42話 強豪の輪郭
県大会を越えた先には、これまでとは比べものにならない世界が待っている。
名前を聞くだけで空気が変わる学校。
噂だけで実力が伝わってくる存在。
東縁高校吹奏楽部は、知らなかったはずの“次の壁”を、
少しずつ、確かに意識し始めていた。
そして同時に――
気づいてしまった者もいる。
自分の音が、まだ届いていないということに。
夏祭りが終わり、季節は一気に現実へと戻った。
東縁高校吹奏楽部は、東海大会に向けての練習を再開していた。
放課後の音楽室。
部員たちはいつもより静かに席に着き、前方に立つ瞬崎を見つめている。
瞬崎は紙を配りながら口を開く。
「今日は東海大会に向けたオーディションについての詳細を伝えます」
瞬崎はそう切り出し、淡々と続けた。
「順番や方法は、これまでと同じです。各パートごとに演奏し、合否を決定します」
一瞬、空気が引き締まる。
「審査員は、わたくし瞬崎。そして副顧問の瀬戸川先生、外部指導の董白先生」
そこまで言って、瞬崎は一度言葉を切った。
「……そして、もう一人。お入りください」
音楽室の扉が静かに開く。
入ってきたのは、一人の女性だった。
黒髪のロングストレート。整った佇まいと、どこか張りつめた空気。
ざわ、と小さく教室が揺れる。
「……綺麗」
「やば……」
陽翔と来島も思わず視線を奪われていた。
女性は前に立ち、軽く一礼する。瞬崎が紹介した。
「今日から董白先生と同じく、外部指導として東縁高校吹奏楽部を見ていただく」
一拍置いて、はっきりと告げる。
「――仙道梨ヶ亜先生です」
女性は短く頷き、口を開いた。
「仙道梨ヶ亜です。担当は木管とパーカスです。よろしくお願いします」
それだけだった。だが、その一言で、音楽室の空気は完全に変わっていた。
瞬崎は続ける。
「今回のオーディションは、仙道先生を含めた四人で審査を行います」
その言葉に、部員たちの背筋が自然と伸びた。
「仙道先生はこう見えて、東縁高校のOGです。指導力は、董白先生が保証します」
「フン、まぁこの僕が推薦した人だからね」
「瞬崎先生?どう見えてそう言ってるんですか?」
瞬崎は笑顔で答える。
「別に、変な意味で言ってるわけではありませんから」
「ふふ、そうなんですか」
そんな会話を見ている部員達は疑い始める。
(瞬崎先生と仙道先生ってまさか...)
瞬崎は一拍置いて続ける。
「それはさておき、みなさん。何はともあれ東海大会です。今まで以上に辛く、そして厳しい戦いになるでしょう」
董白や瀬戸川も頷く。
「ですが、怯えることはありません。今のみなさんは全国に行く素質が十分にあります。だからこそ、努力を怠らないこと。これがとても大事です」
董白も口を挟む。
「瞬崎君の言う通りだ。もちろん。東海ってなると強豪校ばかりになってくる。でも、みんなはそんな強豪校に引けを取らない程にまで成長しているんだ。自信を持って、自分を信じて吹き続けるんだ」
「はい!!」
瞬崎は全体を見渡し口を開いた。
「では皆さん。来る東海に向けて。練習の時間です!!」
「はい!!!」
全体練習。
合奏が始まると、空気は一気に張り詰めた。指揮台には瞬崎。その横、少し後ろに董白と仙道が立っている。
三人の視線が、同時に部員たちを射抜いていた。
「――ストップ」
瞬崎の一声で、音が一斉に切れる。
「全体のテンポ感は悪くありません。ただし、流れに甘えています」
指揮棒で譜面を軽く叩く。
「特に中低音。フレーズの終わりで、音が下がる癖が出ています。支えが足りません」
バスパートに視線が向く。
来島が息を詰める。
そこへ、董白が一歩前に出た。
「今の演奏ね、“正解”ではある。でも“武器”にはなってない。東海ではね、正しく吹けるだけじゃ埋もれるんだ。もっと音を前に出るんだ。怖がらずに」
