7話 揺れる心
吹奏楽部の練習は、ただ音を鳴らすだけじゃない。
心と心を繋げる作業でもある。
だけど今の僕たちは、その繋がりを見失いかけていた。
仲間との音がずれるたびに、どうしてこんなにも胸がざわつくんだろう。
いつもの練習場所に、バスパートは集まっていた。ユーフォの響、若田、桜咲。チューバの香久山、茅野、来島、そしてコントラバスを構えた今伊と永井。
「じゃあ……基礎からいこう。テンポは♩=60、ロングトーン」
若田の合図に、皆は呼吸を合わせる。
──ブォォォ……。
ユーフォの深い音色とチューバの低い響きに、永井のコントラバスが重なった。弓が弦を滑るたびに、低音が温かく震え、8つの音はゆるやかに混ざり合う。
だが、その中心にあるのはやはり響の音だった。彼のユーフォは、不思議なほどにまっすぐで、聞く者の耳を自然と引き寄せる。
若田が口元を緩める。
「……相変わらずだな。響君は」
永井も頷きながら答える。
「はい。僕も……響君の音を聞いてると、弓の動きが自然に合うんです」
桜咲は若田を見ながら言った。
「そりゃヤマトの演奏だってあの中で完璧だったし、東堂先輩も怒るよ」
香久山が口を尖らす。
「桜咲、その話はやめにしようって言っただろ?」
「あ、スミマセン」
香久山にそう注意されると桜咲は視線を楽譜に戻した。
すると今伊が小さく口を開く。
「響君ももう少し周りを聞いてみて。少し我が強いかも」
「はい、分かりました」
「よし、もう一度。なるべくチューナーは見ないで。よく周りを聞いて合わせる。分かった?」
「はい!」
若田はメトロノームを動かした。カチン、カチンと再び刻みを始める。
8人の音は少しずつ溶け合いながら、教室の床を震わせていく。
その後も、僕たちは基礎の強化訓練を続けた。
「腹式呼吸は、肺に空気をため込むんじゃなくて、お腹を膨らませるようにして吸うんだ」
若田先輩はそう言いながら、自分の呼吸をみんなに見せる。肩を上げずに、静かにお腹が広がるのを意識する。
「息の支えが安定すると、長いフレーズでも音が揺れにくくなるよ」
次はタンギング。
「“トゥ、トゥ”じゃなくて、“ドゥ、ドゥ”って感じで。舌の力を抜いた方が、音が硬くならない。試しに響君、ちょっとやってみて」
「はい」
僕が一度やってみせると、みんなもそれぞれの楽器で真似をした。
さらにブレスコントロール。
「吸った息を一気に出すんじゃなくて、少しずつ均等に使う。ろうそくの火を消さないくらいのつもりで吹くといい」
僕にとっては当たり前のことを言っているだけに聞こえた。けれど、みんなが熱心に頷いたり、時には目を見張ったりしているのを見て、少し不思議な気分になる。
──本当に、そんなに特別なことを言っているんだろうか。
放課後のバスの中。窓の外はすでに夕暮れで、街の灯りが少しずつともり始めていた。
「……あ、そうだ。紹介しておくよ」
響が隣に座る陽翔と奏多の方を振りむく。
「こっちが一年の永井營君。コントラバス担当。それから、チューバの来島青馬君」
「どもー」
来島は片手を軽く挙げて笑う。
「えっと、響君の友達? それとも……」
「同じパートだよ」
響が答えると、陽翔は頷いた。永井は少し緊張したように小さく頭を下げる。
「よろしくお願いします」
奏多は窓の外を見ていて、陽翔はシートに深くもたれかかっている。
「……あーもう、うちのパート最悪や」
突然陽翔が頭をかきむしる。まるで溜めていた怒りを爆発させたように。
「クラリネット、最近ぜんっぜん練習せぇへん。しゃべってるか、遊んでるか。あれでほんまに合奏なるんか?」
「またなの?」
奏多が静かに返す。
「……それに、3年の先輩が全然来ないのも気になる。もう3日ぐらい見てない」
「……そうなんだ。どうしたんだろう」
響は思わず声を上げた。
「さぁな。受験とか、部活以外の理由かもしれん」
奏多は小さく肩をすくめる。そのとき、来島がひそひそ声で響に身を寄せた。
「……響。バスパートはなんやかんやでまとまってきとるけど、他は結構大変みたいやな」
永井が少し不安そうに口を開いた。
「……ほんとに、一週間後に合奏できるんでしょうか。僕、正直……心配です」
一瞬、座席の空気が重くなる。誰もすぐには返事をできなかった。窓に映る夕暮れの自分の顔が、響にはなぜか遠くに見えた。
永井の言葉に、車内の雑音がふっと消えたように静まる。
「まあ、正直不安なのはわかるけどさ」
来島が軽く肩をすくめて笑いを作る。
