41話 夜空に誓う
夏祭りは、不思議な時間だ。笑い声も、太鼓の音も、花火の光も――気づけばあっという間に過ぎ去ってしまうんだから。
......でも夏祭りは確かに僕たちを次の舞台へと誘ってくれる。
都畿川高校の演奏が終わると、河川敷は一気に拍手と歓声に包まれた。
ステージ上では、奏者たちが深く頭を下げ、ライトの中で笑顔を見せている。
「……やっべ」
その拍手の中で、陽翔だけがスマホを見つめたまま固まっていた。
「どうしたの?」
「今日、塾だった」
一拍置いて、陽翔の顔色が変わる。
「完全に忘れてた……!」
そう言うなり、立ち上がる。
「ごめん!俺、先帰る!楽しんでな!!」
返事を聞く前に、陽翔は人混みの中へ全速力で駆けていった。
「相変わらずだな……」
そう呟いた直後、今度は来島が遠くを見て目を細めた。
「あ、あれ、真春だ」
「え、誰?」
「昔の友達。ちょっと行ってくるわ」
「来島君まで?え、ちょっと」
軽く手を振って、来島も人の波に紛れていく。残ったのは、響と柊木、奏多と永井だった。
「次、どこの学校?」
奏多がパンフレットを覗き込みながら言う。
「たしか、寺尾高校かな」
永井はステージの方を向いたまま頷いた。
「じゃあ、次も聴こうか」
「うん!」
二人はそのまま腰を下ろし、次の演奏を待つ。その様子を一瞬だけ見てから、柊木が静かに立ち上がった。
「僕らも、これから予定あるんだ」
「……僕ら?」
そう聞き返した瞬間、柊木は何も言わずに響の手を取った。
「帰るね」
「え、ちょ、ちょっと待って〜!」
奏多の声が背後から飛んでくる。
でも足は止まらなかった。響と柊木は、そのまま人混みを離れて歩き出す。
拍手と音楽の残響が、少しずつ遠ざかっていった。
人の流れに身を任せて歩いているうちに、気づけば二人は、さっきまでいた演奏会場の賑わいから、さらに奥へと進んでいた。
屋台の列はまだ続いているが、太鼓や拍手の音はもう遠い。代わりに、油の弾ける音と甘い匂いが周囲を満たしていた。
響は足を止め、周囲を見回してから首をかしげる。
「……帰るんじゃなかったの?」
柊木は少しだけ歩調を緩め、響の方を見る。
その表情はどこか照れたようで、でもはっきりしていた。
「やっぱりさ。こういうのは……」
一瞬言葉を探してから、続ける。
「響と、二人きりで楽しみたかったんだ」
思いがけない言葉に、響は一瞬だけ目を瞬かせる。柊木がこんなふうに言うのは、珍しい。
「へぇ、そうなんだ」
「なんか変?」
「いや、別に、良いと思うよ」
それ以上は何も言わず、二人は並んで屋台の列の中へ足を踏み入れた。
人混みのざわめきに紛れて、さっきまでの演奏の余韻が、少しずつ夏祭りの空気へと溶けていく。
「それで、どれにする?」
白いカーテン越しに、夕方の淡い光が病室に差し込んでいた。
機械の規則正しい音だけが、静かに空間を満たしている。
ベッドの脇に置かれた椅子に、瞬崎は腰を下ろしていた。
目の前には、変わらず眠り続ける娘――音色。
その顔は穏やかで、まるでただ深い夢を見ているだけのようだった。
「……音色」
返事がないと分かっていても、名前を呼ぶ。瞬崎は小さく息を吸い、独り言のように言った。
「お父さんさ……東海大会に、行くことになったんだ」
音色は、何の反応も示さない。
病室には、ただ機械音だけが、変わらず響いていた。
まぶたも、指先も、微動だにしなかった。
当然だった。
それでも、瞬崎は言葉を止めなかった。
「今まで……苦労ばっか、かけちゃったな。部活も、家のことも……全部、後回しにして。ただ音楽を押し付けていたのかもしれない」
ベッドのシーツを、ぎゅっと握る。
「でも」
一度だけ、はっきりと前を向いた。
「いつか絶対に、全国に連れていってやる」
それは、誰に聞かせるでもない誓いだった。その瞬間、瞬崎の頬を、一筋の涙が静かに伝う。
「だから……」
声が、かすれる。
「だから、早く目を開けてくれ、音色」
答えは、返ってこなかった。病室には、ただ機械音だけが、変わらず響いている。
そのとき、病室の扉を叩く音がした。瞬崎は慌てて頬を拭い、深く息を整える。
「……どうぞ」
「失礼します」
静かに入ってきたのは、董白だった。
手には、小さな紙袋を提げている。
「音色ちゃんのお見舞いだ」
「こんな時間に……ありがとうございます、董白先生」
瞬崎が頭を下げると、董白は肩をすくめて、少しだけ笑った。
「いやいや。瞬崎君の娘さんだろ。放っておけんさ」
その言葉に、瞬崎も小さく笑みを返す。
「……そうですね」
董白はベッドの方へ視線を向け、眠る音色をじっと見つめた。
そして、表情を引き締める。
「まだ、目は覚めないんだな」
「はい……」
一瞬、病室に沈黙が落ちる。だが、董白はすぐに、はっきりとした声で言った。
「落ち込むことはない」
瞬崎の方を向き、続ける。
「瞬崎君の勇姿は、ちゃんと届いている」
「……」
「だから、今まで通りやるんだ。それでいい」
その言葉は、指示でも慰めでもなく、確信だった。
瞬崎はゆっくりと頷く。
「……ありがとうございます」
短い言葉だったが、そこには深い感謝が込められていた。