董白は響の方を見る。
「特にユーフォ。君の音、綺麗なのはいいが、もっと荒くていい。ここは“叫ぶ”場所だ」
「はい」
響は小さく頷いた。そして――仙道が静かに口を開く。
「木管、今の和音。縦は合ってるけど、横が合っていません」
その声は低く、淡々としていた。
「旋律を追うのではなく、“誰の音に寄り添うか”を意識してください。今は、全員が主役になろうとしています」
一瞬の沈黙。
「特に、フルートとオーボエ。息のスピードが違う。
音量じゃなく、方向を揃えてください」
天奏の指が、無意識に楽器を握り直す。仙道はさらに続けた。
「次に、パーカス。合図が遅れています。叩く前に、必ず全体を見てください。あなたたちは“合図役”です」
瞬崎が、満足そうに一度だけ頷いた。
「では、もう一度。今言われたことを、全部踏まえて」
指揮棒が上がる。
さっきよりも、重く。
さっきよりも、鋭く。
三人の指導が交差する中、音は確実に“次の段階”へと踏み出していた。
いつものバスパート練習教室。
東海大会に向けた練習が始まったとはいえ、ここだけは不思議と変わらない空気が流れていた。
瞬崎から手渡された紙を、机の上で広げる。そこに書かれていたのは、東海大会オーディションの各パートごとの課題内容だった。
ユーフォニアム
・課題曲Ⅰ「マズルカ」:頭〜B
・自由曲「黎明れいめい」:中間部ソロ前〜ソロ終わり
チューバ
・課題曲I「マズルカ」:L〜ラスト
・自由曲「黎明」:頭〜B、D
コントラバス
・課題曲 I「マズルカ」:C〜D
・自由曲「黎明」:A〜C、J〜Kの三小節前
……また変わってる。
思わず眉をひそめた。
音程、音色、フレーズ処理。各楽器ごとにできてないところが丸出しだった。
「……なんでこう、毎回ピンポイントで嫌なとこ突いてくるんだよ」
来島がぼそっと愚痴を漏らすと、すぐ隣で楽譜を見ていた永井が笑った。
「だからオーディションなんだよ。甘くないって」
反対側から香久山も顔を上げる。
「今回こそだろ。東海大会だぞ?」
来島は紙を握りしめたまま、視線を落とす。
「分かってますよ……分かってますけど」
永井が肩を軽く叩いた。
「今回こそ、レギュラー取ってね!」
その一言に、来島は小さく息を吐いて、ゆっくりとうなずいた。
「……ああ」
東海大会は、もう始まっている。
少なくとも、この部屋では。
いつものように譜面台を囲み、各自が音出しを始めようとした、その時だった。
「……ねえ」
ふと、桜咲が顔を上げる。
「東海大会ってことはさ――」
その一言で、空気がわずかに変わった。
「……いるんでしょ?」
一拍置いて、桜咲は言った。
「東海三神」
すると動いていたはずの手が、一斉に止まった。
――響と、来島を除いて。
「……」
響は何も言わず、ただ楽譜に視線を落としたまま。来島は状況が飲み込めず、首を傾げる。
「東海三神?何それ」
その言葉に、周囲が一瞬だけ沈黙した。
若田が、ゆっくりと息を吐く。
「……知らないの?」
香久山が続ける。
「東海大会に出るなら、絶対に避けて通れない三校だな」
桜咲が、静かに言った。
「まず――」
桜咲が指を一本立てた。
「長野県豊川高校。別名、“信濃の魔王”」
その名前に、何人かが無意識に息を呑む。
「三神の中でも、いちばん歴史が長い古豪。技術力は文句なし。奇をてらわない、正統派の強豪校だね」
「基礎、音程、アンサンブル。全部が高水準だからねぇ」
今伊が補足する。
「そこまで派手さはないけど、崩れない。だから強い」
来島は思わず顔をしかめた。
「……一番、相手したくないタイプだな」
「次」
桜咲は指を二本立てる。
「静岡県駿河栄聖高校。別名、“駿河の金冠殿”」
その瞬間、誰かが苦笑した。
「とにかく――財力の暴力で楽器、練習ホール、設備。全部が最高級品」
