8話 揺るがぬ音
吹奏楽の練習は、ときに音よりも心が揺れる。
仲間と共に音を重ねることの意味を、迷いの中で見失うこともある。
けれど――たったひとつの音が、すべてを変えてしまうことがあるのだ。
譜面台の前に立ったまま、久瀬は視線を落として動けずにいた。
昨日のパートリーダー会議――何ひとつ決まらず、ただ無駄に時間を消費しただけ。その責任が誰にあるのかなんて、考えるまでもない。
「……全部、私のせいだ」
小さく呟いた声は、誰にも届かず消えていく。部長であるはずなのに、意見をまとめることもできず、みんなの不安を拭うことすらできなかった。むしろ、自分が足を引っ張っているんじゃないか――そんな思いが胸を締めつける。
「どうして私なんかが部長なの……」
楽器の調整をする音、談笑する声。そのすべてが遠くに感じられる。自分だけが輪の外に立たされているような、冷たい孤独。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴って、息が浅くなる。
「きっと……みんなだって思ってる。私じゃ、この部をまとめられないって」
握りしめた楽譜が小さく震える。胸の奥に広がるのは、責任感ではなく、どうしようもない無力感だった。
帰り道。制服のまま入ったファミレスのボックス席に、響たちは腰を下ろした。メニューを広げれば、すぐに陽翔の声が上がる。
「俺、やっぱステーキいくわ。部活でカロリー消費したし!」
そう言いながら勢いよく指を差すと、来島が呆れ顔をする。
「お前、金額見ろよ。そんなに小遣い潤ってんのか?」
「……え、今月まだ半分も残ってねえ」
「ならやめとけ」
永井はストローを指でいじりながら、静かに笑った。
「僕はパスタでいいかな。安いし」
そんなやりとりに、響はメニューを見ながらぽつり。
「……このチーズハンバーグ、美味しそう」
「響は食い物にも真剣だよな」
来島のツッコミに、テーブルが笑いに包まれる。料理を注文し終え、少し落ち着いたころ。陽翔がふと思い出したように声を上げた。
「そういえばさ、次の目標って……ナーガバンドフェスタなんだろ? あれって結局、どういう大会なんだ?」
その問いに、視線が自然と奏多へ集まった。彼が一番詳しいことを、みんな知っているからだ。
奏多は水を一口飲んでから、口を開いた。
「ナーガバンドフェスタは、長野県で毎年開かれる学生主体の演奏イベントだよ。順位や審査はないけど、観客はコンクール以上に多いし、強豪校も大勢出る。地元の人たちにとっては、夏の大きな恒例行事でもあるんだ」
「へえ……ただの発表会かと思ってた」
来島が目を丸くする。
「そんな軽いもんじゃないよ。出るってことは、東縁の看板を背負うってことなんだから。先生があんなに厳しいのも、そのためだと思う」
奏多の言葉に、テーブルの空気が少し引き締まった。
永井が静かに口を開く。
「……でもさ、その前にヤマトの再合奏まで、もう二日しかないんだよね。今のままで、間に合うのかな?」
その一言に、短い沈黙が落ちた。誰もが同じ不安を抱えている。けれど口にすると、現実味を帯びすぎてしまうから。
「……大丈夫だって」
陽翔が無理に笑って拳を握る。
「やるしかねーし!」
響は黙って聞いていた。
――ナーガバンドフェスタ。
どこか、胸の奥がざわめいた。確かに知っている。いや、出たことがあるのかもしれない。でも、思い出そうとすればするほど、霧の向こうへ消えていく。
「……すごい舞台なんだな」
言葉だけは落ち着いていたが、握った手のひらには力がこもっていた。
ファミレスで仲間と別れた後、響は一人、家に戻った。玄関をくぐると、どっと疲れが押し寄せる。けれど、心の奥にある落ち着かなさは消えなかった。
