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2.

 初めてニナを見たのは九歳の時だ。

 労働場の年上の女の事を取っ組み合いの喧嘩をしていたのを目撃した。

 自分の意見を曲げず、九歳とは思えない理路整然な話し方のニナに、相手の女の子が言葉では勝てないと悟ったのか、暴力をふるいだしたのだ。

 ニナもやり返した。相手の女の事より生き生きと喧嘩をしていたのは、僕の目の錯覚であって欲しいと今でも思っている。


 その喧嘩に結果は付かなかった。途中で監査官に取り押さえられてしまった。

 悪人が収容されているこの施設では、喧嘩は絶えないし、時には殺傷問題だって起こる。そこに監査官は基本的に関与しない。疑わしいものを首輪に仕込んでいる毒針で処罰するだけだ。そのため、死体の処理などの仕事を割り振られている人も少なくない。

 ただし、十五歳未満の間は問題が起きた時、監査官が直接解決したり、簡単な罰を与えたりする。

 未成年だから、という理由らしい。


 喧嘩をした二人には当然に罰が下った。

 独房に三日入れられた。光も無く、冷たい石畳の上で過ごすらしい。食事は一日一食しかないとも後に聞いた。

 悪い事はダメだ、関わらない。と幼さゆえの曖昧な考えと共に、関わりたくないと思うニナに僕は目を離せれなかった。

 もしかしたら他にも何か想う所があったのかもしれないが、さすがにもう思い出す事は出来ない。


 僕らは六歳までは保育施設に入れられ、その後、七歳と八歳の時に僅かばかし勉強という物を行う。算数とか理科とか読み書きだ。

 九歳になると勉強をしながら、少しずつ体力に見合う仕事をさせられていく。それがここの決まりだ。

 あの喧嘩も、きっと労働場に入れられたばかりで、ニナにも不安が募っていたのが原因だろうと僕は思っている。この事を言うと彼女は不貞腐れるので、確認をした事は無いけども。



 独房から出てきたニナは数日後に僕に会いに来た。

 まだ名前も知らない僕のところになんで来たのだろうかと思った。ちらちらと彼女の事を目で追っていた 僕は、彼女に話しかけられる事に少し気恥ずかしさが合った。

 僕は正直問題児とは関わりたくないとも思っていたが、彼女は標的か何かのように僕を明らかに睨みつけてきた。

『加勢しなさいよ』

 棘のある言い様だった。

 直ぐに何のことかは分かった。先日の喧嘩のことだろう。

 いったい何様だ。むっとした。

『僕は君の味方じゃあない』 

 この時の僕は、今の僕よりも幾分はっきりと物を言う事が出来ていた。

『嘘よ。だってあの時のあなたの目は私に味方したいけど、ビビっていた目だったもの』

 ただ、はっきりと物を言う事に関しては、今も昔も彼女に右には出られそうにない。

『何言ってんの? 意味が分からない』

『へえ、とぼけるんだ』

 別に恍けているつもりはなかった。

 この頃の僕はまだ自分の感情すら理解できていなかったのだ。彼女もその所は察して欲しかった。

『ならいいわ。覚えておきなさい』

 やられ役のような台詞を言い残して、ニナは立ち去った。

『何だったんだ、いったい‥‥』

 僕の中で関わりたくない人ランキング一位は断トツで彼女となった。







 それからというもの、事あるごとにニナは僕の元に訪れた。

 基本的に愚痴が多かった。しかし、彼女の快活なリズムの愚痴は聞いていてもあまり嫌な気はしなかった。

 僕らの遊びは限られていた。外で駆け回る事は出来ず、ゲームやケータイという物は誰も持っていない。トランプなどのカードゲームやボードゲーム、あとは書籍くらいしかない。

