第一章 その1
魔砲世界の絶対剣士
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探していたのはわずかな痕跡だった。
ほんのわずかでいい、〈あれ〉がどこへ消えたのか、そのわずかな痕跡でも残っていれば、そこから世界を辿ることができる。
時空魔砲は決して容易なものではない。
歴史上、名のある魔砲師がほんの数回行った記録が残っているだけだ。
もし本当に時空魔砲が行われたなら、その痕跡は現在でも必ず残っているはずだった。
しかし痕跡を見つけ出すことは困難を極める――まるで広大な大陸でたった一枚の硬貨を探し出すようなものだ。
諦める要素はいくらでもあった。
時空魔砲が行われたと考えられる時代からすでに月日が経っているということ。
手がかりと呼べるものはほとんどないこと。
推測に推測を重ねた、いまにも崩れ落ちそうな塔の上に立って探さなければならないということ。
平凡な魔砲師なら簡単に実現不可能だと決めつけるだろう。
たしかに、そう決めつける魔砲師には実現不可能にちがいない。
実現可能なのは、最後まで実現可能であると信じた者だけだ。
果たして、痕跡は見つかった。
いまにも消えかかる蝋燭の炎のように、痕跡はその場所で待っていた。
奇跡は起こったのだ――あとはただ、理想を実現させるだけだった。
いまだだれも成し遂げたことがない、大魔砲師の理想を――。
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剣先は見ない。
まわりの風景も、足元も見ない。
目はつぶってしまってもかまわないとさえ思う。
勝負を分ける一瞬に、視覚は追いつかない。
視覚に頼っているようではだめだ。
視覚を消し、聴覚も消し、あらゆる思考と感覚を白く塗りつぶしたあと――そこに残っているのが、戦いの極意になる。
極意とはすなわち呼吸である。
呼吸をしない生き物はいない。
また、呼吸と無関係に行動できる生き物もいない。
すべての生物は呼吸というあるリズムによって生き、行動している。
そのリズムを感じるということは相手の生を感じることであり、行動の先を取ることでもある。
呼吸。
相手の呼吸を探れ。
緊張し、浅くなった呼吸――吸って、吐き、吸って、吐き。
じり、と足元が動く。
しかしそれは欺瞞である。
こちらを誘い込むための、わざと作られた隙にすぎない。
本当の隙は、そのような行動にはない。
呼吸、その一点にのみ隙が生まれる。
人間はだれでも、息を吸い込む途中に力を込めることはできない。
無意識ならなおさら、力を込める一瞬とは息を吸い込み、吐き出すまでの一瞬に決まっている。
相手の剣先がふらりと揺れた。
呼吸が一瞬止まる――相手が打ち込んでくる二刹那前。
「――ったああ!」
甲高い掛け声と、竹刀が打つ音。
審判は声を上げない。その一撃は確実に防がれていた。
相手はまた距離を取る。
呼吸の乱れ。
いまの一撃は仕留めるための一撃だったにちがいない。
それをいともたやすく防がれ、動揺している。
浅い呼吸を繰り返す。
それだけ隙があるということ。
行動に移るタイミングはいくらでもあった。
しかし彼は動かなかった。
彼は大胆不敵にもこの試合の目標を勝利ではなく、新しい次元への開眼に向けているのである。
方や勝敗に賭ける剣士。
方や勝敗を度外視し、新たな境地へ立ち入るために構える剣士。
争う前から勝敗は決していたといってもよかった。
彼は相手の呼吸を自分の呼吸のように感じていた。
息を吸うタイミング、吐くタイミング、それがすべて手に取るようにわかる。
そうなると、相手が自覚さえしていないであろう、ほんのわずかな筋肉の軋みが、指先の圧力が、視線の揺動が、面を通して約二メートルの空間さえ貫いてひしひしと感じられるのである。
ふしぎな感覚だった。
相手のことは自分のなかに作られたもうひとつの自分のようにわかるのに、自分の感覚が空白になっていく。
それは、と彼は考えた、相手の呼吸を意識しすぎて、自分の呼吸を感じられていないせいだ。
まったく、これだから若輩者なのだ、自分は。
自分を見ずして、いったいなにが見えるというのか。
「――はあっ」
彼は短く息を吐いた。
仕切り直し――そして不甲斐ない自分を叱るための一息。
