37話 信頼のハーモニー
病院の屋上で、響が奏でた一音が、すべてを変えた。目を閉じた瞬崎は、忘れかけていた大切な記憶と向き合い、胸の奥に温かい光を取り戻した。
小さな音量のユーフォが、誰にも届かないはずの想いを確かに届ける――
そして今、あの日の響の演奏と瞬崎の再生の余韻は、部員一人ひとりの胸に静かに息づいている。
明日へ向かう鼓動は、もう止まらない。
響は病院を出て、瞬崎の車に乗り込んだ。車内にはCDの音が流れている。
「……この曲は、どこのですか?」
「去年の東縁高校吹奏楽部の地区大会の音源です」
耳を澄ませると、ところどころのミスが目立った。
「……結構雑だな……」
そう小さく呟く。
家の近くに着くと、瞬崎は助手席の響に向かって言った。
「月本君のおかげで、自分を取り戻せた気がします。ありがとうございます」
響は咄嗟に返した。
「い、いえ……」
その一言の後、響は静かに車を降りていった。
そして、家までの道を歩きながら、響の頭の中で 大反省会 が始まった。
――やってしまった!!!
――いくら同じユーフォでも、人のを吹いちゃった〜!!!
――しかも病院!?うるさくないように吹いたつもりだけど……病院側絶対怒ってる!!
――瞬崎先生も怒ってるかもしれない……。
――終わった……。
響の心臓は早鐘のように打つ。
だが、その小さな音量はすべて 響自身の制御下 にあった。病院に迷惑をかけないよう、息も音量も全て最小限にしていたのだ。
しかし不思議なことに、その微細な音は瞬崎の耳にはしっかり届いていた。普通ならほとんど聞こえないレベルの音を、瞬崎だけは確実に感じ取っていたのだ。
「……はぁ、でもこれ、怒られても仕方ないな……」
足早に歩きながら、頭の中で何度もリプレイされる、自分の演奏の音色。
「……ま、でも面白いことに、瞬崎先生には届いてるんだよな……ふふっ」
そしてようやく家の前にたどり着く。ドアを開ける前に深呼吸をひとつ、胸に残る高揚と反省を抱え込み、響はゆっくりと家に入った。
玄関のドアを静かに閉めた、その瞬間だった。
「―――響ぃぃ!!!!どこ行ってんじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
家中に、雷のような声が響き渡る。
「っ!?」
響の肩がびくっと跳ねた。一瞬、病院の屋上よりも緊張が走る。
「……え、あ、ただいま……」
返事をする間もなく、足音がどたどたと近づいてくる気配。完全に、めちゃくちゃキレている音だった。
慌ててポケットからスマホを取り出す。画面を点けた瞬間、響は固まった。
――未読メッセージ:23件
【母】
早く帰ってきなさい
どこにいるの
もう暗いんだけど
響?
無視してる?
今すぐ連絡しなさい
返事しなさい
響!!
響!!!
ひ・び・き!!
「……あ」
声にならない声が漏れた。
完全に気付いていなかった。
病院、屋上、ユーフォ、瞬崎先生――
あまりにも情報量が多すぎて、スマホの存在が頭から消えていた。
「……終わった……」
さっきまでの“大反省会”が、ここにきて現実の怒りとして具現化する。
そのとき、目の前に立ちはだかる影。
腕を組み、額に青筋を浮かべた母が、無言でこちらを見下ろしていた。
「……で?」
低く、静かな声。
このトーンはまずい。さっきまでの叫び声より、はるかにまずい。
響は背筋を伸ばし、ゆっくりと口を開く。
「……すみませんでした」
反射的に、深々と頭を下げた。
——これ、県大会前だよな。
そうして迎えた、県大会前日。明日に向けての、最後の追い込みとなる一日練習が始まった。
朝から音楽室には、いつも以上に重たい空気が漂っている。誰も口には出さないが、全員が分かっていた。今日が、本当に最後だ。
課題曲、自由曲。
通して、止めて、また通す。
細かい修正が入り、テンポが変わり、指示が飛ぶ。
「もう一回、最初から!」
瞬崎の声が響くたび、譜面を持つ手に力が入る。
何度も、何度も。
同じフレーズを繰り返し、同じミスを潰し、同じ音を磨く。
時間が経つにつれ、少しずつ音が重くなっていく。
集中力が削られ、唇が痛み、腕がだるくなる。
気づけば、誰かが椅子にもたれかかり、誰かが深く息を吐き、誰かが無言で水を飲んでいた。
全員、ヘトヘトだった。
それでも、誰一人として「休みたい」とは言わない。
言えない、というより――言う気がなかった。
明日がある。
この音で、勝負する。
響もまた、汗をかいた楽器を握りながら、静かに息を整えていた。
体は確かに疲れている。
