36話 信じて
人は、音を失うことよりも、音を信じられなくなることの方が、ずっと苦しいのかもしれない。
同じ場所に立ちながら、
まったく違う方向を見ていた二人が、
夕暮れの中で、ひとつの答えに近づいていく。
これは、奇跡の話ではない。けれど——確かに、音が人を前へ進ませた話。
瞬崎の言葉に、響の手が止まった。
——娘?
先生の……?
思わず顔を上げる。
「……娘って、どういうことですか?」
瞬崎は少しだけ笑みをこぼし、静かに言った。
「そのままの意味ですが」
響の頭の中は、疑問符で埋め尽くされていた。それでも一度、言葉を飲み込み、それから口を開いた。
「……どうして、病院にいるんですか?」
その問いに、瞬崎はすぐには答えなかった。窓の外に目を向け、夕暮れに染まる空をしばらく見つめる。
——それから、ゆっくりと息を吐いた。
夕暮れの家。
窓から差し込む光が、部屋の中に柔らかく広がる。テーブルの上には、まだ見慣れない金色の楽器が置かれていた。
小さな手がそっと触れる。
指先に伝わる冷たさに、思わず肩がすくむ。
「……これ、私の……?」
後ろから柔らかな声がした。
「そうだよ。小学校入学のお祝いだ。無理に吹かなくてもいい。まずは触れてみたかっただけだろ?」
声は優しく、肩の力をふっと抜かせるような響きだった。
手を添えて支えてくれる感覚に、少しだけ安心する。口にマウスピースをあてて、深く息を吸う。力を入れすぎて、腕が小さく震えた。
「……い、いくよ」
――ぷすっ。
かすかな雑音が、部屋の静寂をかすかに揺らす。思ったような音は出ず、ぎこちなく息が止まる。
「……で、出ない……」
小さな声に、背後から静かに声が近づく。
「うん、最初はそうなるよ。焦らなくていい。音は、逃げたりしないから」
声に少し励まされる。しかし、それでも胸の奥はもどかしく、指先に力が入る。
「……でも……ちゃんと、鳴らしたい……」
そっと膝をつき、温かい手で肩を軽く押さえた。
「そうだね。鳴らしたいって思えるなら、それだけで十分だよ。ゆっくりでいい。音は、ちゃんと応えてくれる」
その言葉に、息を整えながらもう一度息を吹き込む。またぷすっと音が出て、少しだけ揺れる。それでも、その小さな振動が胸の奥まで伝わり、思わず顔がほころぶ。
「……鳴った……?」
「うん、鳴ったね。ちゃんと鳴った」
微笑みながら手を握る。安心と、まだ言葉にはできない高揚感が入り混じる。唇の軽い痛みも、指先の震えも、なぜか嬉しい。
「……うまくなるかな……」
「うまくなるさ。大丈夫。焦らず、一歩ずつだ」
柔らかな声に包まれ、手に力を込めて楽器を握る。
部屋に差し込む夕日と、笑顔の温かさが、胸の奥に静かに染み込む。
――この日の“最初の音”は、まだ小さくてぎこちないけれど、
やがてすべてを変えていく、運命の始まりだった。
小学校に上がったばかりの音色は、吹奏楽バンドに入部し、ユーフォを担当することになった。
体に対して少し大きすぎる楽器を前に、何度も姿勢を崩しながら、それでも離そうとはしなかった。
音は、最初はほとんど出なかった。息が続かず、指も思うように動かない。それでも音色は諦めずに毎日吹き続ける。
「……今日も、ちょっとだけ吹いていい?」
そう言って、遠慮がちに父を見上げる。
「無理しなくていい。疲れたらやめなさい」
そう返されても、音色は小さく頷くだけで、結局またマウスピースに口を当てる。
