第3話 「静かな崩壊」
月曜の朝、営業部のフロアには静かな緊張感が漂っていた。
佐伯真奈(34)は黒のパンツスーツに白いブラウスを合わせ、髪を後ろでまとめる。長年の経験で培った落ち着きが、席に座っただけでフロアに安定感をもたらす。だが、その知的な瞳の奥には、昨週から温めてきた復讐の計画が静かに燃えていた。
桐谷翔(29)は、今日も黒髪を軽く撫でつけ、艶のあるネクタイをきっちり締めてフロアを歩く。端正な顔立ちとスラリとした体型、整ったスーツ姿。社内での彼の評価は抜群だ。誰もが一目置く“若手エース上司”。
しかし、その笑顔の裏には冷酷さが潜んでいる。部下を見下す鋭い目線、嘲笑を含んだ言葉の数々。誰も表面上は文句を言えず、彼を擁護する空気すらあった。
真奈は桐谷を一瞥すると、すぐに視線を資料に戻す。
(今日から少しずつ、動く)
心の中で静かに宣言した。
午前九時半、定例営業会議が始まる。
桐谷は自分の手柄のように資料を発表し、上層部の前で得意げに説明する。
「こちらの改善案は、私が主導して……」
真奈は小さくノートにメモを取りながら、その発言と過去のメール内容を照合する。
会議の途中、真奈はわざと小さな質問を投げかけた。
「桐谷さん、先月の契約データと、今回の資料の数字が少し違うようですが……?」
周囲の視線が集まる。
桐谷は一瞬、顔を曇らせる。
「え? ああ、それは細かい修正を入れたから……佐伯さん、あとで確認しておいて」
「はい」
真奈は冷静に答えるだけだが、その一言で桐谷の動揺は隠せなかった。
会議が終わると、フロアには微妙な空気の変化が漂った。
「……桐谷さん、あれはちょっと変じゃなかった?」
「数字、間違ってない?」
小さな囁きが、社内で静かに広がり始めている。
昼休み。
真奈は一人、社内カフェの窓際に座り、ノートパソコンを開く。
先週末に整理した桐谷の不正データを再確認するためだ。
二重請求の証拠、虚偽の報告メール、改ざんされた資料……一つ一つ、確認して整理していく。
周囲のざわめきは、遠くに感じる。
(焦らない、ここで慌てたら全部台無し)
コーヒーを一口飲み、真奈は深く息を吐く。
午後、桐谷が外回りに出ている間に、真奈は社内共有フォルダに資料をアップした。
「請求処理一覧(修正版)」――桐谷が改ざんしたデータを、あえて正しい形で再提出したものだ。
見る者が見れば一目で不整合が分かる。
ただし、何も言わず、ルール通りに更新しただけ。
静かだが確実な一手。
その日の夕方、桐谷が戻るとすぐに怒声を上げた。
「佐伯さん! 勝手に資料いじったのか?」
顔は赤く、拳を机に叩きつける。
「いじってません。間違っていたので、規定通り訂正しました」
真奈は淡々と答える。
周囲の社員たちが一斉に視線を交わす。
桐谷の怒りが空回りする瞬間だった。
社内の空気は、少しずつ変わり始めていた。
部下たちの視線は、桐谷の“完璧な上司像”に疑問を持ち始める。
同時に、真奈の存在感が増していた。
その夜、自宅のデスクに向かう真奈。
PC画面の光に照らされる顔は冷静そのものだが、心の奥で静かに怒りが燃えている。
(沈黙はもう終わり……次はもっと大きく動く)
明日の出社が、桐谷の崩壊の第二歩になることを、彼女は確信していた。
窓の外の夜景に映る街灯が、まるで静かに見守るかのように瞬いている。
その光を背に、復讐のシナリオが着々と進んでいく――。




