passion
十時を過ぎてから白花は座敷を後にした。
アーケードはほとんどの店がシャッターを下ろしており、人通りも少ない。
汀を連れた白花は三条大橋を渡り、河原へと下りた。夜間に河原へ下りるのは自殺行為に等しい。汀も白花がいるから下りたが一人なら絶対にこんなことはしない。
「あの……どうして河原なんですか」
びくびくしながらも問いかけた汀に白花は笑う。
「人に見られると都合が悪い。五秒でいいから目を閉じてくれよ」
「はい……」
言われるままに目を閉じたとたん、何かが落ちるような音が聞こえたような気がした。五秒数えて目を開くと白花の姿はなく、かわりに白く大きな獣がいた。
梅雨の日、青花の背中越しに見た獣の毛色とよく似ている。青花のように青みがかった白ではなく、暖かみのある白だ。獣の足もとには白花が着ていた衣服が落ちている。
深紅の瞳の周囲を隈取るような朱の色が白に映えて美しい。
狼とも犬ともつかない獣は神々しい光をまとっているようにも見えた。
「服とか靴、拾って袋に入れてといてくれねえ?」
鋭い牙を生やした口からはうなり声ではなく白花の声が聞こえた。ぼんやりと獣を見ていた汀は慌てて服と靴を投げ出されたままのショップバッグに詰め込む。
何も言われなかったが、これが「犬神」としての姿なのだと汀は理解した。
おずおずと手を伸ばして喉元を撫で、頭を撫でるとすこし硬めの毛が手をくすぐる。白花は目を閉じて頭を上向け、汀の手からするりと逃げた。
「できればずっと撫でていてほしいが、アイツがうるさいからな――来るぞ」
白花の言葉が終わるか終わらないかのうちに地面に青白い光が射し、瞬く前に何かの文様を描いたかと思うと前触れもなく白い獣がもう一頭、姿を現した。
白花に比べれば小さいが、猫にしては大型の獣は汀にとって見慣れたものだった。
立ち尽くす汀を一顧だにせず、大きな猫は言葉を発する。
「……貴様は何をしている」
「助手を連れてきてやった。ありがたく思え」
鼻先でせせら笑った白花は汀が手にしていたショップバッグの持ち手をくわえて奪うと勢いよく跳んだ。白い軌跡を残して白花が消え、河原には白い獣――青花と汀だけが残された。
地表にはまだ青白い光が不思議な文様を描いて揺れている。
青花は二股に裂けた尻尾を揺らしていたが汀を見る。見る、というよりは一瞥すると表現した方がいいのかもしれない。
水が流れていく音だけが聞こえる。不思議な事に、道路を走っているはずの車の音は全く聞こえてこない。
汀は何も言うことができずにいた。久しぶりに会えたという事もあるし、青花が恐ろしく不機嫌ということもある。しかし何よりも、口をきいてもらえないのではないかということが一番怖かった。
「――何か」
だから、不機嫌とは言え青花から声をかけてくれたことが嬉しかった。汀は必死になって言葉を紡ぐ。
「あ、あの。助けにきてくれて、ありがとうございます……嬉しかった、です」
「……助け?」
首を傾げた青花はああ、と呟いて尻尾の動きを止める。
「私の不注意から生じた事だ。当然の事をしただけだ」
「それと、彩子さまから……無事に連れ戻してくれてありがとうと、伝えてくださいと言われました」
「同じ事を伝えておいてくれ」
恐ろしく素っ気ない返事を返した青花はようやくまじまじと汀を見上げた。
強い光がないというのに、金と緑の瞳は内側から光を発するかのようにきらめいている。
「帰れ」
冷たく言い放ち、青白い光へと戻ろうとした青花に汀は思わず声を上げる。
「あの……っ」
今にも光の中に足を踏み入れようとしていた青花は動きを止めると光の外に足を下ろしてため息をついた。
「まだ、何か?」
別れを言いたい、と思っていたが青花を目の前にすると何も言えなくなってしまう。さようなら、というたった五文字がどうしても出てこない。
青花は光のそばで汀を見ている。
汀はコートの袖の中で両手を強く握り、うなだれていた。
河原を冷たい風が吹き抜け、汀の髪を揺らす。
やがて、青花のため息が聞こえた。
「まだ話があるのか、と聞いている」
うなだれたまま頷いた汀は視界の端でなにかが動く気配をとらえた。
「――こちらへ。あやかし共が君に気づいたようだ」
淡々とした青花の声に顔を上げ、周囲を見てみると桜の根元に不自然な影が見え隠れしている。青花がいるから近づいてこないだけで、汀を狙っているのは確かだった。