ぷす、と小さな音。
それだけで、音色は嬉しそうに笑った。
「……鳴った」
その一言を聞くたびに、瞬崎は何も言えず、ただ隣に立っていた。
毎日、少しずつ。
誰に言われたわけでもない。約束をしたわけでもない。ただ、音が鳴ることが楽しくて、音色は吹き続けた。
やがて、バンドの中でも音色の存在は自然と大きくなっていった。指示を待たずに動き、周囲の音をよく聴き、合わせようとする。
その姿勢が、年上の団員たちの目にも留まるようになる。
「音色ちゃんがいれば、大丈夫だよね」
そんな言葉を向けられるたび、音色は少し照れながらも、誇らしげにユーフォを抱えた。
家に帰ると、ケースを開け、楽譜を広げる。
「父さん、ここ、ちょっと変じゃない?」
譜面を指差しながら、真剣な顔で尋ねる。
「よく気づいたね」
そう答える瞬崎の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
気がつけば、音色は“教えられる側”から、“支える側”になっていた。
それを止める理由は、どこにもなかった。
コンクールでも、その存在は次第に目立つようになっていく。
合奏の最中、指揮が止まる。
「今の、ユーフォ……もう一回」
そう言われるたび、音色は少しだけ背筋を伸ばし、楽器を構え直す。
もう一度鳴らされる音は、さっきよりも少しだけ整っていて、少しだけ強かった。
結果は、いつも悪くなかった。
金賞。
代表。
そんな言葉が、特別なものではなくなっていく。
バンドの中で、音色は自然と中心になっていた。前に出るわけでも、指示を出すわけでもない。ただ、音で応え続ける。その姿勢が、周囲の信頼を集めていった。
「音色がいるなら、安心だよね」
誰かがそう言うと、別の誰かが頷く。
「うん、あの音、好き」
音色はその言葉を聞くたび、少しだけ困ったように笑いながら、それでもユーフォを抱え直した。
放課後、最後まで残っていたのは、決まって音色だった。
片付けの時間になっても、譜面を閉じる手が止まる。
「もう帰らないと」
そう声を掛けられても、「あと一回だけ」と、指を立てる。
音色にとって音を出すことが、誰かに認められることよりも、ずっと大切だったんだろう。
そうして東海大会でも、音色たちの吹奏楽バンドは見事に金賞代表に選ばれ、全国大会への切符を勝ち取った。
喜びに湧く団員たちの中で、音色は小さな拳をぎゅっと握りしめる。
「ねえ、パパ……」
瞬崎カルマの顔を見上げ、緑の瞳を輝かせながら言った。
「パパが先生になってくれたら、いつか……一緒に全国で演奏したい!」
瞬崎は少し驚きながらも、そっと微笑む。その笑みは、言葉にせずとも音色の小さな願いを受け止めていた。
いつか、音色と一緒に同じステージに立とう。
しかし、その願いは叶わなかった。
全国大会直前、瞬崎家族は交通事故に巻き込まれる。妻は救急搬送されるも、息絶え——その場で死を宣告された。音色は意識不明の重体。病院の廊下で、医師が淡々と告げる。
「……意識は戻るか分かりません。小児科と集中治療室で最善を尽くします……ただ、今の状態は非常に危険です。ご家族として、覚悟はしておいてください」
瞬崎は手を握ることもできず、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。目の前の機械がピーピーと鳴るだけの病室。モニターの数字が跳ね上がったり下がったりするたび、心臓が締め付けられるように痛む。
