望み -3-
また帰ってきてね、という子供たちの声が耳に残っている。
京に戻った汀は部屋の空気を入れ替え、荒れた寝室を整えて冷蔵庫の整理を済ませてから頼人に連絡を取った。
青花の部屋には何度か滞在したことがあるが、どこにマンションがあるのかは知らないので訪ねようがない。陰陽寮にはいるだろうが助手を解任された汀がいつものようにフロアに立ち入ることができるかどうかもわからない。
陰陽寮で一番連絡がとりやすい人、と言えば頼人しか思いつかなかった。
頼人は汀の連絡に快く応じてくれ、陰陽寮のメインロビーで待っているからと言ってくれた。
待ち合わせの時間よりもすこし早めにメインロビーについた汀は妙な違和感を感じてロビーを見渡す。
売店であやかし除けの品物を購入したり各種相談事に訪れる住人の多さは変わらないが、何かが足りないような気がする。
汀ちゃん、という呼びかけに振り返ると頼人が近づいてきた。しかし、頼人がやってきた方向にはエレベーターも階段も存在しない。
汀よりも早くメインロビーで待ってくれていたからだろう、と汀は深く考えずに頼人に歩み寄った。
「久しぶりだね。顔色もすっかり良くなって、本当によかったよ」
人なつっこい笑顔を浮かべた頼人は、ここじゃ何だからといいながらエレベーターも階段も存在しないはずの方角へと歩いていく。
「……あの、そっちには階段もエレベーターもなかったですよね?」
おずおずと問いかける汀に頼人は明るく、そうだねと返事をした。
「陰陽寮のフロア構成がめちゃくちゃになっちゃってね、エレベーターや階段を使うと、どこに行き着くかわからないんだ。下手したら迷って出てこれないかもよ?」
とんでもない言葉に汀は絶句する。陰陽寮が普通のオフィスビルではないことは知っていたが、どうしてそんなことになってしまったのだろう。そんな汀に頼人は笑った。
「なのでー、オレ達は結界をつなげて各フロアに移動してるんだ。全く、面倒な話だよね」
「どうして、そんなことになってしまったんですか?」
少なくとも今月初めまでは階段もエレベーターも正常に作動していたので不思議に思った汀は頼人に聞いてみた。すると頼人は一瞬だが真顔になる。
「青花さまが結界から抜けたから。今は戻ってもらったけど」
「青花さんが?」
「うん……」
頼人はそれ以上、何も言わずに壁に近づくと壁の一部分を軽く押した。
赤い光が壁を走り、人一人が通れるほどの長方形が描かれたかと思うとまるでドアのように内側へと開く。
壁の内側には緑あふれる植物園のような光景が広がっている。白い花が緑の中から下がるようにして咲き乱れる中に立っているのは部屋の主でもある多紀だ。いつものように緋色の着物を着ている。
「いらっしゃい。大変だったね」
花の下に設けられた席に招かれ、勧められるままに座ると多紀が小さな茶器で茶を入れてくれた。猪口ほどの大きさの杯に薄い金色の液体を注ぐと花のような香りが広がっていく。
不思議な香りの茶を少しだけ口に含むと鮮烈な香りが鼻に抜けるような気がした。
多紀は頼人にも同じ物を注いでテーブルに置く。
「多紀がお茶煎れるとか何年ぶり?」
「……いい茶葉を譲り受けたからね。せっかくだから汀さんにも楽しんでもらいたいと思って」
これもどうぞ、と勧められたのは緑色の干しぶどうと氷砂糖だった。風変わりなお茶請けに手を出せずにいると頼人が少量を取り分けてくれる。
「中国茶には甘いものが合うから。食べてみて」
半信半疑で干しぶどうを食べ、茶を口に含んでみると同じ飲み物だとは思えないぐらい味が変わる。中国茶と言えば市販のウーロン茶しか飲んだ事がない汀はため息をついた。こんなにおいしいお茶があるなんて知らなかった。
小さな杯だったので茶はほとんど飲み干してしまったが、それでも残り香がほのかに漂ってくる。手に包むようにして杯を持ち、香りを楽しむ汀を多紀が笑って見ていた。
「私のところに来てくれるつもりなのかな」
おっとりとした呟きが自分に向けられているとは思わず、何気なく顔をあげた汀は頼人が呆れた顔でため息をついている場面に遭遇した。
「……違うと思うけど?」
「そう? だって一番に訪ねてくれるってことはそういう気が――」
「汀ちゃんが訪ねてきたのはオレ。多紀はオマケ」
頼人はそう断言すると氷砂糖を一つつまんで口に入れた。不機嫌そうに氷砂糖を噛み砕く頼人に多紀は相変わらず笑っている。
「それは残念だね。せっかくお茶まで準備したというのに」
「お茶の一杯で汀ちゃんを籠絡できると思ったら大間違いだよ」
いつもと変わらない多紀と頼人のやりとりを聞いていると、何も変わっていないような錯覚を覚える。青花の使いで呪具室の多紀を訪ね、お茶をごちそうになって二人の会話を少し呆気にとられて眺めている。退室するタイミングを逃して長居してしまい、青花に嫌な顔をされる。そんなことが何度かあった。今も「何度」かの一度ではないかと――
しかし、汀は青花の使いで多紀と頼人を訪ねている訳ではないし、どれだけ長居しても誰に嫌な顔をされることもない。
「――で、相談って言うのは、仕事のこと?」
物思いにふけっていた汀は頼人の声で我に返り、無言で首を横に振った。やっぱりと呟いた頼人が笑っている。
