中編
それは本当に、あまりにも突然で俺はその崩壊を受け入れられずにいた。
最初の異変は断続的に訪れる吐き気だった。
今までは気にならなかった、訓練後の男の汗濃縮120%の匂いに我慢できなくなった。
くせぇぇ…うぇ!と口を押えた俺を心配して、異臭の元々が駆け寄ってきてくれてので、盛大に吐いた。
そして更には大好きだったご飯の匂いまでもが、吐き気を催すものになった。
体がおかしい。
始終眠いし、だるい、微熱もある。腹も張るし、胸も痛い。
嫌な予感と不安が過った。
ここ数か月、月のものが来ていない。
常日頃、それを煩わしく感じていた俺は
「ついに俺も完全なる男となったか、ははは」
と深く考えていなかった。俺はバカだ、大バカ野郎だ。
俺は出来得る限りの女装をし、町はずれの医者に行った。
結果は大当たり。
俺は子を孕んでいた。俺はその事実に茫然となりながら、宿舎に戻った。
ベッドに座り込み、腹を抱えながら、途方に暮れる。
どうすれば良い?どうすれば良いんだ?
男として生きると決めた時から、一度として泣くことはなかったのに、俺はボロボロと涙を零し、一晩中しゃくりあげていた。
心のどこか冷静な部分で
「これがマタニティーブルーってやつか…」
などと思いながら。
それからしばらく、心と体の不安が相まって、俺は部屋から出ることが出来なかった。つわりも酷く、睡眠が足りぬゆえに頭がガンガンと痛む。
栄養たっぷりの宿舎の食事は見るだけで嫌気がさし、食事も碌にとれなかった。
辛うじて、レモン水とお菓子だけは口にしていた。
そんな俺の不調は団長が知るところになって、引きこもりとなっていった俺の部屋にわざわざ団長が訪れてくれた。
団長はベッドの上に座る変わり果てた俺を見て目を見開き、眉を潜めた。俺は痩せ衰え、末期患者のようになっていた。
団長は俺を気遣いつつ、事情を尋ねてくれた。
事実を口に出来るはずがなく、俺は不覚にも団長の前で涙を流してしまった。
女のようなメソメソとした泣き方でも、男のような唸る泣き方でもない。
癇癪を起した子供のような泣き方だった。
びぇぇぇぇんと泣きだした俺に、団長は言葉を失っていたようだが、不器用ながらも精いっぱい慰めようとしてくれた。
「何があったのだ。俺に話してみろ」
「はなっ…はな…っ俺…どぼ…じていいか…」
しゃくりあげて、鼻が詰まって何を言っているか分からなかっただろう。俺も何を言っているのか分からなかった。
びぃーびぃー泣き喚く俺を、団長は男のくせに情けないやつだ、と呆れることなく一晩中付き合ってくれた。
それから、団長は毎日俺の様子を見に来てくれた。
事情も言わずに、騎士団としての責務を果たせぬ俺を、団長は責めることなく、ただ只管気遣ってくれた。
体調の悪さは依然として、つわりも悪化していた。
そんな様子を見て、団長は俺が深刻な病に罷ったのだと誤解していた。無理に事情を聞こうとはせずに、俺の食べられそうな食べ物を探してくれたり、寝やすいよう寝台を整えてくれたりなどしてくれた。
敵を容赦なく切り捨てる非情さを見せる反面、弱ったものを見捨てることなく見返りのない優しさを見せる男。
かっけぇ、やっぱり団長は男の中の男だ。
元より俺は団長のその筋の通った性質や、その剣に憧れを抱いている。
その好感度がここに来て、更に直角に上昇した。俺なんて平民出の下っ端団員だ。本来、団長の傍に寄ることさえ出来ねぇ。
団長は俺に目をかけて、稽古をつけてくれたりするけど、それだって他の貴族出身の騎士ではありえないことだ。
それなのに、団長は食事さえままならない俺を気遣って、細々とした世話を焼いてくれた。
「…………………」
養生せよ、と低く言い置いて部屋を出て行った団長の背を見送り、俺は決めた。
この子を生もう、と。
落ち着いて考えてみれば、この子は団長の血を受け継いでいるのだ。
優しさと厳しさを合せ持つ団長の子なのだから、素晴らしすぎるほど良い子に違いないと、その事実はストンと俺の胸に落ちてきた。
そんな団長の子を生まずして何とする、男だろ、腹を決めろ!