「……どうして……どうして俺のせいで……」
瞬崎は床に座り込み、声にならない嗚咽を漏らした。
「俺が……音楽を……押し付けたせいで……」
医師は沈痛な顔で瞬崎を見た。
「……瞬崎さん、落ち着いてください。子どもさんは——」
もはや瞬崎には医師が何を言ってるのかすら聞こえていなかった。病院の白い壁、冷たい空気、機械の無慈悲な音が、瞬崎の絶望をさらに重くする。
音楽には、もう関わらない。
あの病室で、確かにそう誓った。
二度と。
自分が触れれば、また何かを壊す。音色も、妻も、あのバンドも——すべて、自分が始めた音楽の延長線上で失われた。
だから、もう二度と。
……そのはずだった。
それでも、頭の奥から離れなかった言葉がある。
『パパが先生になってくれたら、いつか……一緒に全国で演奏したい!』
まだ小さく、少し音程の甘い声。楽しそうにユーフォを抱え、未来を疑いもしなかった、あの約束。
瞬崎は、その約束を——裏切れなかった。
音楽を捨てると誓いながら、音色の願いだけは、どうしても踏み潰せなかった。
だから彼は、教師になった。
「指導」だから。
「仕事」だから。
「生徒のため」だから。
そう言い聞かせながら、音楽に触れ続けた。
だが、それはすべて——言い訳だった。
本当は、音楽を完全に手放す勇気がなかった。
音色との繋がりを、断ち切れなかった。
誓いを破り、
約束だけを守り、
どちらにも正面から向き合えないまま。
瞬崎カルマは、今日まで音楽を続けている。
自分に嘘をつきながら。
生徒にも、過去にも、何より——自分自身にも。
「……俺は、最低な人間だ」
誰にも聞こえない声で、何度もそう呟いた。
音楽を憎みながら、音楽に縋り、娘を守れなかったくせに、娘の夢だけを抱え続ける。救われる資格なんて、あるはずがない。
それでも彼は今日も教師として立ち、
音楽室に入り、
指揮台の前に立つ。
——音色が目を覚ますその日まで。
——あるいは、永遠に来ないその日まで。
自分を赦さないまま。
救いなんて、どこにもなかった——。
瞬崎の話が途切れる。響は静かに聞いていた。
「……結局、私は六年も無駄な人生を送ってきた。私に音楽をやる資格なんて、ない」
その言葉の重さに、呼吸が止まるような感覚が胸を貫く。瞬崎の視線は遠く、窓の外の夕暮れに向けられていた。
「……このことは、もう忘れてください。親御さんが心配します。もう帰ってもらって結構です」
言葉は淡々としているけれど、響にはその中に込められた痛みが、はっきりと伝わった。
それでも、響は帰らなかった。視線はベッドの横に置かれたユーフォケースと、その隣に広げられた楽譜に向かう。
小さく、吐息のように呟いた。
「……今なら、まだ大丈夫かな」
その言葉には、不安と確信が入り混じっていた。
すると響の手は自然とユーフォケースに伸びた。しばらく目の前で躊躇していたが、やがて決意が固まる。
「……このユーフォ、音色さんのですよね?」
瞬崎は首をかしげる。
「そうですが……何か?」
「吹いていいですか?」
その問いに、瞬崎の口はわずかに開いたまま止まる。断ろうとした。いや、断らねば——しかし、頭の中に音色のあの日の笑顔と声が蘇る。
——私ね、大きくなって、子供ができたら、パパみたいにこのユーフォを渡すんだ!
