9話 再び、音は響く
吹奏楽において、“音が鳴る”ということは簡単なようで難しい。
息を入れれば音は出る。けれど、心を込めなければ音はただの風になる。
一週間前、東縁高校吹奏楽部の音は“鳴っていなかった”。
そして今――再び、彼らの音が鳴り始めようとしている。
正門前に黒い車が静かに停まった。重々しいドアが開き、瞬崎は一歩外へ出る。春の風が彼のコートを揺らした。
校舎を見上げ、そして練習棟へ視線を移す。その目は、試すようであり、どこか期待を帯びてもいた。
低く、しかしはっきりとした声で彼は呟いた。
「……皆さんの本気、見させてもらいますよ」
その言葉は、まだ誰もいない昇降口に吸い込まれていった。
やがて彼の足音が、校舎の奥へと響いていく――。
夕日が差す音楽室。
銀のユーフォを抱えた響は、定位置に腰を下ろし、何も変わらぬ手つきでロングトーンを流していた。息を入れ、音を放つ。ただそれだけ。そこへ次々と音が入ってくる。トランペットの鋭い音、クラリネットの澄んだ音が、以前よりも力強く部屋を満たしていった。
昨日の出来事が、彼らの演奏を変えたのだ。
しかし――。響の表情は、相変わらず淡々としている。視線も落ち着いたまま、音に耳を傾けることもない。
「……」
ただ、当たり前のように楽器を吹き、当たり前のように時間を過ごす。周囲がどれほど熱を帯びても、彼にとっては特別なことではなかっただろう。
しばらくすると扉が開いた。部員たちの視線が一斉に向かう。そこに立っていたのは、久瀬の姿だった。
「みんな」
その声に、練習の音がすっと止む。張り詰めた静けさの中、部長はまっすぐ部員たちを見渡した。
「いよいよ今日が再合奏の日だね」
短い言葉。だが、それだけで部員たちの背筋は伸びた。昨日までの自分を超えるために、今日の音を鳴らすのだ――そういう思いが伝わってくる。
響はそんな空気の中心にいながらも、ただユーフォを抱えて静かに座っていた。彼の視線は揺れず、口元にも表情は浮かばない。
「さあ、最初の音を合わせよう」
久瀬は指揮台に立ち、部員を見渡した。
「まずロングトーン」
部長の合図で、全員が楽器を構える。深く息を吸い、ロングトーンが始まった。
――昨日までとは違う。
ひとりひとりの音が、以前よりもはっきりと部屋に広がっていく。フルートの透明感ある音色、クラリネットの柔らかさ、金管の芯のある響き。ただ伸ばすだけの音なのに、そこには「届けたい」という意思が感じられた。
部員たちは肩の力を抜き、思い切り音を放っている。張り詰めた音ではなく、自由に、伸び伸びと。昨日まで閉じ込められていた何かが解き放たれたようだった。
響は、その中心でユーフォを吹き続けている。表情は変わらない。ただ、他と同じように音を重ねているだけのように見えた。だが、彼の放つ音は――やはり誰よりも自然に、空気を震わせていた。
ロングトーンが終わり、空気が落ち着く。部長が短く息を吸い、指揮棒を構えた。
「……じゃあ次にヤマト、Aからやるよ」
合図とともに、低音群が地を踏み鳴らすように響きだす。ぶ厚い土台。その上に、クラリネットが旋律を刻み、フルートが光を差し込む。金管が加わると、音の波は一気に前へ突き進んだ。
さっきまでのロングトーンとは違う。ここには動きがある。うねりがある。ひとつの大きな流れが、部員たち全員を乗せて走り出していた。
最後の和音が静かに消えるのを待って、久瀬が笑顔を見せた。
「......うん、いいね。今までで1番いい演奏かも」
周りの部員も頷く。
「一週間前、瞬崎先生にあそこまで言われて、みんなも、そして私もやる気を無くしていた。でもみんな聞いてたと思うけど、昨日のあの演奏がみんなを変えたんだと思う」
一部の部員の目線が響に向かれた。それでも久瀬は続けた。
「正直、全国大会金賞なんて自分たちには....って思ってたけど.....でも今は違う。先生に私達の本気を見せつけよう!」
その言葉に部員達は大きく頷いた。
「はい!」
そこにいる誰もがやる気に満ち溢れていた。
「うん.........じゃあ、先生呼んでくるね」
その言葉にそれぞれの部員の背筋が張り付いた。久瀬はその様子を見守りながら音楽室を後にした。
その背中は一週間前とは違う。自身に満ち溢れていた。
職員室の扉の前で、久瀬は一度深呼吸をした。ノックする手が小さく震えているのを、自分でも感じていた。