俺は自分を叱咤激励し、何が何でも生む!と決意した。
そう決めた時から、つわりも治まっていて、激落ちしていた体力も回復して来た。
俺は団長の誤解を解くことなく、病と言う嘘を貫いて退団を申し出た。団長は俺を引き止めることはなかった。
ただ、俺は優秀な騎士であると褒めてくれ、病を克服して戻ってくることを望むと言ってくれた。
行き先をこの国の外れ、海に面した町の名前を告げると団長が怪訝そうな顔をした。
大商人である養父の元に身を寄せるものだと思っていたらしい。
俺は、実子が生まれたため名ばかりの養父になったことを告げた。団長はあっさりと話す俺に眉を潜め、胸元にしまい込んでいた鈴飾りをくれた。
純銀で出来たそれは澄んだ音で空気を震わせた。
「持って行け。売れば幾ばくかの金になる」
「…っ頂けません」
その意匠も、鈴飾りにはめ込まれた青い宝石も一見して価値あるものだと分かる。しかしこの鈴の価値は金にあるわけではない。
団長の今は亡き母君がお守りとして団長に託したものであると騎士団に属するものならば、みな知っていた。
そんなものを受け取れる筈がない。
まして俺の病は偽りなのだ。中々決着のつかない押し問答は、団長が引き下がることで終結を迎えた。
俺はその事にほっとして、団長が俺の荷物に忍ばせたことに気付かなかった。
俺がその鈴飾りを発見したのは、新しい街の新しい家に移り住んだときだった。荷解きをしていると、見覚えがない麻の袋が転がり出てきたのだ。
何だ?と不思議に思って、中を取り出してみれば軽やかに鳴る鈴の音。
「………やられた…」
返す方法も分からず、俺は袋に入れて無くさないように首から下げていた。たまに心が弱った時には、それをチリチリと鳴らして自分を慰めた。
8か月に入り、腹もパンパンに膨らんできた。
俺は養父の元で培った算術を使って、細々と生活の糧を稼いでいた。騎士に対する給金はそれなりだったので、貯えも少しはある。
俺はともかく、無事に子が産めるように安定した生活を送っていた。
そんな折、突然団長が訪ねてきた。
団長曰く、訪問する旨をしたためた文を出したそうだが、その文よりも早く団長が到着してしまった。
先触れの意味なしだ。
頼んでいたミルクとパンが届いたのだと勘違いして、扉を開けた俺は団長の姿を見て、ぴきんと固まってしまった。
そして団長も俺の腹を見て、言葉を失っていた。
「………そのっ…腹は…なに故に…」
「あのっ…たっ…食べ過ぎっましたっ!」
びしっと敬礼したまま、あからさまな嘘に対する団長の言葉に身構える。しかし団長は、そ、そうか…と顎を引いて、低く頷いた。
「いや、すまない。医師でもないのに、不躾なことを聞いた」
どうやら団長は俺が不治に近い奇病にかかったのだと誤解したようだ。
団長は気まずそうに俺を見て、腹を触って見てもいいかと申し出てきた。
断る理由もなかったので頷けば、団長は恐る恐る俺の腹に手を置いた。その瞬間、俺の腹がびくっと跳ねた。
「…………………っ」
流石、団長の子だけあり、生まれる前から鍛錬を怠らないようだ。俺の腹の子は良く動いた。
良い子だ、良く励め。
ご満悦で腹を撫でる俺とは真逆に、団長は痛ましげに顔を歪めた。
団長は、何か言おうと口を開いて、しかし何も言わずに閉じた。そして絞り出すようにありきたりの言葉を呟くと、そのまま去って行った。
それから数日後、団長から少なからずの金が届けられた。添えられた文には【決して諦めてはならない】としたためてあった。
団長は、俺が一体なんの病気になったと思っているのだろう?
