闘技場の枯れ枝
……ジーナ! ジーナ! ジーナ! ジーナ!
闘技場に歓声が響き、ジーナの名が叫ばれる。
全方位を観客席に囲まれた、丸く広いむき出しの地面。
その真ん中に、ジーナは傷だらけで立っている。
必死に生き残ってきたジーナは、いつの間にか人気の闘士になっていた。
* * *
初めて闘技場に出された日。
商会主に折られた腕の骨はなんとかくっついていたが、まだ痛みは残っていた。薄布から覗く上腕……肩から肘までの間が、わずかに曲がり、ずれているように見える。そこに、これ見よがしに包帯が乱雑に巻かれていた。
透けるほど薄い、安っぽいロングドレスはヒラヒラと身体にまとわりつき、長い金髪がその上に無造作に垂らされている。
痛ましい怪我が残る痩せっぽちの哀れな少女。
その少女が可愛らしい顔を恐怖に歪め、オロオロと逃げ回り、転び、這いつくばって命乞いをするのを期待されているのだ。
そんなジーナが闘技場に引っ張り出されると、場内はわざとらしい哀れみの声で満たされた。
そこへ、商会主の声が響く。
「さあ! こちらに現れましたるは、かの英雄を父に持ち、当代一の踊り子を母に持つ、哀れな姫君でございます! 囚われの牢獄から逃げ出して、たどり着いた先がこの闘技場! ああ、なんと運のない!」
おおー、と場内が悲しげにどよめく。
なんだその口上。
確かに母ちゃんがそんな事を言ってたけど、あんなの場末の酒場の女の戯言だ。
英雄? 父ちゃんの記憶なんて、ほとんど無い。
当代一の踊り子? そんな女が娘を奴隷に売るもんか。
「追手から逃げる途中で崖を転がり川に落ち、枯れ枝のような腕を折って、哀れ満身創痍の濡れ鼠でございます」
まあ、満身創痍だね。
ジーナは呆れたように鼻を鳴らす。
顔のあざはほとんど消えていた。
可愛らしい方がウケが良いそうだ。
だが身体にはあざが残っていたほうが哀れで良い、と、昨日またボコボコに殴られた。
赤黒く、黄色く残っていた古いあざに、真新しい青いあざが重なった。
ジーナは開き直っていた。
ギリギリまで足掻いてやる。クソみたいな奴らに、一発でも反撃してやる。
キッと商会主を睨んだジーナに、突然多量の水が浴びせられた。
「ひゃっ……!」
思わず吸い込んだ息に、水が混じる。
ジーナはかがみ込むようにしてゲホゲホと水にむせた。
濡れた服は肌に貼り付き、下卑た笑い声がジーナの耳に届く。ジーナは羞恥に身を縮めようとして、一歩よろけた。濡れた布が枷のように足に絡みつく。その意外な強さにギョっとした。
これではうまく走れない。
「おお! 可哀想に、姫君が川に溺れています! そこに現れた荒くれ者たち! さあ、彼女の運命やいかに!」
そこまで言って、拍手の中商会主はさっさと引っ込んでいった。
入れ替わりに、筋骨隆々とした闘技場の闘士が、三人ほど入場して来た。赤毛の男、色黒の男、顔に傷のある男だ。
「ははっ、チンケな小娘だな」
「だがまあ、女であることに変わりはねえ」
「なるべく長くいたぶってやってくれって話だが、何しても良いんだよな?」
闘士たちの言葉に、期待に満ちた歓声が上がる。
ジーナは、鼻と口から垂れた水を手の甲で拭い、上目遣いに男たちの様子をうかがいながらかがみ込む。男たちはニヤニヤとこちらを見てくるだけで、ジーナの行動を止めようとはしない。
(落ち着け、私!)
震える手で足にまとわりつくスカートをグイッとたくし上げ、腰の横あたりで結ぶ。
結び目から余って垂れたスカートはやっと尻を隠す程度の長さとなり、あざだらけの白い足が剥き出しになった。下卑た笑い声や冷やかしの歓声が強くなったが、ジーナはぐっと唇を引き結び、真っすぐに立つ。
(恥なんてどうでもいい。これで走れる!)