青花は汀に光の中へ入れとでも言うかのように二股に裂けた尻尾を大きく揺らすと一足先に足を踏み入れた。慌てて汀も光の中に入ると、河原の景色がどこかの室内へとすり替わってしまう。
驚きはしたが柑橘系の香りがかすかに漂い、見慣れた家具の配置で青花の寝室だと言うことがすぐにわかった。
青花はローベッドのそばに座っている。
ブーツを脱いだ汀は遠慮がちに歩み寄るとベッドに座った。部屋は冷たい空気で満ちていて、外とほとんど変わらない。
フローリングの床をしなやかな尻尾で叩きつける音は汀を部屋に招き入れたことが不本意、とでも表現しているかのように思えた。
「話は」
ひときわ強く、フローリングを叩く音がしたかと思うと突然音が止む。
物音一つしない部屋で汀は押し黙っていた。
ここまで不機嫌な青花は見たことがない。もしかしたら不機嫌と言うよりは不本意なのかもしれないし、すでに助手を解任した人間がやってきたこと自体腹立たしいのかもしれない。
それでも、青花に会えて嬉しかった。他のあやかしが気づいたからと部屋に連れてきてくれたことも嬉しかった。
嬉しかったから、別れの言葉が出てこない。たった一言で済むはずなのにその一言を口にするのが怖い。
物音一つしない部屋では時間の経過を感じる事ができない。
どれだけ黙っていたのかはわからないが、やがて青花がため息をついた。
「君に聞いてみたいと思っていた事がある。差し支えなければ聞いても構わないか」
思わぬ言葉に青花を見た汀は小さな声ではいと返事をした。わずかな間をおいて青花が語りだす。声ににじんでいた不機嫌さは消えていた。
「私は、君を見ていると不快に感じることが多かった」
淡々とした口調で投げ込まれた言葉は汀にとってあまりにもひどい内容だった。愕然としている汀をよそに青花は言葉を続ける。
「思考や感情を制御できない事が多く、息苦しさを覚える事もあった。恐らく、君といることは私にとって有益ではないのだろう。それでも私は君を見ていたかったし、触れたいと思っていた。人間にも同じような感情の動きがあるのか、あるのならそれをなんと呼んでいるのか……君がわかる範囲でいい、教えてくれないか」
斜め前に座っている青花が何を言っているのか、汀にはわからなかった。愕然としているうちに信じがたい言葉が聞こえてきてますます混乱してくる。
青花が語った言葉は汀が感じていた思いとよく似ている。話が本当なら、青花は汀に恋に似た感情を抱いていたということになる。
息を飲み、汀は震える声で呟いた。
「それは、恋に似ていますね……」
青花は尻尾を揺らして首を傾げる。
「何を持って恋とするかは定義できないと何かの本で読んだことがあるが――君は好きな男がいると言っていたな。だからわかるのか」
違う、と言いかけた汀は不意にあふれてきた涙を止めることができずにうつむいた。
涙はぼろぼろとこぼれ、握りしめた手の甲に落ちていく。
汀には好きな「人間の男」がいると勘違いされていることはわかっていた。それを否定しなかったのは、青花の事が好きだとわかってしまったら助手を解任されてしまうのではないかと思っていたからだ。それに、いつかは別れるのだからと事あるごとに言われてもいたから、勘違いされているままで構わなかった。
君は他の人間と違う、と伝えてもらえただけで満足していた。
それもこれも、青花が自分に対して特別な感情を抱いたりはしないという前提があったからこそだ。だから別れを告げようと思った。
青花が自分の事を好きでいてくれるなら、そんなことは考えたりしなかった。
喉の奥からしゃくりあげるような声が漏れ、汀は口元を手で押さえて泣き続ける。青花は黙ってその様子を見ていたようだが、静かに立ち上がると部屋を出て行ってしまった。
一人になった部屋で汀は子供のように泣きじゃくっていた。嬉しいのか悲しいのかすらわからない。どうして涙が止まらないのかもわからない。
しばらくして青花が部屋に戻ってきた気配がしたが、汀は顔を上げることもできずに泣き続けていた。そんな汀の頭に軽い何かがかぶさる。手探りで探ってみるとどうやらバスタオルのようだった。
いくら泣きじゃくっているからと言って、バスタオルは大きすぎる。
妙に冷静な事を考えた汀はバスタオルをたぐりよせると涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭く。