 僕とニナも、カードゲームに興じた事もあったが、やはり彼女のおしゃべりが一番長く、楽しい。

 その日あった出来事、友人から聞いた話、本から得た知識。そして愚痴も。

限られた環境ではあったが、僕はニナといることに満足していたのだと思う。


 十三歳の夏だった。仕事終わりが早い彼女は、勝手に僕の部屋の合い鍵を作り、入り込むようになった。

 どこで合い鍵を作ってもらえたのか気になった。鍵はかえしてもらいたかった。ニナは教えてくれないし、返してくれない。

ただ、口では嫌だと言ったが、そんなに嫌な気もしなかった。

 関わりたくないなんて思わなくなっていた。

 天邪鬼な僕は中々素直にはなれなかったが、ニナのことが好きになっていた。

 それを認め、伝えるまでに無駄に時間をかけてしまった。

 けど、ニナも僕の事を好きだと言ってくれた。

 嬉しかった。それまで、生きてきた中で一番嬉しかった。

 喜びを隠す僕を彼女はくすりと笑っていたが、それでよかった。

 僕らはそう言う形の関係だ。鍵と鍵穴の関係。合う人は一人しかおらず、お互いがお互いに必要としている。

 振り返ってみても、僕らは好き合っているけど、淡白な言葉の掛け合いが多い。ニナ以外の人とだったら、耐えきれないかもしれない。けど、ニナはこれでいい。だって僕は優しい言葉やはしゃぐ様子に惚れたわけではない。だから、僕らにはこれが合っている。僕らだから合っている。

 僕は彼女を裏切らない。

 遺伝子なんかに何も決めつけさせてやらない。

 僕は僕の考えで、想いで、彼女を愛し抜く。

 体を重ね、心を重ね、その想いは日に日に強くなっていった。


 そして、今、その想いが試されているのだと思う。

 




3.

 起床の鐘が施設一体に響き渡った。

 一晩悩んだが、ニナについて行くか、結論はまだ出ていない。

 彼女を止めるという選択肢は無い。初めて見たあんなにも真剣な彼女を止める事は、今もなお悩んでいる 僕にはできそうにない。

 ニナとはずっと一緒にいたい。しかし、そのために命の危険すらありうるハイリスクをとる覚悟が僕にはできていない。

 リスクを考える事は大事だ。しかし、僕はただリスクに怯えているだけだ。

 どうすべきか、それは分かっている。ニナを信じる。

 けど、それが出来ない。

 僕は僕が嫌いだ。


「仕事、いかないと‥‥‥」


 仕事はきっかり八時間。護送車のような車での移動時間も合わせれば拘束時間は九時間。

 仕事内容は力仕事のルーティンワーク。頭を使う仕事はAIと階級の高い人に振り分けられている。

 だから、仕事時間に考え事が出来ないわけでもない。

 早く決めなければ。





 ‥‥‥決め切れなかった。

 いくら考えても、思考の泥沼に陥ってしまう。

 考えれば考えるだけ、失敗した時の想像ばかりを繰り返し、そこから抜け出せない。

「よぉリク。今日はなんかいつも以上に辛気臭えな」

 仕事終わりに話しかけてきた一回り年上の男は、レン。一応友人。何の仕事をしているのかは知らないが、時折こうして会いに来る。

 正直今は時間が無いから、僕に構わないでほしい。

「やあ、レン。ちょっと考え事をね」

「お前はいつも考えてばっかだな。俺らが幾ら何を考えようが、所詮しれているってのに。俺らは悪人だぜ」

「そうだけど、それは思考を放棄する理由にはならないよ」

「かぁー。頭の固い奴だな。どうせ考えてんのはニナ≪お転婆娘≫のことだろ?」

「‥‥‥よく分かったね」

 まさかレンに気付かれるとは思ってもみなかった。他人への興味が薄い人だと思っていたんだけどなあ。

「お前が眉間にしわを寄せて考えている時は、いっつもお転婆娘のこと考えている時じゃねえか。自覚ないわけ?」

「あんまり、なかった、かな」

 あんまり、どころか全く自覚が無かった。

 確かに言われてみればそうかもしれない。

「そんなら今から自覚持て。さもなくば俺から恨みを買う事となるぜ」

「なんでレンから恨みを――――」

「あー、はいはい。そういうのはいいから。一人身の目の前で惚気られる気持ちはお前には生涯分かるまい。で? お転婆娘がどうしたって?」

 そんな惚気話なんてした記憶は無いのだけど‥‥。

 けれど、僕が思っていた以上によく周りの事を見得ているレンの言葉だ。もしかしたら惚気ているのかもしれない。

 