(――大丈夫。もう迷わない)
ドアを開けると、紙の擦れる音と、コーヒーの香りが漂ってきた。瞬崎はデスクに向かい、書類に目を通していた。黒いスーツの背中は相変わらず大きく、どこか冷たさを帯びている。
「失礼します。久瀬です」
その声に、瞬崎がゆっくり顔を上げた。彼の目が、まっすぐ久瀬を捉える。少しの間、無言。
「……どうしたんですか?」
静かな問い。しかし瞬崎はすぐに理解したように笑顔で口を開いた。
「ヤマトの再合奏.....ですね」
その目に迷いはなかった。久瀬は慌てて口を開く。
「あ、は、はい!」
瞬崎は視線を机に落とし、指先でペンを転がす。長い沈黙が続いた。
やがて、静かに息を吐くと――。
「……わかりました。すぐ行きます。全員そろっての合奏。私が聴くのは、その一度きりです」
一瞬、久瀬の胸が高鳴った。怖さよりも、嬉しさが勝った。
「……ありがとうございます!」
深く頭を下げる。それを、瞬崎はどこか優しい目で見つめていた。
「期待していますよ」
久瀬はその言葉に、まっすぐ顔を上げた。
「もちろんです。――私達東縁の本当の音を、聴かせます」
再び頭を下げ、彼女は扉を出た。背中に残るのは、張りつめた空気と、わずかな期待の残り香。
(絶対に、見せる。今の私たちの音を――)
職員室のドアが静かに閉まり、朝日が廊下に差し込んだ。
夕日が差す長い廊下の中、瞬崎はゆっくりと歩いていた。夕陽が地面を長く照らし、影が伸びていく。その光の向こうに、古い練習棟の姿が見える。どこか懐かしく、けれど今は遠い場所のようにも感じた。
風が吹き抜け、銀色の髪が少しだけ揺れる。彼は立ち止まり、しばらく練習棟を見つめた。
――一週間前の音が、頭の中で蘇る。
あの合奏はとても演奏と思えないような。ただそれぞれの楽器が唸っているのを見せつけられたような時間だった。
トランペットは高音を競い合い、クラリネットは不安定なまま旋律を追い、ホルンは響きを支えきれず、低音は沈黙に近かった。
誰も他人の音を聴こうとせず、ただ自分の譜面だけを追っていた。
――ひとつの音楽にはなっていなかった。
その瞬間、音楽室の空気は重く濁った。響き合うどころか、互いの音がぶつかり合って崩れていく。指揮棒も、途中から迷いを帯びてしまった。
止めようとして、止められなかった。
部員たちは、そのことにすら気づいていなかったのかもしれない。
(結局あの時から何も変わっていなかった)
胸の奥がきゅっと痛む。昔、幼いころに聴いたこの学校の音から何も変わっていない。同じ楽譜を前にしても、心はひとつにならない。誰も“音楽”を信じていない。ただ、義務のように吹いている。
「楽器は鳴ってた。でも、人は鳴ってなかった。」
小さく、苦くつぶやく。それは自分自身への言葉でもあった。
ふと、風の向こうから微かな音が聴こえた。練習棟の中だ。誰かが吹いている。
まだ不安定で、細い音。けれど、その音には“聴こう”とする意志があった。
他の音に寄り添おうとする呼吸の気配が、確かにあった。瞬崎の目が、わずかに細まる。
「……少しは、変わったのか」
呟きながら歩を進める。靴底が階段を叩く音が、静かな廊下に響いた。音楽室の扉の向こうには、あのときと同じ部屋。けれど、そこに漂う空気は――ほんの少し、違っている気がした。
瞬崎は立ち止まり、深く息を吸う。心の奥で、何かが静かに目を覚ます。もう一度だけ確かめたい。
この場所に、本当に“音楽”があるのかどうか。
瞬崎は手を伸ばし、扉に触れた。冷たい金属の感触が、掌に伝わり、ドアノブが静かに回った。
「……さて」
久瀬は深く息を吸い、全員を見渡した。瞬崎が来る前の音楽室は、まるで嵐の前の静けさ。空気がぴんと張りつめている。
「みんな、準備できてる?」
その声に数人が小さく頷き、しかしどこか落ち着かない様子だ。クラリネットの一人が冗談めかして言った。
「……先生、怒ってないといいですね」
「いや、絶対怒ってるでしょ。前回のあれ見たら普通トラウマだよ」
「やめてよ、思い出させないで!」
小さな笑いが起きる。だがその笑いの中に、全員の緊張が見え隠れしていた。
「大丈夫。今回は、あの時とは違う」
久瀬はきっぱりと言い切る。
「私たちはもう、逃げない。絶対に見返してやる」
「おー!」
トランペットが拳を上げた。……が、誰も続かない。
