第一章 その7
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こんな世界でも夜は暗いものらしい。
桐也は照明も落とされた暗い部屋のなか、腕を枕にぼんやりと窓の外を見た。
しずかな夜だった。
車が走る音も、蛙の鳴き声も聞こえてこない。
気温も涼しく、ぐっすり眠るにはちょうどいい夜にはちがいなかったが、とてもいびきをかいて眠る気分にはなれなかった。
魔砲。
魔砲の世界。
「……魔砲、ねえ」
たしかに、あの男が使っていた力は魔法にしか思えなかった。
なにもないところから炎を出したり、氷を出したり、挙句には数えきれないほどの剣を降らせたり。
そのあとに一戦交えたあの二人組もまた、炎を中心としたふしぎな力を使っていた。
それが魔砲、魔砲師なのだという。
「これは推測だけれど――」
と、あの眼鏡をかけた教師、リクは言った。
「きみたちはおそらく、時空魔砲に巻き込まれたんだ。時空魔砲というのは、いまではもう失われたといわれる魔砲でね、文字どおり、時空を貫く魔砲とされる。その魔砲を使うと、この時空と別の時空に共通した穴ができるんだ。当然、その穴を通ったものは時空を移動することになる――きみたちはその時空の穴を使って、もともと暮らしていた世界からこの世界へやってきたと考えられる」
時空魔砲。
心当たりはたしかにあった。
あの夕暮れの帰り道、突然襲いかかってきたスーツの男は、漆黒の穴から現れたようだった。
そして桐也と玲亜は、男の攻撃を逃れるためにその穴のなかへ飛び込んだのである――そして気がつけばここにいたと考えれば、その穴が時空の穴で、もともといた世界とはまったくちがう世界へやってきてしまったのだと考えるのが自然、なのかもしれない。
「それで、あたしたちはいつ戻れるんですか?」
玲亜がそれほど深刻でもなさそうに聞いたのは、ここへきたからには戻ることもできるという確信があったせいだった。
桐也も、そう思っていた。
望めばすぐに帰れるのだと――そう思ったが、リクは申し訳なさそうに首を振った。
「いまのところ、帰れる目処は立ってないんだ、申し訳ないけれど。さっきも言ったように、時空魔砲っていうのは、いまでは失われたといわれてるんだよ。時空魔砲を操れる魔砲師がこの世界にいるとは思っていなかった――昔、魔砲師の力がもっと強かった時代でさえ、数えるくらいしか成功していないむずかしい魔砲なんだ。だから同じ時空魔砲ですぐにきみたちをもとの世界へ送り返すことはできない」
「で、でも、その、だれかは時空魔砲をやったんでしょ? だってあたしたちはこっちの世界にきたんだし」
「そう、そうなんだ。でもだれが時空魔砲を行ったのかは、まだわかっていない。学校では今後それを調べるつもりだし、もし時空魔砲を行った魔砲師が見つかれば、きみたちを同じ方法でもとの世界へ送ることができると思う。だけど反対にいえばその魔砲師が見つからないうちはそれができないってことでもあるんだ」
「あいつだ――」
桐也は低く言った。
「あの、スーツの男だ」
「スーツの男?」
「突然目の前に出てきて、襲いかかってきた。あいつが、その時空魔砲ってやつをやったんだと思う。だからあいつさえ見つかればいいんだな」
「ふむ、その話はあとで詳しく聞かせてもらおう――ともかく、申し訳ないけれど、いますぐ、あるいは近いうちにきみたちをもとの世界へ送り届けることは、ぼくたちにはできない。その代わり、きみたちがここで不自由なく暮らせるように手助けはするつもりだよ。住む場所や着るもの、食べるものなんかは心配しなくてもいい。それから、きみたちがもとの世界へ戻れるようにぼくたちも全力を尽くすことを約束する」
「……ずいぶん親切なんですね」
「これはぼくたち魔砲師の問題だ。きみたちはそれに巻き込まれた立場だからね――しかしまあ、この世界も悪い世界じゃないよ。しばらく観光気分で暮らすにはいいところだ。町並みはきれいだし」
