38話 約束のステージ
今日、東縁高校吹奏楽部は、県大会の舞台に立つ。朝の光に背中を押され、静かに胸を高鳴らせる部員たち。これまでの努力、重ねてきた時間、互いに支え合ってきた日々――すべてが、音となって響く瞬間を待っている。
まだ、何も始まってはいない。けれど、すべての音が動き出す予感は、すでに確かにあった。
目覚ましが鳴る。
響は、音が鳴る前に止めてしまったかのようなタイミングで、素早く手を伸ばす。
カチッ——小さな音。今日、目覚めた瞬間から、心臓は既に少し速く打っていた。
ベッドから起き上がり、窓の外を見やる。朝の光が、長い夜の疲れを一瞬で洗い流すようだ。
今日は本番。
東縁高校の旗を背負い、県大会という舞台に立つ日。
「ここまで……やってきたんだ」
響は小さく、自分自身に言い聞かせる。
昨日の練習の余韻、部員たちの声、董白や瞬崎先生の言葉――
すべてが、胸の奥に静かに響いていた。
「必ず行く、先へ――」
深呼吸をひとつ。肩を伸ばし、鏡に映る自分の顔を見据える。
緊張はある。けれど、それ以上に、胸の奥に燃えるような期待があった。
今日のステージは、単なる大会ではない。全員で積み上げてきた時間を、心で感じ、そして音に変える瞬間。
響はゆっくりと一歩を踏み出す。
今日、この一歩が、彼らの物語をさらに大きく動かす――そんな予感とともに。
登校時間。
校門の前には、いつもより少し早い時間にもかかわらず、黒いケースを抱えた部員たちの姿が集まり始めていた。
「おはよう」
「……おはよう」
交わされる挨拶は、どこか短い。笑顔はあるが、声は控えめで、全員が同じ方向を向いているのが分かる。
響も人の流れに加わり、音楽室前に並ぶ。すでにトラックが到着しており、打楽器や大型楽器の搬入が始まっていた。
「ティンパニ、こっち!」
「スタンド忘れてないか確認して!」
飛び交う声は的確で、無駄がない。練習の延長線上にある動きだが、今日だけは一つひとつが本番へ直結している。
ケースを運ぶ手に、自然と力が入る。
それでも誰も慌てない。
何度もシミュレーションしてきた流れを、身体が覚えている。
やがて、全員が揃ったところで、瞬崎の声が響いた。
「点呼を取ります」
一人ずつ名前が呼ばれ、そのたびに短く返事が返る。
「月本君」
「はい」
その一言に、響は小さく背筋を伸ばした。
点呼が終わると、瞬崎は全体を見渡し、静かに言った。
「ここまで、大きなトラブルはありません。予定通り進めます」
誰も声を出さない。
だが、その沈黙は不安ではなく、集中だった。
「まずは、豊川高校の音楽室を借りて最終リハーサルを行います」
「はい!」
しばらくして、バスへの乗り込みが始まる。ケースを積み込み、座席に腰を下ろすと、車内は自然と静かになった。
東縁高校吹奏楽部は、今、県大会という舞台へ向けて動き出していく。
目の前に広がるのは、豊川高校の校舎。
整えられた外観、広い敷地、行き交う生徒たちの落ち着いた動き。
「……すげぇ」
来島が、思わず漏らした。
ただ立っているだけで分かる。
ここは、県大会常連――いや、全国を知っている学校の空気だ。
無駄がない。
騒がしくもない。
それでいて、どこか張り詰めている。
(強い……)
響はそう感じながらも、視線を逸らさず、校舎を見据えた。
案内に従い、音楽室へ向かった。
廊下を進むにつれ、自然と足音が小さくなっていく。
やがて、音楽室の扉が開いた。
「……あ」
一瞬、拍子抜けしたような声が漏れる。
中は、想像していたほど特別な空間ではなかった。
広さも、設備も、東縁高校の音楽室と大きく変わらない。
「普通、だな……」
陽翔が小声で言う。
豪華な設備があるわけでも、最新の機材が並んでいるわけでもない。
ただ、必要なものが、必要な場所にある。
椅子が並べられ、譜面台が立てられる。
慣れた動きで、いつもの配置が再現されていく。
「……では、十分後にチューニングを始めます。大会直前なので、決して無理はせず」
瞬崎の声が、音楽室に落ちた。
「はい!!」
軽く音を出す。
その瞬間、空気が変わる。
(……いつもの、東縁だ)
課題曲、自由曲。
通して、止めて、もう一度。
音楽室に、東縁の音が形を持って広がっていく。
「フルート、入りが少し早い。焦らなくていいので、今のテンポを信じて吹きましょう」