自室に入り、久々に掃除をしようと決めた。机の上や棚の隅に積もった紙や古いノートをまとめ、引き出しの奥を整理していく。
「……なんだ、これ」
古びた楽譜ファイルが、埃をまとって出てきた。表紙には、手書きでこう書かれている。
――Euph.for You
ページをめくると、丁寧に書き込まれた指使いや息の流れ。まるで誰かが直接教えながら残していった痕跡のようだった。
響はしばらく見つめ、そっと口を開く。
「……ユーフォ・フォー・ユー? 聞いたことが……あるような……」
譜面を目で追うだけで、不思議と音が浮かぶ気がした。旋律は優しく、どこか懐かしい。胸の奥に、名も知らぬ温もりが灯る。
けれど、それ以上は何も思い出せない。誰がこの楽譜を自分に渡したのか、いつ吹いたのか――霧に覆われたままだ。
「響!夕飯よ。降りてきなさい」
母の声がリビングから聞こえてきた。僕は譜面を机に置いて急いでリビングに向かった。
リビングのダイニングには、夕食の香りが広がっていた。母がテーブルに大皿を並べると、湯気がふわりと立ちのぼる。煮物に焼き魚、味噌汁。家庭的で、どこか安心する匂い。
「ほら、響。早く座って」
「……うん」
椅子に腰を下ろした響は、箸を手に取りながらも、微妙に動きが鈍い。
母が首をかしげる。
「どうしたの? 食欲ない?」
「いや……さっき、部活帰りにファミレス行って……」
「あら、また。どれだけ食べたの?」
「……ハンバーグとポテトと、あと……ちょっと」
言い淀む息子に、母は小さくため息をついた。
「“ちょっと”で済む量じゃないわね、それ」
横から父が新聞をめくりながら口を挟む。
「若いんだから食べすぎてもいいじゃないか。……だが食えないなら俺がもらうぞ」
「お父さんは控えてって、この前お医者さんに言われたでしょ」
「む……」
母にぴしゃりと止められ、父は渋々味噌汁に箸を伸ばす。響は苦笑しながら、煮物をひと口だけつついた。
「……でも、やっぱり母さんの味の方がいいな」
ぽつりと出た言葉に、母は一瞬手を止め、それから嬉しそうに笑った。
「もう……お世辞でも嬉しいわよ」
小さなやりとりに、食卓の空気が柔らかくなる。響の胸に残っていた夕暮れのざわめきも、少しだけ和らいだ気がした。
この時、僕はさっきの曲名をすっかり忘れていた。
再合奏まであと1日......
翌朝。
窓から差し込む光に、ようやくまぶたを開いた響は、時計を見て飛び起きた。
「……うわっ、やばっ!」
針の位置に血の気が引く。ホームルーム時間まで余裕はほとんどなかった。
「昨日ファミレスで食べすぎて……爆睡しすぎた……!」
慌てて制服に袖を通し、洗面所で顔を洗う。髪を適当に整え、歯を磨きながら片手で鞄を引っ張る。
階段を駆け下りると、母の声が飛んできた。
「響、ごはん!」
「ごめん、今日は無理!」
靴を履きかけたとき、ふと昨日の夕暮れの音楽室がよみがえった。
あの古びた楽譜――Euph.for You。
「あっ……!」
靴を放り出し、再び二階へ駆け戻る。机の上のファイルを掴み取り、胸に抱え込む。
「忘れるとこだった……」
楽譜をしっかり抱えて玄関に戻ると、母が呆れたようにため息をついた。
「まったく、朝から何やってるのよ」
「悪い! いってきます!」
返事も待たずに響は飛び出す。
――ヤマト再合奏。
その運命を決める前日が、こうして始まった。握りしめた譜面が、これから訪れる運命を示すように重く感じられた。
校門を駆け抜け、なんとかチャイム直前に教室へ滑り込む。椅子に腰を落とした瞬間、隣の席から陽翔が身を乗り出してきた。
「おいおい響、大丈夫かよ。今日は再合奏前日だぞ?