——このユーフォはみんなのものなんだよ。
瞬崎は言葉を飲み込み、静かに頷いた。
「……いいですよ。一回だけですからね」
瞬崎は断らなかった。
断れなかった。
響は頷き、ユーフォをしっかり抱え、広げた楽譜を胸に抱え込む。そして病室を後にした。
廊下に差し込む夕暮れの光を浴びながら、一歩一歩、屋上へ向かう響の背中。瞬崎はその背中を、静かに追った。
屋上に上がった響と瞬崎。
病院の屋上からは、長野の街が夕暮れに染まり、オレンジ色と紫が混ざり合った絶景が広がっていた。遠くには山々が連なり、街の灯りが小さく瞬く。風が穏やかに吹き抜けるその場所で、響は足を止めた。
ゆっくりと、ユーフォケースを開く。何年もそのまま放置されていたのだろう。金色の楽器は指紋で曇り、ピストンや管は固まり、全く動かなかった。
響はため息をつき、慎重にオイルとグリスを差し込みながら、一つずつ部品を滑らかに動かしていく。金属が軽く軋む音が、屋上の静寂にわずかに響いた。
瞬崎は静かに、それを見守っていた。言葉は要らない。二人の間に流れる空気は、ただ音楽への準備と緊張で満ちていた。
やがて、準備が整う。
響はケースから楽譜を取り出す。
《バッハ プレリュード第一番》
指先を軽く触れ、楽器を構える。深く息を吸い込み、静かに吹き始めた——。
瞬崎の目に、信じられない光景が映る。吹いているはずのそのユーフォから流れる音は、まるで音色そのものの音だった。
「……?」
瞬崎は言葉を失った。幻でも見ているのかと思うほど、音の質感、空気の振動、温かさ——すべてが音色の演奏そのままだった。
音は小さかった。しかし、屋上の風に乗って、確かに瞬崎の耳に届いている。音の一つひとつが、優しく、精密に響いていた。
響の指先、息遣い、楽譜に沿った動き——それはただの演奏ではない。まるで、音色がそこに立ち、吹いているかのようだった。
時間が止まったかのような屋上で、響は静かに、しかし確かに、音色のユーフォを再現し続ける。
瞬崎はただ、息を呑み、言葉を失ったまま見守るしかなかった。
響の演奏は続く。小さな音の一つひとつが、音色の笑顔や努力、約束を映し出すかのように、夕暮れの長野の街を優しく包んでいった。
そうして、演奏は終わった。
最後の音が夕空に溶けると、響はゆっくりと息を吐き、静かに楽器を降ろした。金属がわずかに触れ合う音だけが、屋上に残る。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
響は柵のそばに立ち、広がる長野の街を見下ろす。夕暮れの光が街を包み、遠くで車の灯りが流れていた。その景色を前に、響は静かに口を開いた。
「……先生は、音色さんの願いを叶えてあげなくていいんですか」
瞬崎は反応できなかった。否定も肯定も、何一つ浮かばない。
響は振り返らず、そのまま続ける。
「先生は、裏切ってなんかいないと思います」
一拍、間を置く。
「ただ、自分を締め付けていただけです。でも……それじゃ、音色さんは喜ばない」
その言葉は責める調子ではなく、淡々としていた。だからこそ、瞬崎の胸に深く突き刺さる。
何を言えばいいのかわからなかった。
瞬崎は唇を噛み、視線を落とす。言葉にすれば、すべてが崩れてしまいそうだった。
響はさらに続ける。
「音色さんを信じてください。そして、自分のことも」
風が一瞬、強く吹き抜ける。
「前に進んでいくんです。音色さんが目を覚ましたとき、ちゃんと笑って迎えてあげられるように」
その声は、静かで、けれど揺るぎなかった。
「……親子って、そういうものだと思いますよ」
その瞬間だった。
瞬崎の視界の端に、ありえない光景が映った。
夕暮れの中、ユーフォを抱えた小さな影。緑の瞳で、まっすぐこちらを見つめる少女。
——音色。
「私は、パパを信じてる」
幻だとわかっていた。それでも、声は確かに聞こえた。
「だから……パパも、私を信じて」
瞬崎の喉が詰まる。
気づいたときには、視界が滲み、頬を温かいものが伝っていた。拭おうとしても、止まらない。
六年間、流せなかった涙だった。
音楽を憎み、音楽に縋り、自分を罰し続けた時間が、ゆっくりとほどけていく。
瞬崎はその場に立ち尽くし、ただ涙を流した。
救いは、奇跡のように突然訪れたわけじゃない。目の前にいた一人の生徒と、確かに存在した娘の想いが、静かに背中を押しただけだった。
夕暮れの屋上で、風がもう一度、優しく吹いた。
——ようやく、瞬崎カルマは前を向き始めていた。
響は視線を変えずに呟く。
「一緒に行きましょう。全国に」
小さな音は、静かに風に乗り、街を包む。奇跡ではない。だが確かに、誰かの想いを形にする力がそこにあった。
そして、再び動き出す時間の中で、未来は少しずつ、紡がれていく——。
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次回もお楽しみに!!
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