「はい」
瞬崎の声は落ち着いていた。
決して怒鳴らず、しかし迷いもない。
「トロンボーン、和音の下を支えすぎています。もう一段、前に出てきましょう」
「はい!」
低音セクションの前に立った董白が、軽く床を踏み鳴らす。
「ベースの今の入り、揃ってはいる。でも、揃えることが目的になってる」
董白は、指で円を描くようにしながら続けた。
「流れを作ろう。音程より先に、方向だ」
「はい!」
短く、低音だけで音を出す。
「……そう。それ」
わずかな変化。
だが、音の芯がはっきりと立った。
「それを全体でやるんだ」
途中、曲は静かなセクションへ入る。
音数が減り、空間が広がる。
その中心に、若田のソロが置かれていた。
一音目が、そっと音楽室に落ちる。
澄んだ音色。
無理のない息。
しかし、どこか慎重すぎる。
「ストップ」
数小節進んだところで、董白が演奏を止めた。
「若田君」
名を呼ばれ、若田が小さく顔を上げる。
「はい」
「技術的には問題ない。音程も、音色も、十分きれいだ」
一拍、間を置いてから続ける。
「でも、今のは“安全”だ」
空気が、少しだけ張り詰める。
董白が一歩前に出た。
「ここは、誰の時間だ?」
若田は一瞬迷い、それから答える。
「……僕、です」
「そう」
董白は短く頷く。
「だったら、遠慮はいらない。後ろの音は、君を支えるためにある」
譜面を軽く叩く。
「ソロは、正確さよりも“方向”だ。どこへ連れていきたいか」
若田は楽器を構え直し、静かに息を整える。
「もう一度。今度は、周りを気にしなくていい」
瞬崎が指揮棒を上げる。董白は続けた。
「全員、ここは若田君を聴け。合わせにいくな、預けろ」
そうして、合奏は区切りを迎えた。
「ここまでにします。十分後に出発です。素早く、でも慌てず片付けをしてください」
「はい!」
瞬崎の一声で、張り詰めていた空気がふっと緩む。椅子が引かれ、譜面台が畳まれ、楽器ケースのファスナーが次々と閉じられていく音が、音楽室に重なった。
響も譜面をまとめながら、軽く息をつく。集中していた分、身体の奥にじんわりと疲労が残っていたが、不思議と嫌な感覚ではなかった。
ふと、視線を上げる。
パーカッションの方角。先輩の一人が黒板の前に立っているのが見えた。白いチョークを持ち、何かを書き足している。
何気なく近づき、文字を追う。
黒板いっぱいに、大きく、まっすぐな字。
『ありがとうございました!!
東縁高校吹奏楽部一同』
一瞬、時間が止まったような気がした。
豪華な言葉でも、飾った表現でもない。ただ、それだけ。
けれど、その一文に、ここまで積み上げてきた練習と、今日この場で交わした音と、互いに向けた敬意が、すべて詰まっているように感じられた。
「……いいなですね、これ」
先輩の隣りにいたパーカスの一年が小さく呟く。
響は何も言わず、黒板を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
強豪校の校舎。知らない場所。初めて踏み入れた音楽室。それでも、音を通じて確かにつながったものがある。
ケースを持ち上げ、出口へ向かう直前、響はもう一度だけ振り返った。
黒板の文字は、静かにそこに残っている。
——この練習も、無駄じゃない。
そう思えたことが、何よりの収穫だった。
バスが減速し、ゆっくりと停車する。
ドアが開いた瞬間、外の空気が一気に流れ込んできた。
「……でか」
誰かの呟きが、ほとんど同時に何人もの心の声を代弁していた。
目の前にそびえ立つのは、長野県民文化会館。
県内最大級のホール——通称、ホクト文化ホール。
以前立った文化ホール《言の葉》とは、まるで別物だった。
建物そのものが大きい。
天井も、壁も、入口のガラス越しに見える空間も、すべてが広い。
(……ここで、やるんだ)
響は無意識に、建物全体を見上げていた。
音を出す前から、圧を感じる。
ここは、音が“吸い込まれる”場所だ。
「降ろすぞ!打楽器、順番気をつけて!」
現実に引き戻されるように、搬入が始まる。
トラックの荷台から、次々と楽器が下ろされていく。
バスドラ、ティンパニ、マリンバ。
金属のケースが床に置かれるたび、鈍い音が響いた。
「通路、塞がないように!」