 僕は少し考えて、話をぼかしながらでもレンに相談する事にした。

「‥‥‥レンはさ、どんな危険が合っても自分と一緒にいてほしいって言われたら、どうする?」

「一緒にいる」

 即決だった。考えたような素振りは全く見えなかった。

「もう少しは考えても」

「知らん。好きな相手が言ってくれてんだろ? ならついて行くに決まっている。俺は『直情型』出しな!」

「その決断力が羨ましいよ」

「『保身型』のお前には一生身に付かねえと思うぜ」

「‥‥‥そう、かな」

 そう言うものか。いや、そうなんだろうな。

 たぶん僕が一番その事を分かっている‥‥‥。


「そうだ。だからお前は考え抜いて動けばいいんだよ。即決できる事が良い事ってわけでもねえんだし。お前にはお前らしさがあるだろ。お転婆娘だって、考えない俺じゃなくて、悩むお前を好きになったんだろ? 違うか?」


 レンの言葉がすとんと胸に入り込んだ。

 これは、言ってほしかった言葉を当ててもらった、そんな感じの嬉しさだ。

 

「‥‥‥レンは無駄にカッコイイとこあるよね」

「無駄ってなんだよ、無駄ってのは!」

「けど無駄にカッコイイから僕はレンのことが好きだな」

「鳥肌立つような事言うのはやめろ」

肌をさするレンの姿に子どもっぽさを感じた。

大人であり、子どもでもある。それがレンの魅力なのかもしれない。

「ははっ。ニナの前でもこんな風に包み隠さず言えたらな」

「言えばいいじゃん」

 簡単に言わないでくれよ。

「‥‥‥無理だよ」

「無理だと決めつけてんのはお前だ。俺はそうは思わない。お前は好きだから悩んでんだろ? 好きだから迷ってんだろ? それならそれを伝えろよ。上手く言う必要なんかこれっぽちも無い。迷ったままのお前の想いを伝えろ。それで嫌われたらそん時はそん時だ。人生は長い。女は多い。彼女以外にもお前の特別はある」

「僕の特別はニナだけだ。ずっとニナだけだ」

 考えるよりも先に言葉が出た。僕にしては珍しい事だ。いや、レンの、人の本音を引っ張り出す力のおかげかもしれない。


 レンは優しく笑いかけ、

「言う相手を間違えるなよ。それはお前の特別に向けて言う事だ。――――答えは出たか?」







 答えは決まっていた。ただ覚悟が少しだけ足りなかった。

 僕はニナが好き。ニナと共にいたい。逃亡は怖い。失敗が怖いから。

 たぶんニナがいないと僕は狂ってしまうだろう。この監獄のような所で生まれた絆をなくしたら、僕の心は砕け散るかもしれない。

 ここの居心地は最悪だ。ニナがいなければ、最悪だ。

 ああ、そっか。僕は分かった気がする。

 僕がニナと一緒にいたいと思う気持ちは、僕が思うよりもずっと大きいんだ。

 なんて天邪鬼だ。

 けど、もう迷う必要はない。

 大事なものは大事だと言う。失いたくない物は失いたくないと言う。

 一緒にいてほしい人には、一緒にいてほしいと、言う。

 僕はほんの少し覚悟を固めた。






 全力で走った。周りの目なんて気にはならなかった。

 約束の時間にはもう少し過ぎてしまっている。

 ニナはもしかしたら、もう行ってしまっているかもしれない。

 胸がチクリとした。嫌だ。待ってて。

 走った。走った。生まれて初めての、本当の全力疾走。

 寮についた。

 一段飛ばしで階段を駆け上がる。

 早く。早く早く。一秒でも早く。



 階段を上りきった。

「ニナ‥‥‥」

 僕の部屋の前には誰もいなかった。

 遅かった。ニナはもう行ってしまった。

 足に力が入らない。立っていられなくなった。僕は膝から崩れ落ちた。その場で小さく蹲るように。

 ニナはもういない。彼女はそういう人だ。決めた事はやり抜く。彼女は意志の強い人だ。

 だから、時間にも正確に動いただろう。僕を待っている間、どんな気持ちだったかは分からない。僕が間に合わなかった時、どんな表情をしたのか、僕には分からない。

 期待して待っていてくれたのかな。なかなか来ない事に腹を立てていたのかもしれない。

 呆気なく、僕を切り捨てたのかな‥‥‥。少しは迷っていてくれたのなら嬉しい。

 ニナは僕といなくても、生き抜く強さを持っている。

 僕には無い強さを持っている。

 だから、もう会えない。

 昨日、すぐにニナの手を取れなかった僕が悪い‥‥‥。




「遅い」




 扉の開く音と、声がした。ニナの声だ。幻聴ではない。ニナだ!

