34話 選抜
東縁高校吹奏楽部は、県大会へ向けたオーディションの日を迎える。地区大会を越えたからこそ、立場も実績も関係ない。求められるのは、ただひとつ。
——この舞台で鳴らせる「本当の音」。
それぞれの想いと緊張が交錯する中、選抜の時間が始まる。
音楽室には、いつもとは違う静けさがあった。
音がないのではない。
音を出す前の緊張が、空気として張り詰めている。
譜面台は整然と並び、椅子も揃えられている。部員たちはそれぞれの位置で楽器を構えながら、ほとんど口を開かない。
扉が開く音がして、瞬崎と瀬戸川、董白が入室した。
その一歩だけで、空気が引き締まる。
瞬崎は教壇の前に立ち、部員全員をゆっくりと見渡した。誰とも目を合わせないようでいて、全員を見ている。
「——お待たせしました」
短く区切ってから、言う。
「これより、県大会オーディションを開始します」
ごくり、と誰かが唾を飲み込む音がした。
瞬崎は続ける。
「ここまで、全員がよく努力してきたことは分かっています。地区大会を越えたことも、決して偶然ではありません」
一瞬、空気がわずかに緩む。だが、次の言葉が、それを許さなかった。
「ただし」
瞬崎の声は、低く、淡々としている。
「オーディションです。結果はフラットに見ます」
視線が動く。
「地区大会で出場した人が、今回外れる可能性もあります」
ざわ、と胸の奥が揺れる。
「逆に、地区大会で出られなかった人が、県大会メンバーに入ることもあります」
誰も否定できない。
それが、オーディションだ。
「だからこそ」
瞬崎は、間を置いた。
「皆さんの“本当の音”を聞かせてください。練習の成果でも、評価でもなく——今この瞬間の音です」
音楽室が、さらに静かになる。
そのとき。
「ちなみに」
少しだけ軽い声が割り込んだ。
董白が、腕を組んだまま笑う。
「今回は僕も、オーディションを聞かせてもらうからね〜」
一瞬、緊張の糸が揺れた。
だが、笑いは起きない。
冗談に聞こえるその言葉が、本気だと全員が分かっていたからだ。
瞬崎は何も言わず、軽くうなずいた。
音楽室は再び『試される場所』へと変わる。
最後に、ひとりが手を挙げた。
東堂だった。
音楽室の空気が、わずかに揺れる。
「……質問、いいですか?」
瞬崎はすぐに視線を向けた。
「どうぞ。東堂くん」
東堂は一度、喉を鳴らしてから言う。
「オーディションって……本当に、技術だけで決めるんですよね?」
一瞬、静寂。
誰もが、その答えを待っていた。
瞬崎は、間を置かずに答える。
「もちろんです」
短い返事だった。
「音程、リズム、音色、安定性。県大会の舞台で再現できるかどうか――それだけを見ます」
東堂は、少しだけ眉を下げる。
「じゃあ……今までの大会の実績とか、先輩後輩とか、そういうのは」
「関係ありません」
瞬崎は、きっぱりと言った。
「今日ここで出た音が、全てです」
その言葉に、逃げ道はなかった。
東堂は、ゆっくりとうなずく。
「……分かりました」
手を下ろし、前を向く。
瞬崎は全体を見渡し、最後に言った。
「改めて言います。これは、選抜です。遠慮も配慮もありません」
そして――
「では、始めましょう。オーディションの時間です」
バスパート教室。
普段よりも狭く感じる部屋に、重たい空気が溜まっていた。楽器ケースが床に並び、誰もが落ち着かない様子で座っている。
「……あー」
来島が椅子に深くもたれ、天井を見上げた。
「早く終わってくれー。マジで吐きそう」
弱音とも冗談ともつかない声。
永井が苦笑しながら言う。
「そんなこと言ってても始まらないでしょ。今回こそ、レギュラー目指して頑張ろうよ」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
「いや、気持ちは分かるんだけどさ」
桜咲が肩をすくめる。
「瞬崎先生、ほんと容赦ないからね。私なんて地区のオーディションは項目に書いてないとこまで突っ込まれて、ズタボロだったし」
思い出したのか、苦笑が混じる。
「うわ……それ聞くだけで胃が痛い」