俺は【心配させて申し訳ない。治す病ではないので金は不要です】と文を添えて、金はそっくり送り返した。
そして数か月後、俺は元気な男の子を生んだ。
誰よりも元気な声で泣き、良くミルクを飲み、良く笑った。俺は、その子にアレクシエルと名付けた。
赤子の目は海の青より深い澄んだ色をしていた。団長と同じその目の色は、深海の蒼と呼ばれる宝石、アレクシエルによく似ていた。
団長はDNAまで強いのか、俺が生んだと言うのに俺の要素は殆どなく団長にそっくりの容姿をしていた。
目の色や髪の色までそっくりだ。
俺は団長にそっくりのアレクに夢中になった。何をしても可愛いのだ。
団長の血を引くのだから剣術に長けているに違いないと思い、ガラガラと鳴る玩具を握らせれば、アレクはそれで力強い素振りを行った。
やっぱり、将来有望だ。
俺は基礎体力があったので、産後の肥立ちも良く、少しずつ仕事を再開していた。貯蓄はあるが、アレクの将来性は無限大なので、お金は必要だ。
そしてお金が必要なもう一つ大きな理由があった。近い将来、俺はこの町を出る計画を立てていた。
この町は、夫を持たない俺に冷たい。
海に面して、ゆったりとした空気が流れているように思えたこの町は、思っていた以上に保守的だったのだ。
親もなく、そして父もおらず、一人でアレクを育てている俺を見る目は厳しい。娼婦のように言われていることを知っている。
俺一人に向けられるのならば屁でもないが、しかしアレクに向けられるのなら話は別だ。
アレクが言われもない中傷を受けるのに俺は耐えられない。
アレクの父は、勇猛果敢で知られる騎士団長なのだ。ひそひそと陰口を叩かれるような、ろくでなしが父親などではない。
団長と言えば、数週間前再び、俺を見舞いに来てくれた。
今度は、文の方が先に到着したので、俺はある程度の心構えと準備が出来た。
近所の同じ境遇の女に金を払ってアレクを預け、赤子用の諸々のものを隠し、団長を迎えた。
団長はぺったりと凹んだ俺の腹を見て、無言になった。
「……て、摘出したのか…?」
「摘出と言いますか…、自然治癒と言いますか…」
ごにょごにょと言葉を濁す俺を見ながら
「治ったのか?」
眉間にこれでもか、と皺を寄せつつ団長らしくない小さな声で問うてきた。
俺は、はいと強く頷いた。説明できぬとはいえ、病と思わせ、いつまでも心配させるのは心が苦しい。
俺のきっぱりとした返事に、団長はほっと息を吐いて体の強張りを解いた。
団長は騎士団への復帰を勧めてくれたが、当然のことながら俺はそれを断った。以前の俺の夢は、団長のような男の中の男になることだった。
でも今は違う。
今は、アレクを守れる誰よりも雄々しい母になりたいのだ。
団長は、再入団を無理に勧めることはなかったが、残念だと呟いた声には実感がこもっていて、それは少なからず俺を感動させた。
俺は礼を言って、例の鈴飾りを返そうとした。
治療費と言う理由がない今、あっさりと受け取ると思ったが団長はなぜか拒んだ。治ったとは言え、病後は静養せねばならぬのだから、金が入用だろうと。
また前と同じような押し合いになった。
今、返せなければ生涯返せないことになる。近い将来この町を出ることを決めていて、そしてその行き先を団長に知らせるつもりはなかった。
団長は由緒正しき家の出だ。もし仮に俺とアレクの存在が露見すれば、団長が掴みとった成功が台無しになる。
いくらでも誤魔化しようはあるが、しかしアレクは団長に似過ぎてしまっている。なんせ髪質まで同じなのだ。
騎士団を率いている団長には敵も多い。付け入る隙は作らせない方が良い。
もう会わない。俺はそう決めて、強く鈴飾りを返した。団長は不本意そうではあったが、渋々とそれを受け取った。
俺はまた来る、と言う団長に頷いて、去っていく背を見送った。
俺が団長を見るのはそれが最後となった。
…その月の。
次の月文も出さずに、突然、副団長がやってきた。
眠くてぐずっているアレクを揺さぶってあやす傍ら、俺は荷物をまとめていた。
やはりよそ者であり、夫がいない俺に対する風当たりは強く、仕事に対する支払いも渋られるようになってきた。
ちょっとした嫌がらせの被害も出ている。
食料を買いに行っても、質の悪いものばかりを渡される。
もう少しアレクが大きくなったら、と思っていたが俺は早々にこの町を出る決意を固めていた。
その準備をしている最中、突如副団長が現れたのだ。
副団長は茫然とする俺と、すやすやと眠るアレクを見て、はぁぁとため息を吐いた。
そして。
その子は団長の子ですね、と確信を持った声で、そう言った。