柔らかな肌触りに、猫の姿をしているはずの青花がどうやってこのバスタオルを自分の頭にかぶせたのかという事が気になってそっと顔を上げた。
そこには白い姿の青花がいた。ただ、美しい顔にはうっすらと木の根のようなアザが走っており、それは首まで続きさらには着物で隠れている胸にまで達しているようだった。
何をしてそうなったのかはわからないが、自分を助けた結果だということはわかる。白花はすき焼き屋の和室でいろんな事を話してくれたが、青花が何のためらいもなく白花を殺そうとしたことも教えてくれた。
止まりかけていた涙がまたあふれ出す。
涙でかすむ視界の中で青花はじっと汀を見ていた。
「何故泣く。君が泣くようなことは何もないだろう」
青花の静かな声が汀の心に染み入るかのように響く。激しく首を振った汀はしゃくりあげながら、言った。
「私が好きなのは、青花さんです」
ぼんやりとしか見えなくても青花が明らかに驚いた表情を浮かべるのがわかる。信じられないとでもいうように汀を凝視していた青花は膝をつき、怪訝そうな顔をした。
「君が好きなのは人間の男だと思っていたが」
「……違います」
否定の言葉を押し出して、汀はバスタオルで涙を拭いた。拭いても拭いても涙はあふれてくる。一体どこからあふれてくるのかと思っていると静かな声が聞こえてくる。
「君を遠ざけようとしても戻ってくるのは、私の事が好きだからか」
顔にバスタオルを押しつけたまま頷くと次の言葉が聞こえた。
「私が傷つくのが嫌なのも、白花に連れ去られたとき助けを呼ばなかったのもそれが理由か」
何度も頷くとそうか、と納得したような青花の呟きが聞こえ、静かになる。聞こえる音と言えば時折しゃくりあげる汀自身の声だけだ。
バスタオルから顔を上げると青花は真顔で何かを考えていた。静かな部屋はまるで時間が止まっているかのようで、汀はこのまま時間が動かなければいいのにとさえ思った。
しかし静寂は唐突に破られた。
「どうしても、君に別れを告げることができなかったのは、君を好きだからか」
青花は汀の目を見つめて呟く。
呆然とする汀の視界に青花の手が映る。自分の腕を掴んだ青花の手から煙が上がった事を思い出した汀は我に返り、青花の手から逃げようとした。
「逃げないでくれ」
体をよじり、逃げようとした汀は青花の苦しげな声に動きを止める。青花は上げかけていた手を下ろしてシーツを掴んだ。眉を寄せ、すがるような目で汀を見つめている。
「……頼むから、私から逃げないでくれ」
見たこともない青花の様子に汀は戸惑う。しかし、汀はおぼろげな記憶の中でも白花が青花に言い放った言葉をよく覚えていた。触れれば骨まで焼けて落ちる、という言葉。
腕を掴んだとき、青花の手から立ち上った煙は忘れていない。
「でも、触ると……」
ようやく呟いた汀に青花は少しだけ笑った。
「大丈夫だ。もう何も残っていない」
シーツを掴んでいた青花の手が汀の髪に触れる。かすかに煙が上がったような気がしたがすぐに消えた。
手は髪を撫で、頭を撫でるとそっと頬に触れる。慣れ親しんだ冷たい感触に汀はうつむいた。
「私はいつか、君を人ではない者に変えてしまう。それでも君は、私の隣にいてくれるのか」
人ではない者になる覚悟ならとうの昔にできていた。できなかったのは、別れを告げることだけだ。
小さく頷いた汀を青花は抱き寄せる。
冷たい感触に汀は夢を思い出した。冷たい腕が汀を抱き寄せてくれる、そんな夢だ。この腕の中でずっと眠っていたいと思った事を良く覚えている。
青花は汀を抱き寄せたまましばらく何も言おうとはしなかった。
「――ありがとう」
そっと囁かれた言葉に汀は着物をつかみ、青花の胸に顔を伏せ声を上げて泣いた。子供のように泣く汀を青花は黙って抱き続ける。
怖かったし辛かった。何よりも青花に二度と会えないことが悲しくて、悲しすぎて泣くことすらできなかった。何も言えず、ただ泣き続ける汀の髪を青花が撫でてくれる。
青花はいつでも汀に優しかった。青花だから、人ではない者に変えられてもいい。青花の傍にいることができればいい。
「好き……好きです……」
伝えたいことはたくさんあるのに好きとしか言うことができない。震える汀の言葉に青花は低く穏やかな声で答えた。
「……ああ」