35話 知らない方がいい事
オーディションにより、県大会へと進む五十五人が決まった。
選ばれた者と、選ばれなかった者。同じ場所に立っていても、その先に続く道は、確かに分かれていく。
これは、結果の話であり、始まりの話であり、
そして——
音が、人を動かしてしまった、その後の話。
結果発表が終わり、音楽室には、静かなざわめきだけが残っていた。
呼ばれた者と、呼ばれなかった者。
返事をした声と、最後まで上がらなかった声。
そのすべてが一度、空気に溶けてから、ゆっくりと沈んでいく。
やがて、選ばれなかった部員たちが、ひとり、またひとりと音楽室を後にしていった。
誰かは下を向いたまま。
誰かは、いつもと変わらない足取りを装って。
扉が閉まる音が、最後に一度だけ響く。
残ったのは、県大会メンバー五十五人。
音楽室は、少しだけ広く感じられた。
顔ぶれは、極端に変わったようには見えない。
地区大会と同じ顔も多く、並び方も、楽器の配置も、ほとんどそのままだ。
それでも——
同じ場所には、もう戻れない。
響は、椅子に座ったまま、静かに前を向いていた。
両隣には、若田と桜咲。
ユーフォは、三人全員が選ばれた。その事実が、まだ実感として落ちてこない。
若田は背筋を伸ばし、譜面を整えている。
桜咲は一度だけ深く息を吐き、膝の上で手を組んだ。
誰も、目を合わせない。
言葉も交わさない。
それぞれが、同じ「合格」という場所に立ちながら、考えていることは、きっと同じではない。
瞬崎が、教壇の前に立つ。
「……では」
それだけだった。
説明も、総評もない。
さっきまでの“発表の時間”は、もう終わっている。
「練習の時間です」
淡々とした声が、音楽室に落ちる。
「準備してください」
椅子を引く音。
ケースが開く音。
金属と木が触れ合う、いつもと同じはずの音。
けれど、その一つひとつが、やけに重く響いた。
——選ばれた。
それは、終わりじゃない。
むしろ、ここからが始まりだ。
響はユーフォを構え、静かに息を吸う。
両隣で、若田と桜咲も、同じように構えている。
三人分の音が、ここにある。
そして、瞬崎の指揮棒が、ゆっくりと上がった。
「——では課題曲から」
その合図とともに、
新しい五十五人の音が、音楽室に鳴り始めた。
県大会メンバーが音楽室で音を鳴らす中、校舎のもう一つの教室には、落選した二十人ほどの部員たちが集まっていた。
ケースを置き、椅子に腰を下ろす。
顔には、疲労と少しのやり場のない感情が混ざっている。
陽翔はバスクラリネットを膝に抱え、窓の外をぼんやり見ていた。
来島は椅子にもたれかかり、手元の譜面をめくるでもなく、ただ指先を動かしている。
「……俺たち、どうすりゃいいんだよ」
小さな声が、陽翔から漏れた。部屋にいた誰も、すぐに返事はしなかった。
「いや、落ち込んでも仕方ないだろ」
来島が穏やかに言う。
けれど、その声にも力はなかった。
ただ、空気を埋めるための声のようにも聞こえる。
「って言ったけど、やっぱ悔しいよな。名前呼ばれなかった瞬間、マジで心臓止まるかと思った」
陽翔が小さく吐き捨てる。黙っていた数人が、小さく頷く。全員が、それぞれの悔しさを抱えながら座っている。
「まあ……これで終わりじゃないし」
来島が、少し強引に笑顔を作るように言った。
「練習はまだある。次にどう動くかで変わるんだから」
でも、誰も本当に元気が出るわけじゃない。
悔しさ、焦り、自己否定——それぞれの色が部屋に沈んでいた。
「……次、どうする?県大会の間、俺らは何してればいいんだよ?」
陽翔が声を出す。
誰も答えられない。
ただ、窓の外を通る風だけが、教室の中をかすかに揺れた。
教室の奥、教卓の前に、一人の三年生が立った。姿勢は真っ直ぐで、落ち着いた雰囲気を漂わせている。だが、その眼差しには、決して諦めや怒りではなく、何かを考え抜いた強さが宿っていた。
陽翔のとなりの二年が呟く。
「あの人はたしか、トランペットの坪井紫乃先輩?」
来島は椅子に浅く腰掛けながら、思わずつぶやく。