「あれ、ノリ悪っ!」
「いや、今の“おー”ちょっと早かったんだよ」
「テンポ感ずれてたな」
再び笑いが起きる。久瀬も思わず吹き出した。
「ほんともう……君たち、緊張してるんだかしてないんだか分かんないね」
それでも、その空気が心地よかった。皆が同じ方向を見ている。
一週間前の“ばらばらだった音楽室”とは違う。
「……でも、いいね」
久瀬はそっと目を細めた。
「こうして笑えるの、久しぶりかも」
響はその様子を静かに見つめていた。彼の手の中の銀色のユーフォが、夕日を反射して淡く光る。表情はいつも通りだが、瞳の奥はどこか柔らかい。
トランペットが軽くチューニングを鳴らす。フルートが息を整える。部員たちが自然と構えの姿勢に入る。
久瀬は指揮台に立ち、軽く両手を広げた。
「よし。先生が来る前に、最後の確認をしよう」
その言葉に、部員たちは一斉に頷く。
だが、その時――
「……ねえ、久瀬先輩」
後列のサックスが、少し不安そうに手を挙げた。
「もしまた“ひどい演奏です”とか言われたら、どうします?」
一瞬、静寂。
久瀬は目を閉じ、ゆっくり息を吸う。そして、笑った。
「そしたらもう――先生が納得するまで吹き続けよう」
「おおっ、根性論!」
「青春だなあ!」
「え、じゃあ倒れても吹き続ける系?」
「やめて、物理的に怖いから!」
笑いが再び起こる。
けれど、その笑いには確かな力が宿っていた。久瀬は心の中で呟く。
(見ててください、先生。今の私たちの音を――)
その時、廊下の方から靴音が近づいてきた。重く、ゆっくりとした足音。部員たちの呼吸が止まる。
響がユーフォを抱え直し、久瀬は指揮棒を握りしめた。
音楽室の空気が、一瞬で張り詰める。
そして音楽室の扉が、静かに開いた。きい、とわずかに軋む音。部員たちは一斉に顔を上げた。誰もが息を飲み、音楽室の空気が凍りつく。夕陽が差し込み、床の上に長い影が伸びる。
その先に現れたのは、黒いスーツに身を包んだ瞬崎――。彼は無言のまま中へ入り、まっすぐ指揮台の前に立つ。何も言わない。ただ、その存在だけで空気が引き締まった。夕陽が背中を照らし、教壇の上に立つ姿はまるで“裁く者”のようにも見えた。
久瀬が立ち上がり、深く頭を下げる。
「……全員、揃っています」
瞬崎は静かに頷くと、譜面台の上のスコアを開いた。
紙のめくれる音が、異様に大きく響く。その視線が全員を横切るたびに、心臓が鳴るのが自分でも分かった。
やがて、彼は低く言った。
「――始めましょう。基礎から」
短い言葉。だが、それだけで部員たちは即座に構えた。指揮棒が上がる。
音楽室全体が、その一挙一動を見つめている。
「ロングトーン。B♭から」
静かな合図。
瞬崎の指先が、わずかに動いた瞬間――。空気が震えた。柔らかく、それでいて確かな芯を持つ音が部屋を満たしていく。以前のような濁りはない。
一人ひとりの音が寄り添い、互いの息づかいを聴こうとしている。
(……悪くない。)
瞬崎は目を細めた。あの一週間前の地獄のような音を思い出しながら、心の中で呟く。
――音が、聴き合っている。
音楽とは「ひとりの上手さ」ではなく「全員の呼吸」。それを、彼らはようやく掴みかけていた。
「次。スケール。」
テンポが刻まれる。スネアが小さく拍を刻み、管楽器がそれに重なる。まるで波が広がるように、音が繋がっていく。
その表情を見て、瞬崎は思わず息を止めた。
(顔が違うな……。誰も、怯えていない。)
スケールが終わると、短い沈黙が訪れる。瞬崎はスコアを開き、静かに口を開いた。
「……“宇宙戦艦ヤマト”。Aから」
瞬崎の声が落ち着いて響いた。部員たちは一斉に姿勢を正す。譜面台の上の光がわずかに揺れ、誰もがその瞬間を見つめている。静寂の中で、指揮棒が上がった。まるで時が止まるような一瞬。
そして――振り下ろされた。
低音群が地を叩くように鳴り響く。チューバ、ユーフォ、トロンボーン。その重厚な響きの上に、クラリネット、サックスが旋律を描き、フルートが光を差し込む。トランペットが突き抜け、サウンドが一気に空を駆け抜けた。
(……始まったな)
瞬崎は冷静にスコアを見つめながら、わずかに目を細めた。あの一週間前の“崩壊した音”とは、まるで別の合奏だった。
たしかに細部のズレはある。
リズムが少し走るトランペット、フルートの高音がわずかに浮く。ホルンは音程が甘く、低音はまだ支えきれていない。