たしかに観光気分ならいい町だろう――観光して家に帰れることがわかっているなら。
しかしそれは、リクに言っても仕方がないことだろうと思う。
リクの話がどこまで真実なのかはわからない。
なにも知らない自分たちにうそを吹き込んでいる可能性はある。
しかしリクやユイの様子からはうそを感じなかった――桐也は自分の直感には自信を持っていたから、ともかくいまはリクやユイを信用しようと決め、ベッドの上で正座をし、リクに頭を下げた。
「さっきは問答無用で襲いかかってすみませんでした」
リクはちょっと驚いた顔をしたあと、いやいやと笑う。
「なにもわからないままだったんだから、仕方ないさ。こっちは怪我もしてないし、あのふたりの怪我も軽症で、もう痛みもないだろう――しかしきみ、魔砲師でもないのに、すごい身のこなしだったね」
「一応、剣士ですんで」
「はは、剣士か、かっこいいなあ。魔砲師が一般的になってからは剣術なんかは廃れてしまったから、もしかしたらきみはいまこの世界で唯一の剣士なのかもしれないね――まあ、とにかく、いまはゆっくり休むことだ。いくらきみの身体が頑丈で、なおかつ魔砲で治療したとはいえ、きみの傷は浅くはないんだから。胸の穴がもう数センチずれていたら命も危ないくらいだったんだよ――だから、今日一日ゆっくり休んで、詳しいことはまた明日にしよう」
そう言ってリクとユイは医務室を出ていったのだった。
時間はよくわからなかったが、窓の外はもう暗かったから、夜中に近かったのかもしれない。
桐也と玲亜は、そのまま医務室のベッドに泊まることになった。
桐也はまだ動けなかったし、玲亜もひとりで別の場所に泊まるのは不安だったからそうなったのだが、玲亜のほうはのんきなもので部屋の電気が消えるとすぐにぐうぐう寝息を立てはじめた。
まあ、こんな状況で、玲亜も精神的に疲れていたのだろう。
桐也のほうは、身体はあちこちが痛いし疲れてもいたが、しばらくは眠れそうにないくらい意識が冴えていた。
「――もう数センチずれていたら、か」
胸のガーゼをなぞりながら、その数センチは決して偶然ではあるまいと思う。
あの男は、わざと死なない場所を見計らって剣を突き刺したのだ。
勢い余って殺すこともない、余裕たっぷりの行動。
思い出すだけでも腹が立ってくる――こっちといえば、余裕など欠片もなかったのに。
しかしそれが実力でもある。
あの男は、勝てなかった。
再戦したとしてもいまのままでは手も足も出ないだろう。
向こうが魔砲を使ったとか、こちらの武器が竹刀しかなかったとか、そんなことは言い訳にもならない。
戦いとは常に一発勝負であり、そこでなにが起こったとしても勝者は勝者、敗者は敗者なのである。
「……なんであいつは、おれのことを殺さなかったんだ?」
いたぶって遊んでいたというふうでもない。
はじめから桐也は殺さないと、あの男は宣言していた。
殺してはならない理由があったのか――それとも。
「くそ――もっと鍛えて、絶対あいつに勝ってやる。そんで、もとの世界に戻るんだ」
どうせもとの世界に戻るにはあの男と会わなければならないらしいのだ。
簡単にもとの世界へ帰してくれるならいいが、あの男の態度を見るかぎりそうはいかないだろうから、今度こそ力で打ち負かし、もとの世界へ帰る――そのためにはもっと身体を鍛え、心を鍛え、技を鍛えなければならない。
魔砲にも負けない剣を。
魔砲師にも負けない剣士を、造り上げなければ。
「よし、そうと決まれば、さっそく寝よう」
考えても仕方がないことは考えないほうがいい、というのが桐也の持論であり、生き方でもあったから、あれこれ思うことはあったが、とりあえずいまは身体の疲労に任せて眠ることにした。
一晩寝れば身体もよくなるだろう――そうしたらまた鍛錬がはじめられる。