係員の声に応じながら、部員たちは黙々と動く。
疲れは、もう確実に溜まっていた。
朝からの移動、リハーサル、そしてこの搬入。
肩が重い。
本番前だというのに脚も、少しだけ言うことをきかない。
それでも、誰も弱音は吐かない。ここまで来たら、もう引き返せない。
搬入を終え、案内されたホワイエへ向かう。
広い空間に、ずらりと並ぶ椅子。
高い天井から落ちる照明が、やけに白く感じられた。
「……疲れた」
来島がぽつりと言い、何人かが小さく笑う。
そのまま、ほとんど同時に椅子、地面に座り込んだ。
ケースを足元に置き、背もたれに身体を預ける。
深く息を吐くと、ようやく自分が緊張していたことに気づいた。
(もう、ここまで来たんだな)
ホワイエの一角には、スピーカーとモニターが設置されている。
画面には、ステージの様子。音声は、やや小さめだが、はっきりと聞こえた。
——演奏が、始まっている。
モニターの下に表示された学校名。
都畿川高校。
県大会常連。
安定感と完成度で知られる、強豪校のひとつ。
スピーカーから流れてくる音は、整っていた。
無駄がなく、迷いもない。
音程も、バランスも、崩れない。
「……やっぱ、うまいな」
来島が、低い声で言った。
否定も、反論もない。
響は、モニターを見つめながら、じっと耳を澄ませる。
ホールの響きに乗った音。
録音ではない、生の空間音。
(……広い)
音が、伸びる。
そして、消えるまでが長い。
ここでは、誤魔化しは効かない。小さなズレも、弱さも、すべて露わになる。
同時に——
正しく鳴らせば、音は、どこまでも届く。
突然、ホワイエに流れていた空気が、ふと揺れた。
その中心にいたのは——
「……っ!」
奏多が、急に立ち上がった。
さっきまで椅子に深く座り込み、半分ぼんやりしていたはずの目が、次の瞬間にははっきりと光を帯びている。
「ちょ、奏多?」
陽翔が声をかけるより早く、彼は指差した。
「見て!あれ!!」
視線の先。
ホワイエの一角に、ひときわまとまった集団があった。
同じ色のケース。
同じ動き。
同じ空気。
「豊川高校だ」
その一言で、周囲の空気が一段引き締まった。
すでに演奏を終えたらしい。全員が、自然と一つの塊になって立っている。
騒がしくない。
はしゃいでもいない。
それなのに——
「本物だ……」
奏多が、抑えきれない声で呟いた。
目は完全に釘付けだった。
息をするのも忘れているかのように、じっと、その集団を見つめている。
「やば……実在してる……」
「当たり前だろ」
陽翔が小さく突っ込むが、奏多は聞いていない。
「ねぇ、あの低音の並び見た?立ち方からもう違うんだけど!」
「ちょ、落ち着けって」
「無理!!」
即答だった。
「だって豊川だよ!?豊川高校だよ!?県大会の、全国常連だよ!?」
興奮が、そのまま言葉になって溢れ出ている。
響も、視線をそちらへ向けた。
確かに、違う。
立ち姿が、もう“演奏後”のそれだった。テレビで見ていたのとは、また違ったオーラを感じた。
やり切ったあとの、静かな余裕。
音を出していないのに、存在感だけが残っている。
豊川の部員たちは、互いに小さく言葉を交わしながらも、どこか落ち着いていた。結果を待つ緊張も、反省も、すでに自分たちの中で整理されているように見える。
「……すげぇな」
今度は、来島が静かに言った。
奏多はまだ興奮が冷めない。
「同じ高校生とは思えない……」
その言葉に、誰も否定しなかった。
けれど——
響は、ふと、思う。
(でも、だからって、遠いわけじゃない)
さっきまで、自分たちも、同じように音を出していた。
同じ楽譜を読み、同じ時間を積み上げてきた。
場所が違うだけ。
立っている位置が、少し前なだけだ。
そうしていると、係員の声が聞こえた。
「東縁高校の皆さん、移動をお願いします」
チューニングルームは、すでに静まり返っていた。
管楽器の金属音も、打楽器の低鳴りも、今はもうない。
残るのは、微かに空気が震える感覚だけ。
部員たちはケースを脇に置き、譜面台や椅子に手を添えて立っている。それぞれの顔には、朝からの移動、リハーサル、搬入で積み重なった疲れがうっすらと滲む。
しかし、その表情は決して弱さではなく、むしろ緊張を受け止める覚悟に満ちていた。
