第一章 その5
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――なにが起こったんだろう。
男子生徒ふたりのケンカが起こっているという水の広場にたどり着いたユイは、その光景にそんな疑問が先に浮かんだ。
水の広場の象徴といってもいい大噴水の前。
男子生徒ふたりというのはよりにもよって同じ三年生の男子生徒ふたりで、いつもだいたいふたりでいるクルスとジェイクだった――ユイはふたりの姿を見てすぐにそれに気づいたが、ジェイクは腹を押さえてうずくまっているし、クルスは腰が抜けたように石畳に座り込んでいるし、どちらもよく知っているふたりとはかけ離れた表情をしていた。
そして――そして唯一そこに立っているのは、見知らぬ青年だった。
黒く焦げたような竹刀を片手に持っているのは、黒髪の青年――あるいはまだ少年といってもいい年かもしれない。
白いシャツに紺色のズボンという格好で、腕をだらりと下げ、クルスを見下ろしている。
見覚えのない横顔だった。
この状況のせいか、それとも顔立ちのせいか――夕焼けに照らされた赤い横顔に、ユイはぞくりと恐怖を感じる。
一方リクはのんきに眼鏡をくいと上げ、ケンカをやめろ、と声をかけようとしたところでどうやらふたりではないことに気づいたらしかった。
あれ、と首をかしげ、そこで少年がゆっくりと振り返る。
顔は完全な逆光になる。
黒い髪の輪郭が、どす黒い炎のように燃え上がって見えた。
――この少年がふたりをこんなふうにしたのだ。
ユイは理屈ではなく、そう直感する。
そして少年はユイが理解するよりも早く行動をはじめていた。
リクに向かい、まっすぐ駆けてくる。
魔砲の力も使っていない、直線的な動き。
しかしそれは不気味なほど素早く、リクが身構える間もなく少年はリクの目の前までたどり着いていた。
「げっ――」
リクが、やばい、と思ったときにはもう、少年は竹刀をぶんとすくい上げるようにしてリクの横顔を叩いていた。
ぱしん、と音がして、竹刀が砕け散る――もともと脆くなっていたものが最後の衝撃に耐えきれず、はじけ飛んだのである。
そのおかげでリクへの衝撃はほとんどなく、眼鏡がすこしずれたくらいだったが、リクの魔砲師としての目を覚まさせるには充分だった。
「ユイさん、下がって!」
リクは素早く両手を合わせる。
本格的な魔砲を使うにはもうひとりの魔砲師、フィギュアとの〈血の契〉が必要だが、それほど難易度が高くない魔砲は単独でも使うことができる。
少年は距離を取った。
しかし巻き起こす風には敵わない。
「風よ、彼を拘束せよ――」
頬を撫でるようなかすかな風が、リクの一言で暴風と化す。
少年は足元を暴風にすくわれ、さらに目も開けていられないような風が少年の身体全体を石畳に押しつけた。
ぐ、と少年がうめく。
手足を暴れさせるが、枷のように石畳に縫い止められ、びくともしなかった。
リクはふうと息をついたが、警戒はまだ解いていなかった。
解けるはずもない、この少年は魔砲も使わずこの自分を、魔砲師を圧倒しかけたのである。
もし最初の一撃で竹刀が壊れていなければ、あのまま魔砲を使うひまもなくやられていたかもしれない。
魔砲師になってから長らく感じたことがなかった恐怖心を、リクはこの少年からはっきりと植えつけられていた。
この少年は何者か。
リクは眼鏡をくいと上げ、石畳に縫い止められた少年を見下ろした。
少年は身動きが取れないことがわかっていながらリクをきっと睨む。
ふむ、とリクは息をつき、ふと真実に気づいてぞっとする――少年の白いシャツの胸は、すでに黒く乾きはじめた血で変色しているのだ。
「――この怪我で、あれだけ動いたのか?」
とても信じられなかった。
魔砲云々以前に――これだけの傷なら失神するような痛みに苛まれているにちがいない。