だが、頭は不思議なほど冴えていた。
(……ここまで来たんだ)
音楽室に満ちる、疲労と覚悟。
それが、明日へとつながる最後の一日だった。
休憩時間。
各自が椅子に腰を下ろし、水筒に手を伸ばしている中、響はふいに名前を呼ばれた。
「月本くん」
振り向くと、董白が手招きをしている。
「ちょっといいかい?」
「……はい」
響はユーフォをケースに立てかけ、董白のもとへ歩いた。廊下に出ると、音楽室の喧騒が少し遠ざかる。
董白は壁にもたれ、腕を組んだまま、にやりと笑った。
「瞬崎くん、なんか今日変わったね」
「え?」
「雰囲気。指示の出し方。目つき。全部」
響は一瞬、言葉に詰まる。
「もしかしてさぁ……」
董白はわざとらしく首をかしげる。
「君、なんかした?」
「あ〜……えっと……その……」
視線が泳ぐ。
数秒の沈黙。
「……図星、か」
董白は小さく息を吐いて、苦笑した。
「まぁ、だと思った」
響は慌てて弁解しようとする。
「でも、その……悪いことじゃなくて……」
「分かってるよ」
董白は遮るように言った。
「僕、瞬崎くんのことは少しだけ知ってるから」
その一言で、響の胸がぎゅっと締まる。
「だからこそさ」
董白は視線を音楽室の扉に向けた。
「瞬崎くんには、君がいて良かったって思う」
「……」
「誰かが“音”で背中を叩いてあげないと、前に進めない人もいる」
董白はそう言って、もう一度こちらを見る。
「それができるの、たぶん君だけだよ」
軽い口調なのに、言葉はやけに重かった。
「……買いかぶりです」
響は小さくそう返した。
「謙遜だねぇ」
董白はくすっと笑う。
「でもさ、県大会前日だし。これ以上は深掘りしない」
「……助かります」
「その代わり」
董白は指を一本立てた。
「明日、ちゃんと勝とう。瞬崎くんのためにも、みんなのためにも」
響は、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
休憩時間の終わりを告げる声が、音楽室から聞こえてくる。そして二人は何事もなかったように、それぞれの場所へ戻っていった。
昼下がり。
休憩時間の職員室は、静まり返っていた。
瞬崎は自分の机の引き出しを開け、眉をひそめていた。
「……ないな」
どうやら練習で使ったメモを、ここに置き忘れていたらしい。机の上をもう一度探していると、
「先生、少しいいですか?」
声に顔を上げる。
そこに立っていたのは、桜咲と坪井紫乃しのだった。
「今、少しだけいいですか」
二人とも、休憩時間とは思えないほど真剣な表情をしている。
瞬崎は周囲を一度見回し、小さくうなずいた。
「……どうしましたか?」
桜咲が一歩前に出る。
休憩が終わると、音楽室の空気が一変した。
「……では、再開します」
瞬崎の声には、もう曖昧さがなかった。
譜面をめくる音すら、どこか緊張を孕んで聞こえる。
「課題曲から通します。止めません」
一瞬、部員たちの間にざわめきが走る。
止めない――
それは誤魔化しが一切効かない、という意味だ。
指揮棒が上がる。
音が出た瞬間、瞬崎の目が鋭く動いた。演奏をしながら瞬崎の口も動く。
「クラリネット、三小節目。音程が高い。息を逃がさないで吹いてください」
即座の指摘。
「トランペット、アクセントが前に出すぎです。叩く音じゃない、歌いましょう」
言葉は短く、的確だった。
音楽は止まらない。だが、瞬崎の視線と声だけが、次々と問題点を射抜いていく。
「ホルン、和音の中に潜りすぎです。怖がらなくていい、ここはあなた達の音が芯です」
「ユーフォ、低音を“支える”意識ではなく、“引っ張る”。全体を連れていく音で」
その言葉に、響の背筋がわずかに伸びる。
――迷いがない。
さっきまでの「探りながら振っている」指揮ではない。
もう、答えを知っている人の振り方だった。
一度演奏が終わると今度は董白の声が響く。
「低音セクション」
董白はコントラバスの前に立ち、床を軽く踏みしめた。
「今の音、悪くない。でも“揃ってるだけ”だ」
部員たちが息を呑む。
「音程を合わせる前に、方向を合わせよう。全員、同じ場所を見て吹いてるか?」
一人ひとりの顔を見回す。
「ベースは土台であり、流れだ。流れが止まると、上も全部詰まる」
そう言って、手で大きく円を描く。
「次、低音だけで。息、止めるなよ」
短い音出し。
すると、音の質が一段階変わった。
「今のだ」
董白は満足そうに笑う。
「それを全体でやろう」
瞬崎がすぐに指揮を引き継ぐ。
「今の低音を基準に、全員合わせます」