「……瞬崎って、三年でも平気で落とすんだな」
陽翔も、複雑な顔をしながら頷いた。
「マジか……俺、やっぱり今回、完全に甘く見てたかも」
教室内に、しばらく沈黙が流れる。落選の悔しさと、改めて実感した瞬崎の厳しさが、静かに重くのしかかる。
やがて、教卓の前の三年生が口を開く。
「……みんな、さっきの結果で落ち込んでるだろうけど」
声は穏やかで、けれど教室全体に届く力を持っていた。
「今、悔しさでいっぱいなのは分かる。でも、ここで何もしないでいるわけにはいかない」
近くの二年が眉をひそめ、少し前のめりになる。
「でも……俺たち、選ばれてないんだぞ? 何ができるってんだよ」
三年生は、静かに、しかし確信に満ちた声で答える。
「だからこそ、考えよう。私たちにできることを」
教室の空気が少しだけ、変わる。沈んでいた気持ちに、わずかな光が差し込むような感覚。
陽翔も手元の楽器に目を落としながら、小さく息を吐く。
「……できることか」
坪井は軽く頷き、教卓に手を置いた。
「私たちが舞台に立つわけじゃない。今はまだ小さな一歩かもしれない。でも、何もせずにただ見守るだけなのも違うと思うの。私たちにできること——それを一緒に考えよう」
教室に、少しずつ小さな意志の波が広がっていく。沈黙の中に少しずつ前向きな光が戻ってきた。
夕暮れの校門を抜けると、冬に近づき始めた空気が、頬に冷たく触れた。
校舎の明かりはまだいくつも残っている。来島や陽翔たちは、きっと今も別の教室で音を出しているのだろう。
永井は顧問の車で先に帰り、奏多は塾があると言って足早に校舎を出ていった。
結果として、残ったのは――
響と、柊木の二人だけだった。
並んで歩いてはいるが、会話はない。靴音だけが、アスファルトに一定のリズムで刻まれていく。
明後日。
県大会。
その言葉を口にしなくても、二人とも同じ方向を見ているのは分かっていた。
「……静かだな」
不意に、柊木がそう言った。
響は一瞬だけ横を見る。
「そうだね」
それだけ返すと、また前を向く。無理に話題を探す必要はなかった。すると少し歩いたところで、柊木が、ほんのわずかに視線を落とした。
「僕ね」
独り言のような声だった。
「中学のとき、結構グダグダでさ」
響は歩調を緩めることなく、耳だけを向ける。
「部もまとまらなかったし、大会も……正直、思うような結果なんて一度も残せなかった」
柊木は笑うでもなく、淡々と続けた。
「吹いてて楽しいとは思ってたけど、どこかで『まあ、こんなもんか』って、自分に言い訳してた気がする」
街灯の下を通り過ぎる。一瞬、柊木の横顔が照らされて、また影に沈んだ。
「だからさ。今年こそは、って思ったんだ」
一拍、間を置いて。
「……いや、今年だけじゃない。来年も」
足を止めず、前を見たまま、柊木は言った。
「絶対に全国に行って、金を取る」
その言葉には、力があった。
声を張らなくても、揺れない確信がある。
「そう誓ったんだよ」
響は、少しだけ首を傾ける。
「……誰に?」
柊木は、答えなかった。
一瞬だけ、歩幅が止まりかけて――けれど、何事もなかったように、また歩き出す。その背中は、いつもと同じようでいて、どこか遠い。
響はそれ以上、何も言わなかった。
問いは、空気の中に残されたまま。
答えを無理に引き出す必要はないと、なぜか思えた。
二人分の足音が、また並ぶ。
空はすでに、夜の色に近づいていた。
家に着いたとき、周囲はもうすっかり静まり返っていた。
街灯の光が、玄関前のコンクリートを淡く照らしている。鍵を回す音だけが、やけに大きく聞こえた。
ドアノブに手をかけ、扉を開けた瞬間――
「何回も言ってるでしょ?!あいつのことなんか、どうでもいいの!!」
鋭い怒鳴り声が、玄関に突き刺さる。
響は、思わず足を止めた。
姉――愛美の声だ。
「落ち着いて。なんでそうなるの?もっと、ゆっくり話して」
続いて聞こえたのは、母の声。抑えようとしている分だけ、疲れがにじんでいる。
「ゆっくり話せるわけ無いじゃない!!」
愛美の声が、さらに跳ね上がる。
何の話だ――?