相手はそれを威嚇と受け取ったらしい。
同じように声を上げ、再び突っ込んでくる。
面を狙うような仕草。
しかし視線は篭手に向かっていた。
竹刀がうなる。
鞭のように大きく撓ったそれが手元を狙うが、彼はこともあろうにその剣先を柄で受けた。
手首をわざとひねり上げ、柄の裏側で竹刀を受け止めたあと、彼はそのまま手首をひねって胴を抜いた。
審判の「一本」を聞くまでもなく、手応えで打ち損じがないことはわかる。
彼はまだ面の状態で呆気に取られている相手にくるりと向き直り、一礼をした。
「――勝者、久代高校!」
わっと歓声。
彼はそれが聞こえないかのようにすっと背筋を伸ばしたまま場を下り、礼をして、列に戻ってようやく面を脱いだ。
戦いのために研ぎ澄まされ、そしてある種鈍感になっていた五感が、ゆっくりと日常に戻ってくる。
遠い海のさざなみのように歓声が押し寄せ、最後にははっきりと聞こえるようになって、ほかの部員の歓喜や祝福の声が届き――そのなかに、
「お兄ちゃん、ナイス!」
二階席から身を乗り出すようにして親指を突き出している少女の姿を認め、彼はゆっくりと息を吐き出し、苦笑いするのだった。
*
なんていうかさー、と玲亜はソーダアイスをかじりながら不満そうに言った。
「なんかこう、もうちょっとあってもいいと思うんだよね、うん」
「もうちょっとって、なにが?」
カップタイプのアイスを木のヘラでえぐり取りつつ、布島桐也は首をかしげる。
「だって、高校日本一だよ? 現状、日本一剣道が強い高校生なわけじゃん、お兄ちゃん」
「いや、そうとも限らんぞ。世間には大会には出てこない強者たちも大勢いるだろうからな。ああ、いつかはそういう強者たちと剣を交えたいもんだが」
「あー、また出た、お兄ちゃんの妄想剣士」
「妄想って言うなっ」
「いないって、実際にはそんなの。大会に出てくるひとが強いひとたちだよ。そんなね、世の中に出てこない超最強の剣士とかはいないの、現実には」
「う……そ、そんな否定しなくてもいいだろ。いるかもしれないじゃん、どっかには……」
「いない。絶対、いない」
「おまえには夢がないな、玲亜」
「お兄ちゃんの世話をするあたしに夢を見ているひまなんてないのです」
夕暮れの住宅街。
大会を終えた桐也と玲亜は、遠征先の高校から電車に揺られること一時間、ようやく地元に帰り着き、コンビニでアイスを調達して待ちきれずに食べながら帰宅しているところだった。
時間は六時のすこし前。
ちょうどいい時間で、夕焼けは赤々と空を焼き、あたりにはどこからともなくおいしそうな夕食の匂いが漂ってくる。
桐也は制服に竹刀ケースを背負い、玲亜は応援だけのためTシャツに短パン姿、この暑さに溶け落ちそうなソーダアイスと格闘を繰り広げている。
「わっ、やばい、溶けてきた――」
「だからカップにすればよかったんだ」
「ソーダが食べたかったんだもん。あー溶けるー!」
最後は木の棒ごと口のなかに突っ込み、ぎりぎりセーフ、というように玲亜は笑う。
「ふぇれふぇふぁ、ふぁっきのちゅじゅきふぁけふぉ」
「え? フェレットがファッキン痴女と耽ってた?」
「さっきの続きだけど! ファッキン痴女ってなによ。逆にファッキンじゃない痴女ってあるの?」
「知らんが、そういう言葉を言っちゃいけません」
「言わせたのはお兄ちゃんのくせに……さっきの続きだけど、言うなれば日本一の高校生なわけじゃん、お兄ちゃん。ちょっと妄想入り気味の自称剣士だけど」
「妄想入ってないし、おれ、剣士だから」
「ちょっと頭弱いけど、剣道は日本一なわけじゃん。だったらさ、もうちょっとなんかこう、特別なものとかあってもいいんじゃない? リムジンで送り迎えとか。優勝賞金一千万円とか。黄金の竹刀プレゼントとか。なーんにもないじゃん、そういうの」
「黄金の竹刀はもはやただの狂気にして凶器だと思うが」
「……え、そんなんでうまいこと言った感かもし出されても困るんですけど」
「……日本一って言ってくれるなら、もうちょっと敬ってくれてもいいと思うんだ、おれ」
「それとこれとは話が別。なのにさー、アイス食べながら歩いて帰るって、ぜんぜんいつもどおりじゃん。優勝した甲斐なし!」
