と共に、お前の存在を知った」

「な、かま? むすこ? 僕の、親は生きているのか‥‥‥?」

親には悪の遺伝子のせいで、捨てられたと思い込んでいた。まさかそれも違うのか?

「いや、お前を生んで少しして死んだ。爆撃を受けた。俺達もお前は親と共に死んでしまったのだと思い込んでいた。驚いたよ。あんな所で生きていたなんて」

「‥‥‥そうか。そうだったのか」

 嬉しかった。僕は捨てられていなかった。両親が生きていなくても、その事実だけで僕の心は暖まった。僕は必要とされなかった子ではなかった。


「‥‥‥お前にとってはこの話も重要だが、今は話を戻させてもらう」

「あ、ああ」

「お前の事を知った俺達は、お前を外に出して保護しようと考えた。そこでニナにお前を連れて逃げ出させた。ここまでは多少のミスはあっても、大局的に問題は無かった。問題はその後だ。ニナの心は、俺達が考えていた以上に病んでいた。ニナの不安定さは皆が感じていた。けど、大丈夫だと信じていた。見た目は子どもでも、中身は立派な大人だ。けど、その信頼が俺達の命取りになった」

「仁奈が病んでいたって? 不安定な時は、確かに感じた事はある。けど」

「俺もニナも百年以上同じ体が、急に変化していったんだ! 自分が自分で無くなってしまいそうだった。怖かった。鏡を見ると自分が壊れそうになった。‥‥‥」

 レンは未だにその恐怖から抜け出せていないのか、指先が震えていた。僕には分からない恐怖だ。口を挟める資格は無い。


「けど、ニナのその恐怖は俺の比ではなかっただろうな。あいつは五歳の時に手術を受けた。第二次性徴もまだの段階で手術を受けさせられたニナの体の変化は、精神への負担が大き過ぎた。俺達もケアしていたつもりだったんだがな、次第に精神が病んでいった。俺達もいつから仁奈が壊れたのか分からないが、たぶんあの施設の中にいた時から、壊れていた」

「仁奈が壊れているって? 出鱈目だ」

 僕も仁奈の話になると熱くなってしまう。レンの話の中のニナより、僕が見ている仁奈が真実だと信じているから。

 しかし、

「お前が気付かないのも仕方がない事だ。ニナは、お前と出会う前からもう壊れていたのだろう」

 その言葉には、僕も反応に困った。僕に会う前の仁奈、それは僕が知らない仁奈の物語だから。

「意味が、分からないよ」

「そうだな。いきなり受け入れろと言っても無茶な話だな。すまん」


 そこで抗い難い眠気が僕を襲った。五感が麻痺していくのがどうにか感じ取れる。


「効いてきたか。紅茶に強力な睡眠薬を混ぜ込んだ。少し寝てもらう事になるが、悪いようにはしないから安心しろ」

 その言葉を最後に僕の意識はなくなった。






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