香久山が淡々と言う。
「金管は特にえげつない。音量も、パワーも、圧で潰してくる」
「努力もしてるんだろうけどさ」
桜咲は肩をすくめる。
「スタート地点がもう違うんだよ」
来島は乾いた笑いを漏らした。
「……勝てるんですか、それ」
「最後」
桜咲は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「名古屋エーストリア学園」
空気が、わずかに冷える。
「別名――“白律の悪魔”」
その呼び名に、部屋が静まり返った。
「天使みたいな顔して、平然と超絶技巧をやる連中」
「難しいことを、簡単そうにやるんだよ」
今伊がぽつりと付け加える。
「しかも、全員で」
桜咲は苦笑する。
「だから悪魔。あれはもう、人間のふりした化け物」
来島は言葉を失っていた。
「……東海大会って、地獄じゃん」
誰も否定しなかった。ただ一人、響だけが静かに譜面を閉じる。
東海三神。
全国の前には、最大の壁が立ち塞がっていた。
他パートが、それぞれの教室へ散っていった後。足音が遠ざかり、扉が閉まる。
音楽室に残ったのは、天奏ただ一人だった。譜面台の前に立つ天奏の向かい側。
少し距離を取って、董白と仙道が並んでいる。
「じゃあ、天奏」
董白が顎で合図する。
「もう一度、さっきのフレーズを」
天奏は小さく息を吸い、オーボエを構えた。
音が流れ出す。
澄んだ音色。
音程は安定していて、フレーズも丁寧。技術的な破綻は、どこにもない。
演奏が終わる。
しばらく、沈黙。
最初に口を開いたのは董白だった。
「……うん。上手い」
そう前置きしてから、仙道の方を見る。
「仙道さん。オーボエ、これでいいのかい?」
天奏の肩が、わずかに揺れた。
仙道はすぐには答えなかった。天奏に近づき、譜面を指でなぞる。
「ここ」
静かな声。
「この入り、音は完璧です。でも――」
仙道は天奏を見た。
「あなた、ずっと“正解”を吹いています」
天奏は何も言わない。
「確かに技術はある。息も、指も、耳も良い」
一拍置く。
「でもね、その音は“誰にも触れない”」
天奏の指先が、きゅっと楽器を握る。董白が腕を組んだまま、頷いた。
「そう。綺麗だけど、刺さらない。悪く言えば、無難」
その言葉に、天奏は俯いた。
仙道は続ける。
「あなたのオーボエは、守りに入っている。間違えないための音。評価されるための音」
そっと、譜面を閉じる。
「でも、この曲は違う。このフレーズは、“何かを伝えるため”に書かれている」
天奏は、かすれた声で尋ねた。
「……どう、吹けばいいんですか」
仙道は少しだけ、表情を和らげた。
「答えは、楽譜にはありません」
そして、静かに言う。
「あなた自身です」
沈黙。
董白が、ふっと息を吐く。
「技術があるからこそ、迷うんだ。怖いんだ。自分を出すのがな」
天奏は何も言わなかった。ただ、その目に、わずかに揺らぎが生まれていた。
仙道は最後に、こう付け加えた。
「もう一度、吹いてみましょう。今度は、“上手く吹こう”としなくていい。あなたが、いま抱えているものを、そのまま音にしてください」
天奏は、ゆっくりと息を吸った。再びオーボエを構える。
その音は――さっきより、少しだけ震えていた。
名前を知っただけで、世界は少し狭くなった気がした。
これまで越えてきた舞台が、決して“頂点”ではなかったことを、誰もが薄々理解し始めている。
それでも音は止まらない。
足りないと知ったからこそ、前に進むしかなかった。
東海大会。
そこは、ただ強いだけでは立てない場所だ。
それぞれの音が、何を背負い、何を失い、何を求めて鳴るのか。
次の舞台で、それが試される。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