来島が腹を押さえる。
「今回はさ」
香久山はチューバにオイルを差しながら言う。
「董白先生もいるだろ。あの人、何言い出すか分かんないぞ」
その言葉に、全員が一瞬黙った。軽口の裏に、本気の不安がある。
そのとき、遠くから音が聞こえた。
若田が顔を上げる。
「……トロンボーンだ」
全員が耳を澄ます。
「上手いな。東堂?それとも狩川?」
その名前が出た瞬間、来島の表情が歪む。
「……あの先輩、ほんと意味わかんねぇよ」
吐き捨てるように続けた。
「響殴るし」
「ヤマト再合奏のあれ、まだ引きずってるの?」
響が軽くツッコむ。
「当たり前だろ!」
来島が顔を上げる。
「あの先輩はおかしい!!!!」
「落ち着け」
香久山が即座に制する。
「今はオーディションに集中だ」
「あ、すみません」
その言葉に、教室の空気が再び引き締まった。
しばらくして、廊下の方から足音が近づいてきた。
扉が軽くノックされ、係の生徒が顔を出す。
「次、バスパートです。ユーフォからお願いします」
その一言で、空気が一段、重くなる。
「来たな……」
香久山が小さく息を吐いた。
若田がゆっくりと立ち上がる。
続いて桜咲、そして響も椅子から腰を上げた。
三人は視線を交わすことなく、黙ったまま教室を後にした。背中に残る視線と、これから鳴らす音の重さを背負いながら。
廊下に出ると、音楽室の方から人影が近づいてきた。
すれ違いざまに、その顔を見て、若田が息を止める。
東堂だった。
すでにオーディションを終えたらしく、トロンボーン片手に無言でこちらに向かってくる。
距離が縮まる。
そして――
東堂は、響の隣を通る瞬間。
わざとらしく、大きな舌打ちをした。
「……っ」
若田が反射的に声を上げる。
「おい、何やってるんだよ」
だが、東堂は足を止めない。
視線すら向けず、そのまま廊下の奥へと歩き去っていった。
残された空気だけが、冷えていく。
響は、何も言わなかった。
胸の奥で、嫌な感覚が蘇る。
――あの時。
低い声で告げられた言葉。
『お前が目障りなんだよ』
思い出したくもないはずの記憶が、音もなく浮かび上がる。
響は、無意識に視線を落とした。
床の線を見つめながら、何度か、静かに息を整える。
「……もうすぐです。行きましょう」
椅子に座る三人――若田、桜咲、そして響。音楽室前の廊下は、緊張で張りつめている。
「……最初は若田さんからですね」
係の生徒が呼び、若田がゆっくりと立ち上がり、音楽室に入っていく。
残された響と桜咲は、沈黙の中で互いを見つめる。
「……私、絶対響くんの方が上手いって思ってる」
桜咲が小さく、でも真剣な声で言った。
「瞬崎先生が上の学年だからって、選んでるかもしれないし」
響は、ただ静かに返す。
「……じゃあ、なんで桜咲先輩は選ばれてないんですか?」
桜咲は少し苦笑し、肩をすくめる。
「私は、その……下手だからさ」
その答えに、響は何も言わなかった。ただ、静かに息を整える。
廊下の空気は、さらに重くなっていく。
若田のオーディションは順調に進んでいった。指定された項目をひとつひとつ確実に吹きこなし、その音は迷いがなかった。やがて、若田が音楽室から出てきて、一言だけ残す。
「じゃ、お先に失礼」
その声とともに、次は桜咲が教室の中へ入っていく。
音楽室前に残された響は、ただ一人、椅子に腰掛けて座っている。
桜咲の演奏は、一見順調に思えた。だが、耳を澄ませば、ところどころ小さなミスが混じる音も聞こえる。
響は静かにその演奏を聴いていた。
やがて、音楽室の扉が開いた。
桜咲が、ゆっくりと外に出てくる。表情は穏やかだったが、どこか力が抜けているようにも見えた。
「……頑張って」
すれ違いざま、短くそう言って、桜咲は廊下の奥へと歩いていく。
それと同時に響は、静かに立ち上がる。
椅子がわずかに軋む音がして、廊下の空気が張り詰める。
一歩、また一歩。
音楽室の扉の前に立ち、深く息を吸う。
そして――
響は、その扉を開け、音楽室へと入室した。
いよいよ、オーディション本番だった。