 彼女の姿を見た瞬間、僕は彼女を抱き締めずにはいられなかった。

「ちょっ、なに?」

「好きだ。僕は君といたい。ずっと、一緒に」

 口からこぼれた。ボクにしては珍しく、素直に本音がこぼれた。

「知ってる。私も離すつもりないし。そう決めていたから。だから待っていた。遅れた事は減点だけど‥‥‥来てくれて嬉しい」

 ニナは、それが当たり前とでも言いたそうに、そして嬉しそうに僕の頭を撫でた。

「‥‥‥って、感傷に浸っている場合じゃないわ。すぐに準備して。時間もおしているし、すぐに動くよ」

 僕は部屋から大事なものだけを入れたポーチを一つ持ちだし、ニナに準備が出来た事を告げた。

 彼女は僕の準備の早さに、僅かに驚いた表情をしていた。

「もっと時間がかかると思っていた。リクって優柔不断だし」

「時間はかかったよ。昨日、何十分もかかったし」

「準備出来ているなら、もっと早く部屋に戻ってきなさい」彼女の表情は軟らかかった。これまた珍しい。

「それより、なんで僕の部屋の中にいたの? 合い鍵返してもらったのに」

「ああ、それね」

彼女はポケットに手を突っ込み

「合い鍵の合い鍵」

 なんだそりゃ。

「言ったじゃない。離すつもりはない、って。扉を開けてくれなかったら、無理矢理にでも引っ張って行く予定だったし」

「それ、僕の意思、無視しているよね」

「無視してないわ。だから考える時間をあげたわ。ちょっと前までは部屋の外で待っていたし。それにリクは私と一緒にいたいと思っているもの。けど、リクはいつも一歩踏み出す勇気が無いから。だから私が後ろから押してあげる。今回もそのつもりだったんだけどなあ」