ひとつの敗北を知り、十強くなる――それが強い剣士のあり方である。
桐也は敗北を胸に刻み、必ずやり返すことを誓いながら眠りに落ちた。
*
いろいろなことがあった、翌朝。
なりゆき上、このまま放っておくわけにもいかず、授業がはじまる前に医務室を訪ねようとしたユイは、医務室がある校舎の前で驚きのあまり持ってきたパンを落としそうになった。
「な、なにしてるんですか?」
「ん、おう、おはよう、ネコミミ――じゃなかった、えっと、ユイさん?」
「ユイで結構ですけど――」
早朝の校舎前。
生徒たちがぞろぞろと登校してくるなか、その人混みに決して埋もれない異様な人影がひとつ。
というより、登校してくる生徒たちのほうがその人影を避け、あいつはなんなんだ、というように通りすぎている。
「あの、もう一回聞きますけど、なにしてるんですか?」
「なにって、見てのとおり」
そいつはにっと笑い、答えた。
「朝の鍛錬だけど」
上半身裸、どこから見つけてきたのか長い鉄の棒など持って、ぶん、ぶん、と何度も上段を繰り返しているそいつ、キリヤは、当然というようにそう言った。
えーと、とユイはすこし考え、言う。
「ばかですか?」
「失礼なっ。早朝鍛錬は心身を鍛えるにはもってこいなんだぞ。朝の澄んだ空気を取り入れ、さらに肉体を動かすことによって心まで研ぎ澄まされてだな――あいたっ。な、なぜ殴る!」
「重症患者がなにしてるんですか! おとなしく寝ていないとだめでしょ、もう!」
「う――で、でも、もう身体、痛くないし」
「一時的に痛くなくなってるだけです! そんなね、たった一晩で完治するわけないでしょ!」
「ご、ごめんなさい……」
「わかったなら、早く病室に戻ってください!」
「は、はい、すぐ戻ります、はい」
はあ、とユイは深いため息をつく。
まったく、昨日は胸に風穴が空いていたというのに、次の朝には鉄の棒を振り回しているとはどういう了見なのか。
ユイはキリヤが置いていった鉄の棒を持ち上げようとしたが、ユイには重たくて持ち上げることさえできない――そんなものを振り回せば、当然ふさがりかけていた傷も開く。
「もう、なにしてるんですか、まったく……」
どうしてまわりは止めなかったんだろう、だれも見ていなかったのかしらん、とぶつぶつ言いながら校舎のなかに入り、教室ではなく医務室のほうへ向かうと、ちょうど手洗いから出てきたレイアとばったり出くわした。
レイアは昨日と同じ格好で、顔を洗ったところらしく、首からタオルを下げている。
「おはようございます、レイアちゃん」
「んー、おはよー――んん? いいにおいがする……」
「パン、持ってきました。よかったら食べてください」
「わーい、昨日のパンだ! いただきまーす」
さっそく昨日と同じチョコパンにかじりつくレイアに苦笑いしつつ、ふたりは廊下を進んで、
「レイアちゃん、さっき、キリヤさんが外で鉄の棒を振り回してましたよ」
「ああ、朝の鍛錬でしょ? やめとけって言ったんだけど、ほら、お兄ちゃん、ばかだからさ、基本ひとの話とか聞かないし」
「……おとなしく医務室に戻ったか心配になってきました」
また変なことをしていなければいいが、というユイの心配は、当然のように的中した。
いまはふたりの根城と化している医務室の扉をがらりと開ける。
清潔な雰囲気がある医務室は、左側に診察台があり、右側にベッドがある構造になっていて、自然とベッドのほうへ目を向けたユイは一瞬我が目を疑った。
「よっ――ふっ――ほっ――」
「な、なな――」
「はあ、またばかなことやってる……」
三つあるベッドのまわりには、それぞれカーテンがかけられるように、天井近くに太いパイプが通っていた。
それはいい――それはいいとして、昨日胸に風穴を空けられ、大量出血していた重症患者が、そのパイプに足を引っかけ、アグレッシブきわまりない腹筋をしているのはどういうわけなのだ?