そんな寝坊グセで、もしコンクール本番の日とかに遅刻とか洒落になんねーからな!」
声は真面目そうだったが、口元はにやけている。
「……分かってるって」
「ほんとかぁ? 明日、お前ん家まで迎えに行こうか? チャイム代わりにバスクラ大音量で吹いてやるよ」
前の席から奏多が振り返り、呆れ顔をする。
「その前に近所から苦情来るでしょ。やめた方がいいよ」
教室に小さな笑いが広がる。
響は苦笑しながらも、胸元の鞄をぎゅっと押さえた。
――今朝、慌てて掴んできた楽譜がそこに入っている。
朝日が差し込む職員室。
窓の外は茜色に染まり、机に積まれた書類や教科書が長い影を落としていた。静かな空気を破ったのは、副顧問であり響たちの担任でもある瀬戸川鳴海の声だった。
「――いよいよ明日、再合奏ですね」
湯気の立つマグカップを片手に、鳴海は微笑を浮かべる。
「正直、少し気になってるんです。もし何も変わってなかったら……先生、本当にこの部を離れるつもりなんですか?」
隣の机で書類を整理していた瞬崎が、ぴたりと手を止めた。ゆっくりと顔を上げ、眼鏡の奥から不気味なまでに静かな笑みを覗かせる。
「どうなるかは、彼ら次第です」
淡々とした声は、逆に底知れぬ熱を含んでいた。鳴海は茶化すように肩をすくめる。
「そんなに簡単に切り捨てるんですか? 私は、生徒たちを信じたいですけど」
すると瞬崎は、机に肘をつき、指を組んで口元を歪ませた。
「……ですが、少なくともこの一週間――職員室で耳にした音は、それまでのものとは違っていました」
その声は確信に満ちていた。
「彼らは、心のどこかで私を見返したいと願っている。ええ、それが音に表れているのです」
一瞬の沈黙。鳴海は目を細め、紅茶を一口含んだ。
「……音に、ですか。やっぱり先生は怖いですね」
だが瞬崎はさらに口角を上げ、笑みを深める。
「音楽は嘘をつきませんから。少なくとも――私は、生まれてこの方、一度たりとも嘘をついたことはありません」
その狂気じみた笑顔に、鳴海は一瞬息を呑む。だがすぐに、いつもの柔らかい笑みで返した。
「そうですか……。ええ、先生がそう仰るなら」
職員室には、互いの笑顔だけが静かに残った。
夕暮れの3-5。バスパートの練習教室。
窓から射し込む光は赤く、机や譜面台に長い影を落としている。練習を終えた部員たちの多くはすでに帰り、校内はほとんど無人だった。
その静けさの中に、ひとりだけ残る影――響。
彼は譜面台に立ち、手にした楽譜をじっと見つめていた。
表紙に書かれた文字。「Euph.for You」。見つけてからずっと、胸の奥でざわめいていた。知らないはずなのに、どうしても懐かしい。吹いたことがある気がするのに、記憶は霧の中で掴めない。
ただひとつ分かるのは――今、この曲を吹かなければならないという衝動だけだった。
静かにユーフォを構える。深く息を吸い込み、腹の底で音を作り、放つ。
一音目が空気を震わせた瞬間、世界が変わった。
柔らかく、それでいて鋭い。誰も傷つけないのに、心臓を直接掴まれるような衝撃。
校舎の壁が鳴り、窓ガラスが共鳴する。二音、三音と重なるにつれ、旋律は姿を現す。穏やかなのに力強く、悲しみを抱えながらも希望を求めて伸びていく――まるで人の一生を描くかのような音。
音楽室の扉の外で、足を止めた者がいた。
帰ろうとしていた永井だった。
「……え……なに、この音……」
耳に届いた瞬間、心臓が跳ねた。理屈じゃない。魂の奥に直接触れられたような震え。廊下の先、同じく音に気づいて戻ってきた来島が声を上げる。
「お、おい……誰が吹いてんだよ、これ……!? プロでも、ここまでの音……」
さらに別の階段から上がってきた陽翔が、目を丸くする。
「は……? これ……ユーフォだよな……? まさか……」