 どうやら、ニナには僕の事がすべてお見通しのようだ。

どう頑張っても僕はニナには勝てそうにないな。

「何笑ってるのよ。準備できたのなら、すぐにいくよ」

 僕は彼女と共に行く。どこまでも。

 失敗した時のリスクはまだ怖い。けど、彼女とともにいるためなら僕は一歩を踏み出す覚悟が出来た。





 ニナについて行くと、何年もここで生活している僕も初めて知る裏道を通り、下水道に下った。

「こんな所があったんだ」

 下水特有の臭さを放つこの場所からは、一刻も早く出たいものだ。

 ニナが懐中電灯を付け、進路を照らす。

 全力で走っても数分やそこらでは、出口まで辿り着けそうにない。

 それもそうか。光が全く無いって事は、出口はまだまだ先だということだろう。

 こんな場所を知っていたなら、僕だって労働場から逃走しようとも考えるかもしれない。


 しかし、やはり気になることもある。

「ニナはどこでここを知ったの?」

「‥‥‥」

 前を歩くニナの表情は見えない。

 けど、背中から漂う空気で何となく分かる。あまり聞かれたくない事だと。

「‥‥‥聞いたのよ」

「‥‥‥誰から?」聞くかどうか迷ったが、口にした。情報源に信ぴょう性があるかも重要な所だ。

 ニナの呼吸が聞こえた。

「監査官よ」

 言葉が飛んだ。

歩く音。呼吸の音。心臓の音。周りの音が自棄に大きく聞こえた。

「‥‥‥なん、で?」

 ようやく出た言葉は、なんとも情けない声量だった。

「取引したの。これ以上は聞かないで」

 シャーターが下ろされた。そんな気がした。いつも僕の意見を跳ね除けているけれど、こんなにも一方的に、明確に話を切られたのは初めてだ。


「あそこの少し開けた場所で少し腰をおろしましょう」

 特に疲れているわけでもないが、僕は彼女に言われるがままでいた。今回の一件に関しては、僕の知らない所で彼女が動き過ぎていて、把握できていないことばかりだ。

「ここで首輪を壊しましょう。ここは電波の届かない所だから遠隔操作もできないわ。ちゃちゃと終わらせましょう」

 そう言ってニナはバッグから取り出したスタンガンのようなものを自分の首輪に押し付けた。

 耳に蚊が羽ばたくような甲高い音が流れ込んでくる。次に電気が弾けた様な音が小さく鳴った。

「これで、この首輪の機能は完全に駄目になった。外すのはまた後にしましょう。さあリクも腕を出して」

 僕の首輪もニナと同様に壊してもらった。

「これで本当に壊れたの?」

「ええ、もう使い物にはならない。確実よ」

 僕は彼女の断定的な物言いに困惑していた。

いったいどこからそんな情報を仕入れたのか。そのスタンガンのような機会も一体どこから手に入れたのか。今すぐ聞きたいが、先程下ろされたシャッターが僕にはまた見えていた。


 そんな僕の考えを呼んでか、ニナは、「逃げ切れたら全て伝えるわ」と言った。目は合わしてくれなかった。


「僕はニナを信じているよ」


 ありがとう、小さく聞こえた。

 照れた彼女も、これまた珍しい。







4.

 一時間くらい歩き通しだった。その間、僕らはあまり話す事をしなかった。ニナに聞きたい事は山ほどあるが、ニナの纏う空気が、それは今じゃない、と言っているような気がしたから聞けなかった。他愛のない話をする気になれるはずも無かった。

 下水道の中では直進だけでなく、右に行ったり左に行ったりと、今どの方角に向いているのか、僕にはもう分からない。一体今、どこにいるのだろうか。

 ずっと汚臭を吸っているせいで、吐き気もわいている。とりあえずは早くここから出たいものだ。

 そんな事を考えていると、不意にニナが「ここね」と呟いて、壁にくっ付いている梯子を登ろうとした。


「ようやく出られるのか」

「ええ、この先が私達の自由よ」

 僕はニナの自由という言葉に心躍った。

 この先にある未来は明るいものだと信じて、僕の心臓は高鳴っていた。

 しかし、もう一つだけ懸念事項が存在している。

「市民IDはどうする予定なんだ?」

「外で貰えるように手配しているわ」

 どうやって手配したのかは聞かなかった。

 信じている。そう一言口にして、僕もニナに続いて梯子を登った。




 ニナがマンホールを開け、地上に出た。

 僕も彼女に続いて外に出た。


 外は真っ暗で、静かな場所だった。

 下水道の中と大して変わらない。

 しかし、空気は澄んでいる。下水道と比べれば当たり前か、と苦笑しながら大きく深呼吸をした。鼻にはまだ下水の匂いがこびりついているが、これなら吐き気もすぐに収まるだろう。


 ニナが僕の耳元で声を抑えて、

「これから市民IDをまず貰いに行く。道は一応分かっているつもり、だけど、ここからは私にも分からない事が沢山でてくるから、そのときはサポートしてよね」

 僕は首を縦に振り、分かったと伝えた。

 そして彼女に続いて暗闇を歩いて行った。



 街灯もなく真っ暗だが、今まで暗い中で歩き続けてきたおかげで、暗闇に目が慣れていて、多少は周りが見えた。

 僕らは、高層ビルの間の裏道にでもいるようだ。

 ニナは何かメモが記されている紙を見ながら、ジグザグと迷いなく歩いて行く。彼女らしい。僕はそんな 彼女について行く。僕らしい。

 そして誰ひとり会う事なく、ある建物の裏口でニナが足をとめた。

「ここよ」

 ニナは一つ息を吐いて、扉をノックした。二・三・二・二・三・三。奇妙なリズムでノックした。

 扉が開き、中から痩身の男が出てきた。

「なんの用だ」

 薄気味悪いと正直思った。髪はボサボサで、顔の肉はげっそり痩せこけているその男の、鋭い瞳が恐ろしくも感じた。


「ナンバー百二十九番から依頼が言っていると思うわ。市民IDを頂に来た」

「そうか。確かに依頼は来ているが、お前が受け渡し人である照明はあるのか?」

「これでいいでしょ」ニナは首輪を見せ、そして何かを手渡した。

 それが何の証明になるのか僕には分からなかったが、その男には満足いく答えだったらしく、「付いてこい」と建物の中に促された。



 窓が一切ない部屋の中には、見た事のない機械が大量に散乱していた。ほとんどがパーソナルコンピューターと呼ばれるものだった。初めて見た。一体こんなに何十個も何に使うのか僕には見当が付かない。