「そんなことだろうと思った。青花さまの事なら……申し訳ないけど、力になれることはないよ」
先手をうつかのようにはっきりとした口調で言い切った頼人は一呼吸おいて言葉を続けた。
「今どこで何をしているのか、陰陽寮でも掴んでいない。ただ、前みたいに死にかけたりはしていないから安心して」
「……本当ですか?」
「うん。大丈夫だよ」
青花の事で力になれることはないとはっきり言われてしまい気分が沈んだが、以前のようなことにはなっていないと知ることができて汀はほっとした。それだけでも気分が軽くなる。
「よかった……」
口をついて出た言葉に頼人が困ったように多紀を見た。多紀はと言えば穏やかな笑みを浮かべたままだ。
「汀さんは、青花さまを探しているんだね」
柔らかな、しかしどこか冷たい多紀の声が無意識に浮かべた汀の笑みを消してしまう。漆黒の瞳がじっと汀を見据えていた。
「はい……」
「助手を解任したのは、近づくなという青花さまの意志だと思う。だからね、汀さんが探しているからと言って姿を現してくれたりはしない。それでも探すと言うのなら止めはしないし、気の済むまで探せばいい。でも、もし青花さまに会えたらどうするつもりなのかを教えてほしい」
多紀の問いに汀は言葉を詰まらせる。後悔したくないという一心で京に戻ってきたが、こんな話を聞いてしまうと本当にそれでいいのかという気になってしまう。
汀は何度も言いよどみ、それでもずっと考えていた事を口にした。
「お礼と、お別れを言うつもりです」
「――お別れ?」
目を細めた多紀に汀は頷く。頼人は目を伏せて話を聞いているようだった。
「何もしなかったらきっと後悔します。青花さんには会えないかもしれないけど、何もせずに後悔するのは嫌だと思ったんです」
多紀はしばらく黙っていたが不思議そうに汀を見る。
「別れを告げたら、汀さんは満足するの」
「――多紀」
頼人が目を伏せたまま、いさめるように多紀の言葉を遮った。しかし汀はゆるやかに首を振る。
「しないと思います」
「私にはよくわからないけれど、すでに別れると決めた者に対して別れを告げる気分というのは――」
「多紀!」
低く、鋭い声で名を呼んだ頼人が多紀をにらみつけている。いつも人懐こい笑みを浮かべている頼人の険しい表情に汀は唖然としてしまう。
多紀は変わらず笑っていた。
「何?」
「何故、そんなことを聞きたいのか教えてくれる。つまらない理由だったら口を縫いつけるよ」
「……知りたいからだよ。人間があやかしを追う訳を」
一拍おいて多紀は言葉を継いだ。
「私も長く生きているから、あやかしに恋をする人間を知らないわけではない。でも、彼らは見た目に恋をするだけだから本性を知れば必ず逃げていく。もしくは本性を知る前に魅入られてしまう。本性を知った上であやかしを追う人間は初めて見たからね――人間から去るあやかしも」
多紀の笑みがほんの少し寂しげなものに変わる。同じあやかしだというのに青花とは比べものにならない表情の豊かさに汀は内心驚いた。
「頼人の様子からすると、どうやら汀さんにひどい事を聞いてしまったようだね。他意はなかったんだけれど……人間の感情のありようはいつまで経っても理解できない。だから興味深い」
「言葉に表せない感情だってあるんだよ。あやかしだってそうだろうに」
頼人のため息混じりの呟きに多紀は少し遅れて目を細める。
多紀と頼人がどんな出会い方をして、いつから一緒にいるのかは知らない。恐らく当事者にしかわからない様々な出来事があったはずだ。頼人には怒られるかもしれないが、それでも汀は目の前の二人がうらやましかった。異なる生き物だというのに共にいる二人が。
うらやましくて、見ていると辛くなる。目を伏せた汀に多紀の声が聞こえた。
「青花さまは汀さんを連れ戻す為の手段を選ばなかったようだよ。直接目にした訳ではないし、話も断片的にしか聞いていないけれど神殺しも辞さないと言った勢いだったようだね。おかげで陰陽寮の各フロアは散り散りになってしまったし、結界も綻びて混乱しているけど、そんなことはどうでもいいんだ。手助けをしてあげることはできないけど、青花さまにとって、汀さんは神殺しの大罪を犯しても連れ戻したい人間だと言うことだけは確かだよ。それだけは覚えておいて」
多紀の言葉が真実なのかはわからない。真実ならいいと思ったし汀を慰めるための嘘だとしても良かった。二度と青花に会えなくても、多紀の言葉を思い出せば嬉しくなるだろう。
無言で頷く汀を多紀は笑って見ていた。
「……青花さまに会えると思う?」
汀をメインロビーまで見送った頼人は戻ってくるなりそんなことを呟いた。多紀は新しい茶の準備を整えながら答える。
「汀さん一人では無理」
素っ気ない多紀の返事にそうだろうね、と呟きながら椅子に座った頼人は干しぶどうを食べながら多紀を見上げた。
「もし、会えたら――青花さまはどうすると思う」
茶を注いだ杯を頼人の前に置いて多紀は小さく息をつく。
「大切にしている娘にああまで求められては、突き放す事はできないだろうね」
「……会えたらいいと思う?」
頼人の問いかけに多紀は華やかな笑みを浮かべて即答した。
「もちろんだとも」