「ここでへこたれてたら元も子もないやん。俺らにできることはやるだけやし、とりあえず今晩も練習やろうや」
奏多は窓の外を見据えたまま、落ち着いた声で続ける。
「焦りは禁物だよ。基礎を積み重ねれば、必ず音は変わる。時間がないのは確かだけど、やるべきことは明確だ。ひとつずつ潰していけばいい」
永井は小さく息を吐き、まだ不安げに眉を寄せながらも、二人の言葉に少しだけ肩の力を抜いた。
後ろの席から陽翔が身を乗り出し、顎に手を当ててぽつりと言った。
「ここからどうなるかはわからん。でも瞬崎先生にあそこまで言われたら、絶対見返してやりたいよ」
その言葉に、緊張していた車内がすっと和む。誰かが小さく笑い、窓に映る夕焼けがみんなの顔をオレンジ色に染めた。永井は深く息を吸い、毅然とした表情で小さく頷いた。
再合奏まであと4日
翌日。
放課後、響たちはいつものように楽器を抱えて音楽室へと向かった。扉を開けた瞬間、空気が少し張りつめているのを感じた。
正面に立っていたのは部長の久瀬だった。背筋を伸ばし、まっすぐこちらを見据えている。
「……ごめん。今日は練習なしにしてほしい」
思わず足を止めた響たちに、久瀬は続けた。
「今、部全体の雰囲気がすごく悪くなってる。パートごとに温度差も大きいし、三年生が来なくなってるのも無視できない。だから……今日と明日は練習をOFFにして、パートリーダーで集まって方針を話し合うことにした」
来島が小さく口を開く。
「……ほんまに、休んで大丈夫なんですか?」
久瀬は苦しそうに微笑んだ。
「大丈夫かどうかは、正直わからない。でも今のまま突っ走っても、きっとバラバラのままだと思う。だから、まずは部のことをちゃんと考えたい。……本当に、ごめん」
部長の頭が深く下がる。誰もすぐに言葉を返せなかった。楽器ケースを持ったまま立ち尽くす響は、胸の奥がひやりと冷えるのを感じていた。
──その背後。
扉の影に、真尋の姿があった。薄暗い廊下から音楽室を見つめるその表情は、声を上げることもなく、ただ静かに怒りを湛えている。
やがて彼は小さく息を吐き、踵を返してその場を立ち去った。
その気配に、誰一人気づく者はいなかった。
その日の夜、母が湯気の立つお椀を差し出しながら、笑顔で響に声をかけた。
「響、部活はどう? ちゃんとやれてる?」
響は箸を止め、少し考えてから淡々と答える。
「……やれてるとは思う。でも、今は大変だよ」
父が顔を上げる。
「大変?」
「うん。バスパートはまとまってきてるけど、クラリネットは全然練習してないし、3年の先輩も来なくなってる。今日だって部長が練習を中止して、パートリーダー会議を開くって言ってた」
その言葉に父は少し黙り込み、やがて低い声で言った。
「……そうか。まあ、どんな組織でも足並みは揃わんもんだ。全員が全力なんてことは、滅多にない」
母が少し眉をひそめる。
「あなた、言い方がちょっと冷たいわ」
父は苦笑をして言葉を継ぐ。
「冷たいんじゃない。現実だ。響、お前がやる気を失わないことが一番大事だ。人を変えるのは難しいが、自分のやり方は変えられる」
母は困ったように笑いながら、響を見つめる。
「でもね、響はちゃんと頑張ってるんでしょう? それならきっと、誰かに伝わるわよ」
響は二人のやりとりを聞きながら、ただ箸を動かす。
──父の現実的な言葉も、母の優しい言葉も。どちらも正しく聞こえるけれど、どこか遠くに感じた。
すると母がふと思い出したように箸を置いた。
「そうだ響。来週、愛美が帰ってくるのよ」
「……愛美?」
響は顔を上げる。
「お姉ちゃん。大学も忙しかったけど、やっと時間が取れたみたいでね。二年ぶりかしら。久しぶりに家族そろって夕飯ができそうよ」
父が腕を組みながらうなずいた。
「愛美、大学三年だな。もう二十一か。ずいぶん大人になっているだろう」
母は嬉しそうに笑う。
「響も楽しみにしてて。きっと賑やかになるわよ」
「……うん」
響は短く返事をして、箸を動かした。その声色には懐かしさも照れもなく、ただ落ち着いているように聞こえた。けれど両親は気づくことなく、互いに顔を見合わせて柔らかく微笑んでいた。
父がなんとなくつけたテレビの画面に、大きなタイトルが映し出された。
「頑張れ!ジャパンズブラス♫ 〜吹奏楽部の挑戦〜」
アナウンサーの明るい声が響く。
『こちらは豊川高校吹奏楽部。現在、6月に行われる「ナーガバンドフェスタ」に向けて、ステージドリルの練習に励んでいます』
映像が切り替わり、広いグラウンドいっぱいに隊列を組む生徒たちの姿が現れる。