 その機械の多くがまばゆい光を放ち、数字や英字など謎の羅列などを表示していた。何かの作業中だったのだろう。


「そこに座っていろ」

 男は部屋の中で唯一腰を下ろせるソファを指さした。男は黙って別の部屋に行ってしまった。

 僕とニナは一度顔を見合って、そこに隣り合って座った。

 ニナの顔にも緊張が走っていた。

「大丈夫。僕が守って見せる」

 僕はニナの手を握って、想いが乗るように一音一音ハッキリと言った。

 ほんの少し驚いた表情をした、ニナは優しく笑い、僕の手を握り返した。

「手、震えてるじゃん」

 バレたか。恥ずかしい。

「嬉しい。ありがとう」

 ‥‥‥恥ずかしい。

 僕の顔はきっとトマトのように真っ赤になっているに違いない。こんなに暑いのだから。

 早くこの熱が飛んでほしい気持ちと、この熱がいつまでも続いてほしいという矛盾が心地良かった。


 しかし、心地良いのも僅かの間だった。

 扉が開く音で、僕は気持ちを切り替え、戻って来た男に意識を向けた。

「識別証を見せろ」

 男の手にはノートパソコンがあった。

「識別証?」僕が尋ねると、男は「その首輪だ」と答えた。

 それを聞いたニナが首輪を男に見せるため、腕を上げようとした。彼女の表情は強張っていた。男がやろうとしている事が、ニナにも分かっていないのかもしれない。

 それを考えた途端、「ここは僕が」と、彼女の腕を抑え、僕の首輪識別証を男に差し出した。

「なんか、ちょっと変わった?」ニナが僕の方を凝視して呟いた。

「うん。少し変わったかも。ニナと一緒にいるために」

 昨日の僕が今の僕を見たら、きっと羞恥心が壊れたのだと思うだろう。

 自覚はある。変わるために自覚がある。恥ずかしくても、ニナのため、を行動に移すと決めたから。



 

「話は済んだな。なら、その識別証は市民IDの対価として頂く。外すぞ」

「わかった」

 こんなものを貰って何が嬉しいのか僕には分からないが、僕には不必要なものなので頷いた。

 男は僕の識別証にパソコンと繋がっているケーブルを繋げた。

 繋げられるようになっていたこと自体、僕は知らなかった。この識別証は高機能なのかもしれない、とどうでもいいことを男が作業している間、僕は考えていた。

 男はものすごい速さでパソコンのキーボートを叩き、僕はこの男の指は別の生き物ではないかと、割と本気で思っていた。

「――――終わりだ」

 男の渋い声と共に、僕の識別章が腕から落ちた。


「と、取れた? え? これホント?」

 識別証と自分の腕を何度も交互に見ている僕は、男から見ればさぞ滑稽だと思う。

 けど、今の僕にはそんな事を気にする余裕はなかった。

 解放された。強い喜びをかみしめていたから。

 涙がこぼれそうになった。ニナも隣にいた事もあり、僕は意地でその涙を止めようとした。

 しかし、ニナが泣いていた。

 彼女の涙は初めて見た。嬉し涙だとしても人に見せたがらない人だと思っていた。

「ニナのもお願いします」

 僕が男に頼むと、ニナの識別証も直ぐに外された。

「これがお前らの市民IDだ。何があっても此処の事は言うなよ。表に出せない方法で手に入れたものだからな」

 男が不穏な事を言ったが、僕らの耳にはほとんど届かなかった。


 初めて見る何も身に付けていない右腕を僕らはお互いに、触り合い、涙があふれ出した。

 自分の市民IDカードを見て、涙が止まらなくなった。

 僕の名前は「黒川陸」で、ニナの名前は「白根仁奈」になった。

 これでもう自由なんだ。

「悪人」では無くなった。もう「悪人」だからと言って、無理矢理労働に駆り出されなくて済む。

 やりたい事を探そう。夢を見つけよう。夢に向けて努力しよう。それが出来るようになったのだから。

 そして、ニナとずっと一緒いよう。いられるんだ!



「黒川陸」とニナが僕を呼び、「白根仁奈」と僕はニナを呼んだ。

 こそばゆい感覚だ。

「これからも一緒にいられるんだね」

「『いられる』、じゃない。ずっと一緒に『いる』のよ。離してなんかやらない」






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