「……いいですね」
瞬崎の声は、いつもより少し低く、しかし確かな存在感を伴って部屋に落ちた。
「今日、このステージに立つのは、皆さん自身です。今まで積み上げてきた時間を、すべてここに込めましょう」
瞬崎の視線は、ゆっくりと全員の目をひとつずつ捉えていく。
「音程や技術だけじゃありません。音楽は、人の心を運ぶもの。信じるんです。自分の音を、仲間の音を」
部員たちは短く頷く。
その静かな返事に、言葉以上の意思が宿っていた。
「……今日の舞台は、簡単には行きません。でも、恐れる必要もありません。自分たちが作った音楽を、ただ届ければいい」
瞬崎は指揮棒を下ろし、肩の力を抜いた。
「行きましょう」
「はい!!」
舞台袖。
空気は、尋常ではないほど静かだった。耳を澄ませても、聞こえるのは前の学校、信濃明峰高校の演奏だけ。
控え室のざわめきも、観客席の気配も、すべてが遠く、微かに吸い込まれたかのようだ。
瞬崎は深く息を吸い、肩の力を抜く。
楽譜を手に握る手に、ほんの少しだけ震えを感じる。
しかしそれは恐怖ではなく、確かな集中の証だ。
視線はステージへ。
楽器を持った部員たちの姿、譜面台に置かれた楽譜、足元の踏みしめ方。
すべてが、今まで積み上げてきた練習の証だ。
(音色、見ててほしい……)
瞬崎は心の中で、ふと父の顔を思い浮かべる。
「お父さんが……絶対に全国に連れて行ってやる」
その約束が、胸の奥で小さく燃える。焦りや不安ではなく、揺るがぬ覚悟と信頼が、指先に伝わる。
空気が微かに震える。
ステージ袖を通り抜ける音の波。
それをただ、感じ、受け止める。
前の学校の演奏が終わるまで、全員の呼吸を合わせるかのように、静かに待つ。
そして——
「プログラム12番、長野県東縁高等学校。課題曲Ⅰに続きまして、自由曲、能世林作曲、黎明〜到来の夜明け〜。指揮は瞬崎カルマです」
アナウンスがホール全体に響き渡った。
瞬崎はわずかに頷き、楽譜を握る手を固くする。
胸の奥で、小さな鼓動が鳴る。
すべては、この瞬間のために。
何千、何百の顔が、皆同じ方向を向いていた。
東縁高校吹奏楽部の姿を、ホールの光の中で見つめるために。静かな空気、しかし確かに重みのある拍手が、空間に波紋のように広がっていく。
「……すごい」
来島の声は、震えるほど小さく、しかし誰にも届く力を持っていた。
周囲の仲間も、息をのむように、ただ前を見ている。
壇上に立つ久瀬の表情は、柔らかくも、揺るぎない。部員たちを見渡すその瞳には、誇りと安堵、そして次への覚悟が込められていた。
会場アナウンスが響く。
「それでは、只今より第61回、長野県吹奏楽コンクール県大会の結果発表を行います」
そこから、プログラム順に結果が発表されていった。プログラム1番、2番、3番、4番……
「プログラム6番、長野県豊川高等学校 ゴールド金賞」
名前が呼ばれるたび、歓声とため息が混ざり合う。強豪校の名前が読み上げられるたび、目の前の景色が少しだけ引き締まる。
「……やっぱり、みんな上手いな」
来島が小さく呟く。
声にならなくても、空気でわかる。
互いの緊張、そして期待が、静かに波打つ。
「プログラム9番、長野県都畿川高等学校 ゴールド金賞」
都畿川の安堵の声が小さく響く。
「...プログラム11番、信濃明峰高等学校 銀賞」
そして、
「プログラム12番、長野県東縁高等学校 ゴールド金賞」
少し肩の力が緩んだ。
「よし」
「とりあえずだね」
近くではそんな声が聞こえた。しかし、ここからだ。
「続きまして、来る8月25日に行われる、全日本吹奏楽コンクール、東海支部大会へ進む代表校3校を発表します」
またしても空気が張り詰めた。
「1校目。プログラム6番、長野県豊川高等学校」
ただ拍手が起きるだけだった。さすが強豪校。
「2校目。プログラム9番、長野県都畿川高等学校」
「キャーーーーーー!!!」
こちらは喜びで叫んでいた。都畿川も凄い。でもそれ以上に豊川のインパクトが強かった。
「先輩、あと一枠だけですよ」
「だ、大丈夫、多分」
来島や桜咲の会話が耳に飛んでくる。
心臓がバクバク鳴っていた。地区の時と全く違う程に。
「最後に...」
響は、無意識に手を合わせていた。
「3校目、プログラム12番、長野県東縁高等学校」