「おや、手間を省いてくれるのか」
「好きモノだな」
「刻むのはあとにしろよ、まずはたんまり楽しんでからだ」
ゲラゲラと闘士たちが笑う。
どうでもいい。
ジーナは心の中で繰り返す。
濡れた髪を絞って手早く三つ編みにまとめ、腕の包帯を解いてぐるぐると髪に巻き付け結い上げる。
少しでも早く動けるように。
踊り子の母譲りの素早さだけが、今の自分の武器だ。
三人相手にどこまで逃げ続けられるか。
アルの笑顔が脳裏に映る。
やってやるよ! 生き延びるんだ!
* * *
場内は、沸きに沸いていた。
もう30分も、ジーナは逃げ続けている。
ジーナも闘士三人も、汗だくで息も絶え絶えだ。だがジーナよりも男たちのほうが消耗が激しそうだ。
「……っこのぉ、チョロチョロしやがって!」
色黒の男が一歩踏み出す。その足元を、ヒュッとジーナが走り抜ける。捕まえようと伸ばした手がジーナに釣られて後ろに回り、男は足をもつれさせて無様に転倒した。
走っていった先に傷の男が手を広げて待っていた。
「ほおら、捕まえた、ぞっ!?」
ガバッと抱きつこうとしたその男の、大きく開いた股下に滑り込んで、ジーナは男の背後へと抜けた。
かがみ込む形になったその男に、後ろからジーナを追ってきていた赤毛が衝突する。
火花が出そうなほど強く額と額を打ち合わせて、男たちはふたり同時に、あお向けにひっくり返った。
場内は爆笑の渦だ。
いつの間にか観客を味方につけ、ジーナは歓声を浴びている。
「やれーっ、ジーナ!」
「荒くれ者をぶっ殺せー!」
滑り込んだ時にスカートがめくれ、くるりと起き上がった時にむき出しになった尻に、観客たちはさらに熱狂する。
「うひょーっ」
「いいぞいいぞー!」
駆け回り、跳ね回る時にチラチラと見えるスカートの中も、観客を夢中にさせる一因だ。
最初に浴びた水は汗に置き換わり、服は相変わらず身体にピッタリと貼り付いている。
薄いなりに揺れる胸、透ける背中。
枯れ枝のように細く貧弱な身体は、鞭のようにしなり、スカートの裾を跳ね上げて飛ぶ。
観客の男たちはよだれを垂らさんばかりに、ジーナだけを目で追っていた。
闘士たちは、悔しさに歯噛みする。
「くそっ、手加減はここまでだ! かまわん、もうブッ殺せ!!」
赤毛が叫び、闘士たちは腰につけていた短剣を引き抜いた。
ああ……、と観客席が落胆に沈む。
もうこれでジーナも終わりか。
だが、残念そうな空気はすぐに、次の残虐ショーへの期待に置き換わった。観客たちは、歪んだ笑顔で再びジーナを注視した。
(気持ち悪い)
場内の空気が、不意に息苦しくドロリとしたものに変わったのを感じる。
(……だけど、どうでもいい)
ジーナは軽く首を振って、その重苦しい空気を振り払った。
男たちは短剣を構え、ジーナを囲むようにして三方からじわじわと包囲を縮めてくる。
ジーナは余裕そうに力を抜いて、だらりと立つ。
「……いいんだけどさ」
ジーナがつぶやくと同時に、
「かかれっ!」
三人が短剣をかざしてジーナに襲いかかった。
ヒュッ、と姿勢を低くしたジーナは、地を這うように足をなぎ払う。
足に疲れの出ている色黒は、軽々とジーナに足を払われ、ナイフを突き出したまま赤毛の男に激突していった。
「ぎゃああああっ!」
もつれ合って転んだふたりは悲鳴を上げる。
赤毛は腹を刺され、色黒は腕をざっくり切られていた。
カラン、と赤毛が短剣を取り落とす。
落ちたそれをヒョイと拾ってから彼らと距離を取り、ジーナは呆然と立っている傷の男に向き合った。
「あんたたちさ、もしかして共闘初めて? 全然連携取れてないじゃん。囲んで同時に突っ込んだら、そりゃ危ないでしょうよ。そんなんガキでもわかるよ」
どうせ子供を残酷に嬲り殺す仕事しかしてこなかったんでしょ、とジーナは三人を軽蔑の目で見る。
まともな戦績の闘士が、こんなに雑な戦闘をするわけがない。
「うっ、うるさい! 調子に乗るな!」
怒鳴りながら駆け寄ってくる男の前で、ジーナはグッと短剣を握り直す。
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
世界が静かになる。
男の動きがゆっくりに見える。
振り下ろされた短剣を軽々と躱し、ジーナは何のためらいもなく男の首に短剣を突き立てる。
(ここなら、鍛えた男相手でも簡単に刃が入るんだ)
誰かの声が頭に響く。
(ここー?)