その痛みを押し殺し動くだけでも、その精神力はいかほどか。
しかしさすがに限界がきたにちがいない。
少年は動けないとわかるとふと力を抜き、そのまま意識をなくしたように目を閉じた。
「――だれですか、このひとは?」
ユイが恐る恐るというように少年の顔を覗き込む。
リクは首を振り、噴水の近くで倒れているふたりにちらりと目を向けた。
「ユイさんは向こうのふたりを見てやってくれるかい。ぼくは彼を――ん?」
聞きなれない声と言葉が聞こえたと思うと、近くの植え込みの陰からぱっとだれかが飛び出してきた。
少女である。
ひとりの少女が地面に倒れた少年に駆け寄り、なにかを叫びながら助け起こそうとしている。
どうやらふたりは知り合いらしいが、とリクはしばらく様子を見ていたが、ふしぎなのは少女の言葉がまったく理解できないことだった。
ヴィクトリアス王国の言葉でも、ほかの国の言葉でもない――そのどこの言語とも似ていない言葉で、それを少女が流暢に話しているだけでもリクには異様に感じられた。
しかし、なんにしてもコミュニケーションが取れないことにはどうしようもない。
リクは少女の肩を叩き、自分は悪者じゃないよ、と表現するようににっこり笑って――それがどこかぎこちなく、少女はひっと泣くような顔をしたので、慌てて作り笑いはやめて少女の額に指先を当てる。
四元素のどれにも属していない魔砲を使うには、ひとりではすこし厳しかったが――そこは腐っても世界一と謳われる王立フィラール魔砲師学校の教師、瞬間的にはとはいかないが、言語交換魔砲をかける。
それではじめて少女の言葉がリクにも理解できるようになった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん――」
「あー、きみは彼の妹かい?」
少女ははっと驚いたようにリクを見たあと、こくりとうなずいた。
「お兄ちゃん、怪我してるのに――」
「たしかにひどい怪我だ。すぐに医務室へ運ぼう――さすがにもう暴れないだろうし」
「暴れたわけじゃないもん! お兄ちゃんはただ……」
「詳しいことは医務室で聞こう。きみもいっしょに――できれば彼を運ぶのを手伝ってくれるかい? ひとりじゃちょっと重たそうだし――」
「重たそうって――」
なんだこの眼鏡は、と言いたげな少女の視線だった。
実際、それからすこし遅れて、なんだこいつ、と少女はちいさな声で呟いていたが。
一方ユイはといえば、クラスメイトでもあるクルスとジェイクに近づき、ふたりともそれほど大きな怪我がないことを確認する。
「なにしてるんですか、ふたりとも。ケンカをしてるって聞きましたけど」
「うっ――そ、それはまあ、いろいろあるんだよ、男には。な、ジェイク」
「そ、そう、いろいろあるんだ」
ふたりとも視線を逸し、なんとなく怪しい。
まあ、いまはその理由を追求しているときではない。
「……あのひとは、だれなんですか?」
「知らないよ、こっちが聞きたいくらいだ。なんなんだ、あいつ。突然おれたちの決闘に割り込んできて――スパイじゃないかって言ってたんだけど」
「スパイ?」
「うちの学校にある本とかを盗み出す気じゃないかって。でもなんか、そういう感じでもなかったな――どっちにしてもやばいやつにはちがいないぜ。あいつ、竹刀なんか持ってたけど、絶対おれたちのことを殺すつもりだった」
その目つきを思い出したのか、クルスはぶるりと身震いする。
たしかに平和そうな人間ではないということはユイも感じていたが、同時になにか行き違いがあるのではないかという気もした――そもそも学校関係者以外がこの時間校内にいるはずはないのだが。
「とにかく、ふたりとも軽症にせよ怪我をしてるんですから、医務室へ行かなくちゃ――」
「あれ、ユイ? それに、クルスとジェイクも――こんなとこでなにしてるの? それに、なんか騒ぎがあったみたいだけど」
「あ、リリア――」