「こんなところではへたれてたら東海大会、上手くいけないぞ?一応顧問なんだからな」
「それは、どういう意味ですか?」
「イエ、ナンデモアリマセン」
瞬崎は、一拍置いてから、静かに口を開いた。
「……東海。まさか、本当に東海大会とは」
その声には、驚きと、わずかな実感のなさが混じっていた。
董白は小さく息を吐き、同じように言葉を継ぐ。
「そうだな。都幾川に、曾野江第一……」
そこで一度、言葉を切る。
「それに――東海三神、か……」
その名を聞いた瞬間、瞬崎の視線がわずかに揺れた。
「……東海三神、ですか」
董白は頷き、淡々と、しかし重く告げる。
「豊川高校。駿河栄聖高校。エーストリア学園」
一つ一つ、噛みしめるように名前を並べる。
「今見ても……やばい奴らだ」
冗談めかした口調ではなかった。
長年、音楽と向き合ってきた者だからこそ出る、率直な評価だった。
瞬崎は何も言わず、眠る音色へと視線を戻す。
その背中に、これから立ち向かう現実の重さが、静かにのしかかっていた。
奏多と永井は並んで腰を下ろし、次の演奏を静かに聴いていた。すると、近くを久瀬くぜや狩川が通り過ぎる。
「あ、奏多君に永井君じゃん」
「部長さん達も、来てたんですか?」
奏多が少し驚いた声で訊く。
「そりゃあ、夏祭りだからね。こういうのは楽しまなくちゃ」
狩川は軽く笑った。
「てか、二人が来てるってことは……響くん達も来てるの?」
永井は肩をすくめて答える。
「あー、響君は柊木君と一緒にもう帰りました」
そのとき、遠くから大きな怒鳴り声が聞こえた。
「なんだその服装は! 高校生らしく楽しめと言っただろ! 通行人の邪魔だ。広がって歩くんじゃない!」
「うわ、瀬戸川先生だ」
「逃げろ逃げろー」
声の主は瀬戸川。どうやら旦那と一緒に来ていたらしい。旦那はなんとか仲裁しようとする。
「ま、まぁせっかく祭りなんだからいいじゃないか」
「あなたは黙ってなさい!」
「ハイスミマセン」
久瀬はその様子を見て苦笑いし、そそくさと立ち去る。
「じ、じゃあ二人も楽しんで〜……あははは」
奏多と永井は、笑いをこらえながらも、夏祭りの空気に身を任せて次の演奏に耳を傾けた。
たこ焼きを紙皿に受け取り、響と柊木は少し離れた場所に腰を下ろした。
人混みから少し距離を置くと、周囲のざわめきは残るものの、屋台の熱気と笑い声が柔らかく耳に届く程度になった。
「ふぅ、やっと座れたね」
響が息をつく。手にはまだ温かいたこ焼きが残っている。
「ここなら人混みもそんなやばくないし」
柊木が小さく笑う。その目は夕暮れに淡く染まる川面を見つめていた。
空は徐々に茜色から深い藍へと移ろい、祭りの最後のプログラム――花火大会が始まるのを待っている。
向こう岸では、打ち上げの準備をする光がちらちらと見えた。
響はたこ焼きをひと口頬張る。熱くて、でも香ばしい。柊木も同じようにひとつつまんだ。
「……あと各校の演奏が二団体。その後、打ち上げ花火か」
「うん。楽しみだね」
静かに、二人だけの時間が広がる。
人混みも、演奏も、もう届かない。あるのは、夏の匂いと、花火の夜を待つ期待だけだった。
「……東海大会か」
響は呟く。豊川や都幾川。東縁と一緒に県代表として立つ。
柊木はしばらく考えるように空を見上げた。
「うん……でも、どこが相手だろうと関係ないよ。東縁高校として、120%をぶつけるだけ」
響は少し肩をすくめ、笑った。
「120%……大丈夫かな?そんな甘くないでしょ」
「大丈夫に決まってる。今年は違うんだって他に見せつけるんだから」
柊木の瞳は真剣そのもので、夜空の暗さに負けない強さを宿していた。
響は考え込むように空を見上げる。
「でも……まさか、本当に行けちゃったりしてね。全国」
柊木はふっと笑みを浮かべ、即答する。
「行くに決まってるでしょ? 僕たちがここまで来たんだ。行けないわけがない」
響は少し驚いた顔で柊木を見る。
「……そんなに自信あるんだ」
「自信じゃないよ。確信かな。瞬崎先生も董白先生もいる。部長に先輩に、何より......」
柊木は軽く手を肩の高さまで振って、響に笑いかける。
「響がいるから」
柊木は頷き、少し間を置いてから真剣な声で言った。
そのとき、遠くでアナウンスが響き渡る。
「皆さんお待たせいたしました。ただ今からプログラムをフィナーレを飾ります。Summer Night in Nagano 花火大会〜東国、奇跡の下剋上〜 お楽しみください!!!」
二人の視線が夜空へ向く。まだ闇に沈む夏の夜、花火の光が夜空に弾けるその瞬間、二人は静かに互いの手に力を込め、次の大きな舞台への覚悟を胸に刻んでいた。
夏の夜風に、祭りの熱気がまだ残る。僕らの夏祭りは終わった――でも、この風は次のステージへと僕らを運んでいく。
夏の夜は終わり、僕らの祭りも幕を下ろした。だけど、この瞬間の静けさの向こうに、もう次の舞台が待っている。
東海大会――その光景はまだ見えないけれど、胸の奥の覚悟は確かに燃えていた。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