響の頭が、一瞬で追いつかなくなる。自分に関係あるのか、ないのかすら分からない。
玄関に立ち尽くしていると、廊下の奥から足音が近づいた。
父が、顔を出す。
視線が合った、その一瞬。父は、ほんのわずかに表情を曇らせた。
そして、静かに言った。
「……響、すまない」
響は、何も言えなかった。
「しばらく、家に入らないでほしい」
言葉の意味が、すぐには理解できない。
「……え?」
間の抜けた声が、自分のものだと気づくまでに、少し時間がかかった。
父は、それ以上何も言わなかった。
説明も、理由も、視線すらも。
ただ、その場に立っている。
背後から、また愛美の声が聞こえる。
母の低い声が、それに重なる。
響は、何かを言おうとして――やめた。
代わりに、ゆっくりと一歩下がり、玄関の扉を、静かに閉めた。ガチャリ、という音が、やけに乾いて響いた。
再び、外の静寂が戻ってくる。
さっきまでの怒鳴り声も、言葉も、全部、扉の向こう側だ。
冷たい空気が、肺に流れ込む。
響は、しばらくその場に立ったまま、動けなかった。
理由は分からない。
何が起きているのかも分からない。
ただ――
ただ事では無いのは、はっきりしていた。
結局、響はそのまま、家の前で一時間ほど待たされた。
玄関の前。
コンクリートの冷たさが、靴底越しに伝わってくる。
物音は、ほとんどしない。
中から声が聞こえることも、もうなかった。
なるべく、耳を澄まさないようにした。聞こうとしなければ、聞こえないふりができる。
そう、自分に言い聞かせながら。
やがて――
静かに、扉が開いた。
(やっと入れる)
そう思って、響は視線を上げた。
玄関に立っていたのは、父でも、母でもなかった。
愛美だった。
目が合う。
その瞬間、愛美は眉をひそめ、吐き捨てるように言った。
「……目障りなのよ」
それだけ。
愛美は、響の横を通り過ぎると家を後にした。振り返りもしない。
残されたのは、開いたままの扉と、冷えた空気。
響は、その場から動けなかった。
――目障り。
その言葉が、胸の奥で反響する。
同時に、別の声がよみがえる。
『目障りなんだよ』
東堂の声。
あの時、確かに向けられた言葉。
それが、今の現実と重なっていく。
さらに、耳の奥で、聞き慣れない声が、かすかに響いた。
《上手いね、君》
《なんでできるの?》
《お前のせいで》
《ひどいよ》
《あなたはそうまでして上手くなりたかったの?》
《それ以上うまくなってどうするの》
《みんなから見捨てられるだけさ》
《そんなの、人じゃない》
《響には、関わるな》
《お前さえいなければ》
《ああなって当然だろ、あいつみたいなのは》
《二度と目覚めることは、ない》
意味は分からない。
言葉も、輪郭も、曖昧だ。
それでも、確かに“聞こえた”。響は、ゆっくりと視線を落とす。
何も見ないように。
何も考えないように。
次の瞬間、彼は姉とは逆の方向へ、走り出していた。
音も、息も、全部、置き去りにして。
家の中では、誰も気づかなかった。
響が、そこにいないことに。
家を飛び出し、無我夢中で走り続けた。今の雰囲気で、家に戻れるわけがない。
どれくらい走ったのか分からない。やがて足を止めると、視界には見知らぬ光景が広がっていた。
息を整えながら歩いていると、目の前に大きな病院がそびえ立っている。
《都幾川第一病院》
そう書かれた看板が、病院の最上階付近で白く光り輝いていた。
——どこだ、ここ。
辺りを見渡していると、一台の車が病院の敷地へ入っていく。ドライバーは、響の存在に気づいていない。
だが、響はすぐに気づいた。
「……瞬崎先生?」
導かれるように、その車のあとを追い、響は病院の中へと足を踏み入れていった。
夜の病院は、異様なほど静かだった。
足音がやけに大きく響く。
階段を何段か上がったところで、瞬崎の姿を見失った。
どこだ……?
廊下を歩きながら、周囲を探す。
そのとき、通りかかった扉が、急に開いた。
心臓が跳ねる。
思わず身を固くする響の前に現れたのは、瞬崎だった。いつもの穏やかな笑顔を浮かべている。
「どうしましたか? こんな夜遅くまで」
柔らかな声。
「早く帰らないと、親御さんが心配しますよ」
怒られる——
そう思った響は、慌てて言葉を探す。
「あ、いや、その……えっと……」
視線が、瞬崎の背後へと逸れた。
扉の横に掛けられた名札。
そこに書かれていた文字に、息が止まる。
——瞬崎。
なぜ、先生の名字が、ここに?
それに気づいた瞬崎は、一瞬だけ表情を失った。
笑顔が消え、視線を伏せる。
小さく、ため息。
そして、静かに扉を開いた。
「……お入りください」
中は、病室だった。
机の上には、病院食のトレー。その周りを囲むように、ボロボロのおもちゃや折り紙が散らばっている。
奥の壁際には、楽器ケース。
——ユーフォニアム。
そして、ベッドの上で静かに寝ている、ように見えた。その顔を見た瞬間、胸がざわついた。
……顔が似ている。自分と。
瞬崎が、静かに口を開いた。
「瞬崎音色。私の娘です」
音は、記録には残らない。譜面にも、賞状にも、思い出話の中にも、すべては完全には残らない。
それでも確かに、あの瞬間に鳴っていた。誰かの息遣いと、迷いと、覚悟と一緒に。
勝ったとか、負けたとか、正しかったとか。そんな言葉は、あとからいくらでも貼り付けられる。けれど、音が鳴った一瞬だけは、誰のものでもなく、ただそこに在った。
もしこの物語が、何かを残したのだとしたら。それは結果ではなく、「音を鳴らそうとした人間が確かにいた」という事実だけだ。
それで、十分だと思う。
感想、評価是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




