第1話 「沈黙の職場」
朝八時五十五分。
営業部のフロアに足を踏み入れると、いつもの空気がぴりついていた。
佐伯真奈(34)は、肩まで届くストレートの黒髪をきちんとまとめ、落ち着いた印象のネイビーのスーツに身を包んでいた。長年の経験で培った落ち着きと、どこか凛とした雰囲気が、周囲に安定感を与える。目は切れ長で、知的な印象を与える。だが、その瞳の奥には、理不尽に耐えてきた苛立ちが隠れていた。
「おはようございます」
真奈はデスクに資料を置き、柔らかく挨拶する。
返事は、なかった。
代わりに聞こえてきたのは、年下の上司・桐谷翔(29)の舌打ち。
桐谷は、きりっとした顔立ちに整った黒髪、身長は平均より少し高め。だが、笑顔には嘲るような冷たさが混じる。スーツはいつもピシッと着こなし、初対面の印象は悪くない。だが、その端正さの裏に、部下を見下す鋭い目が光る。
「……あのさ、佐伯さん。
“おはようございます”より先に、昨日頼んだ資料の確認しようか?」
声は軽いが棘がある。部下を試すかのような、あの独特の笑み。
真奈は無言で席につき、資料フォルダを開いた。
昨夜、終電ギリギリでまとめた企画書。ページ数にして三十枚。
桐谷の指示通りに作り込んだものだ。
「これです。昨日、共有フォルダにも上げています」
桐谷は資料をパラパラとめくり、鼻で笑った。
「ふーん……まあ、見たけどさ。重いんだよね、内容が」
「“女性目線”ってやつ? そういうの、今は流行らないんだよ」
真奈は冷静に呼吸を整える。
「……市場分析に基づいて出した提案です。根拠は——」
「根拠とかいいから。上司の言うことに“でも”とか“しかし”とか言わないでくれる? 年上だからって偉そうなんだよ」
藤井(26)が隣のデスクで気まずそうに咳払いをする。
若手の藤井は、桐谷に逆らえない典型的な空気を読むタイプだ。
真奈は静かに息を吸い込み、言葉を飲み込んだ。
(もう慣れた。こういうの、何度目だろう)
桐谷が課長に昇進してから三か月。
女性社員や年上部下をターゲットに、巧妙なモラハラを繰り返していた。
「報連相が遅い」「感情的」「女は感覚で動く」——
言葉は冗談めかしても、刺さる。
だが、彼の前では誰も声を上げない。
上層部には好印象で、彼の振る舞いを批判する人はいない。
昼休み。
真奈は一人で屋上に出た。
秋の風が黒髪を揺らす。
スマホを見つめ、未送信のメールを確認する。
件名:「報告:桐谷課長の指示内容について」
宛先は総務部・水野課長。
何度も書いては消し、送れずにいる。
(証拠もない。感情的だと思われたくない)
その時、スマホが震えた。
桐谷からのメッセージ。
> 《午後の会議、俺の資料も手直ししといて。
“女性の感性で、柔らかく”って感じでw》
真奈は画面を見つめ、静かに息を吐いた。
(何が“柔らかく”よ……あなたの言葉が一番不快なのに)
午後。会議室。
桐谷がプレゼンする資料は、真奈の編集したものと微妙に違っていた。
——いや、正確には「真奈の名前が消えていた」。
「この企画、俺が一晩でまとめましてね」
上層部は「さすがだね」と頷く。
真奈の拳が机の下で小さく震えた。
(また……私の仕事を、自分の手柄に)
その瞬間、プロジェクターに映し出された画面が一瞬フリーズ。
別のフォルダがちらりと開いた。
「社外秘」「請求データ」――見慣れないファイル名。
一瞬のエラーで見えた内容に、真奈の目が釘付けになった。
桐谷が外部コンサルとやり取りしていた請求書データ。
金額が不自然に操作されている。
(……二重請求? 裏で何かしている?)
その夜、真奈は決めた。
沈黙をやめよう。
次は、こちらの番だ。