――それでも。
今の音には、確かに“人の意志”があった。誰かが誰かの音を聴いている。誰かの息に合わせて、隣の音が動いている。音が“生きている”
――その感覚があった。
(……そうだ。それでいい。)
瞬崎の目が、少しだけ柔らかくなった。
彼の指揮は最小限。棒の動きは小さいが、確かなテンポを刻む。部員たちはそのわずかな揺れを逃さず、音で応える。まるで言葉のない対話がそこに生まれていた。
響のユーフォが、静かに呼吸を支える。銀のベルが光を反射し、柔らかな低音が空間の底を満たす。その音は派手ではない。けれど、全体をつなぐ“心臓”のように鳴っていた。
(……響、君の音が、みんなを支えている。)
瞬崎の胸に、かすかな感情が走る。彼は何も言わずただ棒を振る。トランペットが高らかに旋律を叫び、打
楽器が力強く大地を叩いた。音が溢れ、音楽室の空気が熱を帯びる。窓の外では夕陽が沈みかけ、オレンジ色の光が全員の頬を照らしていた。
最後の一音が鳴り終わり――残響が、静かに消えていく。
誰も動かない。その余韻を、ただ聴いていた。一週間前には、味わえなかった静けさだった。
やがて、瞬崎がゆっくりと手を下ろした。視線をスコアから外し、部員たちを見渡す。誰もが息を詰めて、彼の言葉を待っている。
静寂の中、瞬崎は小さく息を吐いた。そして、淡々と――だが確かに微笑んで言った。
「……合格です」
その瞬間、空気が一気に弾けた。張り詰めていた緊張がほどけ、部員たちの顔に涙と笑顔が混ざる。久瀬が胸に手を当て、小さく呟いた。
「よかった」
音楽室の中に、やわらかな沈黙が流れた。夕陽が完全に沈み、窓の外の空が深い群青に染まっていく。その色の中で、誰もが感じて瞬崎は再びスコアに目を落とし、穏やかに続けた。
「細かいところはまだまだです。リズムも、音程も、粗い部分は多い。でも――“一人ひとりが演奏していた”」
その言葉に、部員たちは静かに頷いた。その瞳に宿るのは、達成感と、もう一歩先を見据える光。瞬崎は指揮棒を机に置き、静かに言った。
「……これなら、次に進めますね」
瞬崎は机の上のスコアを閉じ、代わりに厚めの紙束を取り出した。プリントの端には、『ナーガバンドフェスタ 練習計画表』と印字されている。その枚数は、全員分。
「――さて。次の本番まで、時間は約一ヶ月です」
その言葉に、部員たちの表情が一気に引き締まった。
瞬崎は静かに用紙を配りながら続ける。
「今日からは“合格”ではなく、“完成”を目指します。そのための練習メニューを、組み直しました」
久瀬が受け取った紙を見て、思わず声を漏らした。
「……えっ、これ……毎日ですか?」
「もちろん」
瞬崎はあっさりと答える。
「ロングトーン20分、リップスラー10分、基礎テンポ練3パターン。合奏前にアンサンブル練を1時間。そして、週2回のセクション別リハ。曲と種目は決めてあるので後日発表します。お楽しみに」
「え、えっと……放課後だけじゃ終わらないですよ、これ!」
打楽器の女子が悲鳴に近い声を上げた。瞬崎は彼女の方を向き、ほんの一瞬だけ静かに見つめた。
そして――にやりと笑う。
「私たちは全国大会金賞を目標に掲げました。だからこそ、“やりがい”があるでしょう?」
その笑顔は、いつものように狂気を帯びていた。久瀬がプリントを見つめ、苦笑しながらも呟く。
「……ほんと、この人は容赦ないな。」
瞬崎は笑みを浮かべたまま、全員を見渡した。
「限界までやれば、音は応えてくれます。君たちはもう、“ただの部員”じゃない。――“奏者”なんです」
少しの沈黙の後、瞬崎は部員達に向かって一言放った。
「それではもう一度皆さんに聞きます。一週間前のあの演奏を、全国大会で披露できますか」
部員全員が口を揃えて放った。
「できません。恥ずかしいです!」
瞬崎はより笑顔を剥き出しにすると口を開いた。
「――では始めましょう。練習の時間です!」
音は、鍛えれば強くなる。
けれど、“心”は一度折れたら、そう簡単には戻らない。
それでも彼らは、再び立ち上がった。
瞬崎の指揮のもと、東縁高校吹奏楽部の“本当の音”がようやく動き出す。
次は――ナーガバンドフェスタ。
限界を超える戦いが、ここから始まる。
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