沈黙が走る。全員が、頭のどこかで同じ答えに辿り着いていた。けれど信じられなくて、口に出せない。だが、音は迷いを許さなかった。
強く、優しく、温かく、そして切なく――次々に色を変えながら、心を震わせ続ける。
校庭にいた部員たちも、音に引き寄せられるように顔を上げる。サッカー部のボールが止まり、野球部の掛け声も消えた。
町の方へまで広がった音は、通りを歩く人々の足を止めさせる。
「え?何この音」
「うますぎない?」
「何この音。誰が吹いてるの?」
それはもはや「演奏」ではなかった。祈りであり、叫びであり、愛そのものだった。まさに神の領域に等しい。涙が頬を伝う。最初に声を上げたのは永井だった。
「……僕たち……忘れてたんだよ」
「忘れてた?」
来島が振り返る。
「そうだよ……音楽って、こういうものだよ……? 人を震わせるために……心を揺さぶるために……! 僕たち、ずっと……勝ち負けとか、形とか……そんなことばっか考えて……」
永井の声が震える。
陽翔が拳で目を拭い、叫んだ。
「くそっ……なんで泣けてくんだよ……! これ……響、だよな……? 響しかいねぇ……!」
その言葉で、全員の胸に確信が走る。あの響。どこか抜けていた今までの音。
――その彼が、こんな音を。
「……これが……響君なのか……」
奏多は両手を震わせ、唇を噛んだ。
「違う……いや、違わない……これが……響君なんだ」
音はさらに広がる。優しい旋律が夕暮れの空を覆い尽くし、世界をひとつに包み込む。聞く者の心を解きほぐし、泣かせ、立ち上がらせる音。
その場にいた全員が悟った。
――自分たちは今まで、何を目指して合奏してきたのか。忘れていたものを、この一音が思い出させてくれた。
「俺たち……もっとできるんだ……」
来島が嗚咽を漏らす。
「そうだ……響君が見せてくれた… 順位や評価じゃない。音で、心を動かすために――自分たちは音楽をやっていたんだ。」
永井の声は涙で震えていた。
そのとき。3-5の前に立っていた男がひとり。瞬崎カルマ。
眼鏡の奥の瞳が異様な光を宿し、口元には狂気の笑みが浮かんでいた。
「――やはり、月本君」
静かに、しかし確信を込めた声。
「君は……本物だ。君は本当の天才だと」
言葉は囁きだったが、そこにいた全員の背筋を凍らせるほどの力を持っていた。
そしてもちろん久瀬もこの演奏を聴いていた。彼女は涙を流しながら言った。
「......そうか!響君が本当に伝えたかったものって.....うん、私はまだ部長としてやれる!」
そして、さらに遠く。校舎の外の木陰でひとり、その音を聴いていた男がいた。
柊木真尋。
彼は目を閉じ、音に全てを委ねるように微笑む。そして、静かに言葉を紡いだ。
「……そうだ。それが君の本当なんだよ」
最後の音が消える。世界が静寂に包まれた。次の瞬間、誰もが涙を流していた。部員たちの胸にあった迷いも不安も、すべてこの演奏に飲み込まれていた。
ただひとつ、誰もが強く思っていた。――自分たちは、この響と一緒に、本物の音楽を作るんだ。
その決意は、明日の再合奏へと向かって燃え始めていた。
明日、いよいよ宇宙戦艦ヤマト再合奏!
今、アンコンに向けて自分も練習しているんですが、なかなかチームで音が合わなくて、何も変わらないまま毎日時間を無駄にしてるような感じがして......でもみんなそれぞれの思いを信じて練習している。
この話を書きながらずっと思っていました。これを読んでくださっている皆さんも、そして自分自身も音楽をやっている仲間である事を.....
今後活動の励みになるので評価、感想をお願いします。
君が音を奏でてくれるなら僕も音を奏でよう。終わりの見えない音楽の旅路を歩むために......