トランペットのベルが一斉に上がり、ドラムラインのリズムに合わせて整然とステップを踏む。フォーメーションは次々と変わり、色鮮やかなカラーガードの旗が空に舞った。
『ナーガバンドフェスタは、長野県中の小中高校が集まり、演奏やマーチングを発表する県内最大の吹奏楽イベントです。観客動員は毎年数千人。地元の音楽文化を支える大きな舞台として、多くの生徒がこの日のために練習を重ねています』
「へぇ……そんなのがあるんだ」
母が感心したように声を漏らす。
画面の中の豊川高校吹奏楽部は、汗を光らせながらも力強く動き続けていた。その表情には苦しさよりも、仲間と挑戦する喜びがあふれている。
響は画面をじっと見つめながら、胸の奥がかすかにざわつくのを感じていた。
再合奏まであと3日
音楽室の机を並べて作られた大きな円卓。その周りに各パートのリーダーたちが集まっていた。
正面に立つのは部長・久瀬。背筋を伸ばしてはいるものの、その表情には疲労の色が濃く滲んでいた。
「……みんな、今日は集まってくれてありがとう。もう知ってのとおり、部全体の雰囲気が悪くなっている。三年生が練習に来なくなってるのも、放ってはおけない。だから、今後どうするか――ここでしっかり決めたい」
静かな開幕。
しかしすぐに、トランペットパートリーダーが苛立ちを隠さずに切り込んだ。
「決めるって言っても、結局“やる気がある奴”と“やる気がない奴”で分けるしかないだろ。練習に来ない3年を待ってても時間の無駄だ」
「待って!」
フルートのリーダーが声を上げる。
「簡単に切り捨てるなんて無責任すぎる!3年生がいなかったら音が足りないのよ?本番でどうするの!」
「でもな、来ない奴のことなんか待っててもしょうがないだろ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
2人の声がぶつかる。
「ほら見ろ、こうやって話が進まねえんだよ」
打楽器リーダーが椅子にふんぞり返り、深いため息をついた。
「俺らは時間が足りねえって言ってんの。なのに会議ばっかりで、練習できる時間が減ってる」
「でも!」
クラリネットのリーダーが反論する。
「そもそもあなたたち打楽器は、自分の練習ばかりで合わせに来ないじゃない! あれじゃ周りと歩調が合わないわ」
「はぁ!? 俺らはいつも自分のパート練で手一杯なんだよ! メロディばっかりやってる木管に文句言われたくねえ!」
「ちょっと待てよ! そうやって責任を押し付け合うのはやめろ!」
ユーフォの若田が口を挟むが、声は他の言葉にかき消される。
「だったら合奏を増やせばいいじゃん!」
「合奏するにしても、人が揃わなきゃ無意味だろ!」
「じゃあ揃うのを待つの? そんな時間、どこにあるの!」
「……あんたたち、自分のことしか考えてない!」
言葉が飛び交い、机の上の空気はどんどん濁っていった。久瀬は必死に状況を見守るが、止める言葉が見つからない。
「……あのさ」
サックスのリーダーが口を開く。
「本番まであと少しなんだよ? こんな風にやり合ってる時間すら無駄だと思わない?」
「じゃあどうすればいいんだよ!」
「知らないわよ!」
声は次第に荒れ、互いに譲らない。打ち消し合う声ばかりで、建設的な案は何一つ出てこなかった。
(……これじゃ、前に進めない)
久瀬は拳を膝の上で固く握りしめる。部長としての責任感が喉元を締めつけるのに、出てくる言葉はあまりにも弱い。
「……今日は、ここまでにしよう」
絞り出すような声。その瞬間、議論の熱気が一気に冷え、重苦しい沈黙が広がった。椅子が引かれる音、楽譜が片付けられる音。
誰も目を合わせず、口を開こうとしない。残されたのは、結論のない会議と、疲弊した空気だけだった。ふと時計を見ると、もう二時間近く経っていた。
だが、得られたものは何もない。久瀬は俯きながら、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「……どうすれば、いいんだ」
再合奏まであと2日.......
止まってしまった合奏。
でも、止まったままでは終わらない。
僕たちの音は、必ず次へとつながっていくはずだから。
......もし自分の声が届かないとしたら、あなたならどうしますか?
僕はきっと、それでも吹き続けると思います。
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