なし、と腕を交差させて大きな×印を作る玲亜に、桐也もそろそろ溶け出してきたアイスをどうやって平坦な木のヘラですくおうか考えつつ、
「そんなことはない。なんといっても日本屈指の強豪相手だからな。戦いのなかで得られるものはたくさんあった」
「うそ。あたし、わかるもん。お兄ちゃん、最後、手ぇ抜いたでしょ?」
「ぎくっ――そ、そんなことないよー、あれが全力だよー」
「下手くそ。二重の意味で下手くそだね。最後、本気出したら二秒で終わってたくせに、手ぇ抜いて長引かせたの、わかってたもん」
「いや、二秒はさすがに……でもよくわかるな、そんなの。なかなかの観察眼を持っておるようだ。どうじゃ、お主、剣道をやらんか?」
「やらん。くさいから」
「うっ、美しくて強い剣道唯一の欠点を突くとは……」
しかし手を抜いたわけではない、というのは、うそではない。
試合のなかで得られるものがあった、ということも。
今回の試合に限った話ではなく、幾度とのなく他人と戦い、わかることは、自分はまだまだ未熟だ、ということだった。
自分と向き合う練習だけでは、ともすればもはや隙などなくなったような錯覚に囚われることもあるが、他人と対峙してみればそれがいかにひどい勘違いなのかわかるというもの。
相手は自分の予想もつかない行動を取る。
そのとき、それまで積み上げてきた鍛錬すべてが試されることとなり、気を抜いた鍛錬を行っていれば新たな局面に対処することもできずに敗れ去るのみなのだ。
今回もまた、桐也は自分の未熟さを痛感していた。
相手を見るという意識をつけすぎ、自分が疎かになる――これはまったく、お笑い草である。
相手とは、自分に相対するもの、である。
自分なくして相手はない。
相手とはすなわち自分の転写であり、自分とはすなわち相手の転写であるはずなのに、自分をなくして相手を見るとは、幻を見て実体を見ないのと同じ。
今回ももちろん、相手に同情するとか、場の空気を考慮して速攻劇を演じなかったのではない。
剣士たるもの、相手の力量がどうであれ、真剣勝負で手を抜くなど言語道断、そんな生半可な覚悟で場に出ればいかに強かろうが勝利はない。
いつでも本気、全身全霊ではあるが、求めるところが相手とはちがっていた――それが速攻劇にはならなかった理由である。
もっとも、高校剣道日本一を決める大会の大将戦において勝利ではなく剣技、あるいは剣闘の向上に主眼を置く桐也は、やはり相手からしてみれば戦いたくはない相手なのだろうが。
久代高校剣道部二年、布島桐也といえば、高校剣道会で知らない人間はいない有名人だった。
曰く、
「布島が出てきたら、諦めろ。全力で当たって稽古をつけてもらえ」
と他校の顧問が口走るほどである。
ただ、本人にその自覚はいまいちなく、それが身近な玲亜からしてみればすごい人物なのだからもうちょっとすごそうにすればいいのに、と唇を尖らせる理由でもあるのだった。
「でもほんと、優勝賞金が出れば、うちの孤児院ももうちょっと立派になるのにねー」
「まあ、そのへんはしょうがないだろ。高校の大会だし」
「ねえ、剣道って儲かるの?」
「考えたことないけど、どうなんだろうな。まあ、一流の剣士にもなれば、講師やらなんやらで食うには困らんだろうが。しかしそうなると自分の鍛錬に割ける時間も減るしなあ」
「お兄ちゃん、まだ強くなるつもり? いまでさえそこそこ異常なのに、もっと強くなったらオリンピックとかで優勝しちゃうよ。そうだ、お兄ちゃん、オリンピック出ればいいのに」
「剣道はオリンピック競技じゃないからな。それに剣の道というのはスポーツではなく武道であってだな、自己を鍛える鍛錬であると同時に他を傷つける武であることも忘れてはならず――」
「あーまためんどくさい話がはじまった」
まあ、これだけの剣道、剣士オタクでなければ強くはなれないのかもしれないけど、と玲亜が諦めにも似たため息をついた、そのときだった。
「――え?」
ふたりが歩く、なんの変哲もない住宅街の路地。
その目の前が、一瞬にして黒く塗りつぶされた。
桐也は球体を見た。
あらゆる光を吸収するような漆黒の球体が空中に現れ、それが拡大し、まるで視界に欠落ができたようにふたりの前方五メートルほどの場所が黒く塗りつぶされ、その向こうにあるはずの交差点も、交差点を往来しているはずの自動車も見えなくなっていた。