幼い自分の声。
(そう、ここだ。こうやって……)
(あんた! 小さい子に何を教えてんの!)
(ははは、すまんすまん)
剣の握り方も、力の込め方も。
幼い頃に、父親から教わっていたんだ。
今の今まで、すっかり忘れていた。
ここに来て助けになるなんて。
傷の男は呆けたように口を開けて、はく、と息を噛む。信じられないものを見たようにジーナを見つめた後、フッと白目になり、そのままどうと地に倒れ込んだ。
腹に短剣が刺さったまま地面に転がっている赤毛が何かを叫んでいる。
駆け寄ってきた色黒が、腕の傷から血を振り撒きながら拳で殴りかかってくる。
ジーナは後ろに下がりながら、髪をまとめていた包帯をしゅるりと解いた。そして、色黒の拳をかいくぐると背後に回る。
素早く男の首に包帯を巻き付けて、ジーナは背中合わせにその首にぶら下がった。
「んがっ!?」
反り返るように体を固定され、ぎりぎりと締まる包帯を掻きむしって、色黒は口をパクパクさせる。
「バカ野郎! 後ろに倒れろ、そのガキを押し潰せ!」
赤毛から怒鳴られてはじめて、その手があったと気がついた色黒は、力いっぱい後ろに倒れようとした。
「……ほんとバカだね」
ジーナは包帯を強く引きながら、スイっと男の足元へ移動し、包帯をくるっと回す。
「んぐっ??」
首と両足を繋ぐように包帯が絡み、弓なりに仰向いた姿勢を咄嗟に戻すことが出来ないまま、色黒は頭頂部から地面に激突して、泡を吹いて気を失った。
「……さて」
ジーナは闘技場を見渡す。
首を掻っ切った男はだくだくと血を流し、地面にぐったり貼り付いている。
首に包帯を巻いた色黒は気を失っている。強く引いた包帯を背中に敷いて倒れているので、息ができていないだろう。
どちらも、時間の問題だ。
「あとはあんたか」
スタスタと赤毛に近寄る。
「ま、ま、ま、待ってくれ! 俺達の負けだ! 終わりだ、これで試合は終わり!」
「ふうん?」
ジーナは、傷の男が取り落としていた短剣を拾い、手の中でくるりと回す。
観客席がドオッと沸いた。
「いいぞジーナ! やっちまえ!」
「殺せ! 殺せ!」
こ・ろ・せ! こ・ろ・せ!
場内にコールが反響する。
「た、頼む、助けてくれ……」
「あんたらはそうやって命乞いする子供たちを何人殺してきたんだ?」
「す、すまなかった、ゆる、許してくれっ……」
どう短剣が刺さったものか、赤毛は立ち上がれずに、腹の短剣を庇いながらズルズルといざって下がる。
まあ、抜いたら血が噴き出るだろうからね。
このくらいの刺さり方なら、まだ助かるのかな? わりとヤバそうだけどな?
場内の殺せコールが一段と激しくなる。
頭が割れるようなその声に、ジーナはうんざりとして短剣を遠くへ投げ捨てる。
「私の勝ちで良いんだね? じゃあこれで試合は終わりだ。てめえらクソどもの言うとおりになんて、してやるもんか!」
最後は会場に向かって叫んだ。
それすらも熱狂のタネとして、観客は総立ちでジーナの名を呼ぶ。
赤毛に背を向けてスタスタと正面の客席前まで歩いたジーナは、最前列にいる商会主に声を掛ける。
「勝ったよ。帰らせて」
「勝った?」
商会主がせせら笑う。ジーナは不愉快そうに眉根を寄せた。
「相手が負けたって言ってるんだから、勝ちでしょ?」
「さあ、どうかな? お前はまだ勝者じゃないなあ」
「なに? どういうこと……」
その時。
ジーナは、商会主の視線がチラッと自分の背後に移ったのを見て、ハッとする。
嫌な予感が体を貫き、慌てて降り向こうとしたが遅かった。
ジーナは頭を横から殴られ、ふっ飛ばされて地面に転がった。