再び、音が走る。
さっきより、明らかに前に進む音だった。
誰も文句を言わない。
きついとも言わない。
――この練習が、必要だと分かっているから。
瞬崎は指揮を振りながら、迷いなく言葉を投げる。
「妥協しません。明日、これで勝負するので」
その一言で、全員の背中が自然と伸びた。
県大会前日。
休憩後の練習は、もはや“確認”ではなく――
覚悟を固める時間になっていた。
そうして、長い一日の練習が終わった。張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
「それでは、挨拶を――」
久瀬が立ち上がろうとした、その瞬間だった。
「ちょっと、待ってください」
瞬崎の声に、全員の視線が集まる。
「挨拶の前に……ひとつ、あるんですよね」
意味ありげなその言葉。
次の瞬間、音楽室のドアが、ゆっくりと開いた。
ざわり、と空気が揺れる。
入ってきたのは――
オーディションの、落選組だった。
それぞれが楽器を抱え、静かに前へ進む。
人数は、二十人ほど。
自然と、音楽室の前方に一列に並んだ。
一瞬の沈黙。
そして、桜咲が一歩前に出る。
「明日」
凛とした声。
「皆さんの県大会が、素晴らしい結果となるように」
一人ひとりの顔を見渡し、はっきりと言う。
「私たちから、応援曲をプレゼントします」
ざわめきが広がる。
「聴いてください」
ほんの一拍。
「――夢〜東縁高校吹奏楽部のための〜」
その瞬間、最初の音が鳴った。
決して、完璧な音ではない。
ところどころ、揺れる音程。
噛み合わないリズム。
それでも。
一音、一音に、はっきりと想いが乗っていた。
悔しさ。
未練。
それでも前を向こうとする気持ち。
そして――
舞台に立つ仲間たちへの、信頼と期待。
演奏する一人ひとりの表情は、不思議なほど、晴れていた。
響は、無意識のうちに楽器を強く握っていた。
胸の奥が、じんと熱くなる。
(……これが、東縁か)
ミスはある。
でも、その音は、確かに届いていた。
音楽室に満ちるのは、
勝ちたい気持ちだけじゃない。
一緒に進んできた時間そのものだった。
(去年のCDと全然違う)
演奏が終わるまで、誰一人、言葉を発することはなかった。
やがて演奏が終わり、一拍の沈黙のあと、音楽室いっぱいに、拍手が広がった。
自然と、誰かの手が動き、それに続くように、全員の拍手が重なっていく。
瞬崎は、しばらく言葉を失ったまま、前に並ぶ生徒たちを見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……この曲は」
一度、息を整えてから。
「皆さんが、作ったんですか?」
少しだけ間が空き、前に立っていた桜咲が、後ろを振り返る。
「三年の坪井先輩が、作曲が得意でして」
そう言って、隣に視線を向けた。
「作ったのは、ほぼ先輩ですけど。でも、みんなで――この曲をプレゼントしようって、決めました」
その言葉に、トランペットを抱えた坪井紫乃は、照れ隠しをするように視線を下へ落とした。
「……別に、大したことじゃないです」
小さく、ぶっきらぼうに。
瞬崎は、目を見開いた。
「それは……すごいですね」
心からの言葉だった。
近くでは、
「ありがとぉぉぉぉ!!」
久瀬が、突然の大号泣。
両手で顔を覆いながら、声を上げる。
「ほんとに……ありがとぉ……!」
「ちょ、久瀬」
狩川が肩を叩く。
「落ち着いて。まだ大会は終わってないよ」
「だってぇ……!」
泣き笑いの声に、音楽室の空気が、ふっと緩んだ。
瞬崎は、そんな光景を見渡しながら、静かにうなずく。
この曲は、ただの応援じゃない。これまで積み重ねてきた時間そのものだ。
舞台に立つ者も、立てなかった者も、全員の想いが、ひとつに重なっている。その音を、確かに受け取った。
こうして、
東縁高校吹奏楽部は――
すべての想いを背負って、県大会へ向かう。
「では皆さん、行きましょう。県大会の時間です」
※オリジナル応援曲「夢〜東縁高校吹奏楽部のための〜」はYouTube、「World of Tukimoto」にてフルで投稿されています。是非お聞きください!!
今日まで積み重ねてきた時間、努力、想い――そのすべてが、明日のステージに向けて結晶する。
演奏する者も、支える者も、すべての心が一つになった瞬間。
東縁高校吹奏楽部の物語は、まだここから。
明日、彼らの音はどこまで届くだろうか――。
感想、評価是非お願いします。
次回もお楽しみに!!
番外編誕生日スペシャルも是非!