ユイは自分の目が捉えた光景を信じることができなかった。
一方レイアは、もう慣れっこだというようにため息をつき、ユイが持ってきたパンの袋からひとつ取り出して、ぽいとキリヤのほうへ投げる。
「お兄ちゃん、餌だよ」
「わん――ってふぉふぇふぁひふか!」
おれは犬か、と言っているらしい。
パンをくわえつつも腹筋をやめないキリヤに、ユイはとことこと近づき、その頭をすぱんとはたいた。
「あいたっ。ちゃ、ちゃんと部屋に戻ったのになんで殴る!?」
「当たり前ですっ! むしろなんで殴られないと思ったのかふしぎなくらいです――いいですか、けが人っていうのは、おとなしくベッドで寝ているものなんです!」
「は、はい」
「だから――」
ユイはぴっとベッドを指さし、
「寝なさい!」
「は、はい、わかりました……」
キリヤはひょいと飛び降りると、おとなしくベッドに寝そべり、もそもそとパンをかじった。
はあ、とため息をつくユイに、おー、とレイアは拍手する。
「ユイさん、怒ったら意外と怖いんだー……」
「う、そ、そんなことないですけど。でもその、無理に動いてまた悪化したら大変ですし」
そもそもなぜ昨日の今日で動けると思ったのかがふしぎだった。
キリヤの傷は本当に、下手をすれば死んでもおかしくないくらいの傷だったのだ。
いくら魔砲で治療したとはいえ、たった一日で完治するようなものでもない――本人は身体の痛みとしてそれがわかっているだろうに、とユイはキリヤを見たが、キリヤはユイと目が合うと怯えたように視線を逸らした。
なんだか、妙な印象が植えつけられたらしい。
まあ、でも、元気そうなのはいいことではある。
ユイはどちらかというと傷の心配より、ふたりの心のほうが心配だった。
突然わけのわからない世界に連れてこられ、いまのところ帰る手立てはない、と言われているのである――もし自分なら不安でいても立ってもいられなくなるにちがいないと思い、そういう気持ちをすこしでも和らげることができれば、とここへやってきたのだが、キリヤとレイアを見るかぎり、どうやらそれは杞憂だったらしい。
「……レイアちゃんは、不安にならないんですか?」
「お兄ちゃんのこと? ま、慣れっこだし」
「そうじゃなくて、いえ、それもあるんですけど――その、家に帰れなくなってしまったこととか」
「うーん……不安がないわけじゃ、ないけど。でも、泣き叫んだら家に帰れるわけでもないし」
「……強いんですね、レイアちゃんは」
「まあ、お兄ちゃんもいるしね。性格はちょっとあれだけど、頼りにはなるもん」
「一言余計だぞ、玲亜」
まったく、とキリヤはため息をつくが、その顔はどこか誇らしげでもあった。
目には見えない、兄妹の絆があるんだな、とひとりっ子のユイはすこし羨ましくなる。
と、そこに、
「やあ、みんなお揃いで。おはよう、怪我の調子はどうだい?」
にこにこと笑いながら眼鏡をかけた教師、リクがやってきた。
リクも様子を見にきたのかと思いきや、彼にはもっと具体的な用事があるらしく、その片手はいくつかの資料でふさがっている。
「体調がいいなら、昨日言っていたことの詳しい説明をしようと思うんだけど――大丈夫かな?」
「はい、大丈夫です。朝飯も食ったし」
「パンならまだありますよ。よければどうぞ」
「わーい、いただきまーす」
「お、いいね、ぼくもひとつ――」
「先生はだめです。ご自分で買ってください」
「う、冷たいなあ、ぼくだって薄給なのに……」
リクは名残惜しそうにパンの包みを見ながら、ともかく、キリヤが寝ているベッドの上に資料を広げた。
キリヤとレイアにはまったく馴染みのない、異世界の話である――。