後ろからやってきたのはやはり同じ三年生のリリアだった。
金髪が派手な女子生徒で、どうやら騒ぎを聞きつけてやってきたらしい。
ユイが事情を説明しようとしたとき――まあ、まだ事情はなにもわかっていないに等しいが――、それを遮るようにクルスがふるえる声で言った。
「あ、あの、りり、リリア――そ、その、後ろのやつはいったい?」
「え、ああ……」
リリアはすこし後ろで待っている男子生徒を振り返り、恥ずかしそうに笑った。
「なんていうか、その、ボーイフレンド?」
「ぼ、ぼぼぼ、ぼーいふれんど……ふ、ふーん、そうなんだ、へえ。と、年上のやつ?」
「そう、四年生。あれ、ふたりとも、怪我してるの?」
「い、いや、別に、なんでもないよ、これくらい。な、ジェイク」
「お、おお、おう、まったくなんでもないよ、あはは」
「ふうん、変なの――ま、いいや。じゃ、ユイ、あたしたちデートの途中だから、また明日ね」
「あ、はい、また明日」
リリアは暮れかけた夕暮れに金髪をなびかせ、年上の男とともに去っていった。
その背中が見えなくなると、クルスとジェイクはがっくりと項垂れる。
「……知らなかったな、リリアにボーイフレンドがいたなんて」
「ああ、知らなかった……知ってたらこんな決闘、しなかったのにな」
「ふたりとも、決闘をしてたんですか?」
「そうだよ、勝ったほうがリリアに告白するって――」
「う……それはあの、なんというか、ご愁傷さまというか……」
ふたりは同時に深く、心臓を吐き出すように深くため息をついた。
どうやら肉体的な傷よりも精神的な傷のほうが深そうなので、ユイはそっとふたりのもとを離れ、リクに近づいた。
「あれ――」
いつの間にか、倒れた少年のそばにひとりの少女が座り込んでいる。
Tシャツに短パンという活発そうな格好の少女で、少年よりさらに二、三歳は年下に見える――少女は心配そうに少年を見下ろし、少年のほうは完全に意識をなくしてぐったりと固い石畳に横たわっていた。
少年の白いシャツは、そのほとんどの範囲が毒々しい血の色で汚れている。
ユイはそれに眉をひそめ、しかしふしぎと先ほど感じたような恐ろしさは感じなくなっていた――目を閉じている少年は歳相応に幼さが残り、ひとの心を突き刺すような剣呑さはどこにも見当たらない。
さっき感じた恐怖は気のせいだったのだろうか――それとも。
「おーい、野次馬のだれか、手を貸してくれ。この子を医務室まで運ぶから」
いつの間にか水の広場には大勢の野次馬が集まっていた。
リクはそのなかから力が強そうな男を何人か選び、自分は楽をして、少年を医務室まで運ぶ。
少年に付き添っていた少女は当然のようにそれについていって、リクも後ろを歩いていくから、なんとなく、ユイもそれについていった。
「あの、先生、大丈夫ですか?」
「ん、なにが?」
「さっき、竹刀で――」
「ああ、まったく大丈夫だよ。竹刀が新品なら意識が飛んでたかもしれないけれどね、あはは」
「笑いごとなんですか、それ……」
「しかしまあ、びっくりしたよ――魔砲師になってから身体に一撃喰らうなんてはじめてのことだったし。ま、油断してたのもあるけど、彼、すごい身のこなしだったな。どうやら訓練を受けた魔砲師じゃなさそうだったけど――」
――そうだ、とユイも遅まきながらその事実に気づいた。
あの少年は魔砲師でもないのにクルスとジェイクを倒し、一流の魔砲師であるリクに一撃を喰らわせたのである。
果たしてそんなことがあり得るだろうか――魔砲師ひとりで武装した軍隊一個小隊以上の力があるとされているのに、魔砲師でもないたったひとりの少年が、竹刀一本で魔砲師候補生ふたりと魔砲師ひとりを圧倒するなど、そんな夢幻のようなことが――。
ユイは男たちに運ばれて医務室に向かう少年の顔を改めて覗き込んだ。
意識を失ったその顔は、ただただふつうの少年にしか見えなかった。