音楽室の中央には、ぽつんと椅子が一つだけ置かれていた。壁際には瞬崎たち審査役が並び、室内は張り詰めた空気に包まれている。
響は一歩前に出て、軽く頭を下げた。
「一年、ユーフォニアムの月本響です。よろしくお願いします」
短く名乗ると、静かに椅子へと腰を下ろす。瞬崎が口を開いた。
「チューニングは大丈夫ですか?」
短く確認する視線が、響に向けられる。
「では、始めましょうか。まずは課題曲、CからDまで。お願いします」
董白は、瞬崎の隣で腕を組みながら、その音を聴いていた。表情は読めない。だが、視線だけは一音も逃さないように、響に向けられていた。
オーディションが終わった帰り道。
夕方の空は、いつの間にか茜色に染まっていた。校門を出て、自然と集まった六人が並んで歩く。
響、柊木、陽翔、奏多、来島、永井。
気がつけば、久しぶりの顔ぶれだった。
「……はぁ」
来島が大きく息を吐く。
「終わった……マジで終わった……」
「それ、さっきから三回目だけど」
奏多が苦笑しながらツッコむ。
「だってさ、吐きそうだったんだもん」
「分かるけど」
永井も肩を落とす。
「結果出るまで、落ち着かないよね」
この場にいる全員が、同じ気持ちだった。
「……響はどうだった?」
不意に、柊木が問いかける。全員の視線が、自然と響に集まった。
「……普通」
響は、短くそう答えた。
「普通って何だよ」
来島が眉をひそめる。
「いや、ほんとに」
響は苦笑する。
「良くも悪くも、いつも通り」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
沈黙の中で、靴音だけが続く。夕暮れの道を歩きながら、誰もがそれぞれの演奏を思い返していた。
柊木は、ホルンケースを胸に抱えたまま歩いていた。いつもより、ほんの少しだけ足取りが早い。
「柊木君、今日このあとレッスンあるんだっけ?」
永井が聞くと、柊木は軽くうなずいた。
「うん。夜から。間に合うように行かないと」
「相変わらずだなぁ」
来島が感心したように言う。
「当然だよ」
その声は、軽いけれど迷いがない。
「僕らは、全国を目指してるんだから」
当たり前のことを言うように、さらりと言った。
その言葉に、誰も茶化さなかった。
それだけ、この場にいる全員が分かっていたからだ。
響は、少しだけ視線を落としながら歩く。
(……こういう人がいるから、成り立つんだろうな)
誰かが突出しているだけじゃない。誰かが本気で積み上げているから、全体が前に進める。
そんな当たり前のことを、今さらのように実感する。
夕暮れから夜へと変わりかけた空の下、六人の足音は、同じ方向へと伸びていった。
オーディションの結果は、翌日の部活動で明らかになった。
音楽室には、前日と同じような、いや、それ以上に張り詰めた空気が漂っている。誰もが無言のまま、自分の楽器ケースを足元に置き、前を向いていた。
やがて、扉が開く。
瞬崎と、瀬戸川が入室した。瞬崎は全体を一度見渡すと、静かに口を開く。
「皆さん。昨日はオーディションお疲れ様でした。まず総評について」
それだけで、空気が一段、重くなる。
「全体として、地区大会のときよりも、確実にレベルは上がっています。基礎、表現、集中力――どれも、よく仕上げてきました」
肯定から始まる言葉に、誰も安堵はしない。
その先に続く“選別”を、全員が理解しているからだ。
「ですが」
瞬崎は一拍置いて、続ける。
「県大会は、人数も、音も、責任も、すべてが違います。それを理解しておいてください」
瞬崎が一歩下がる。
「では、結果を発表する。呼ばれたものは返事を」
前に出たのは、瀬戸川だった。そうして、名前が呼ばれていく。
地区大会から変わらず選ばれた者もいれば、呼ばれなくなった者もいる。逆に、新しく名前が読み上げられる者もいた。
瀬戸川は、感情を挟むことなく、まるで作業を進めるかのように、淡々と名前を読み上げていく。
「続いてバスクラリネット。三年、鷹野拾」
「はい」
「三年、振原美結」
「はい」
「バスクラリネットは以上二名」
陽翔の名前は、呼ばれなかった。
静かに、空気が沈む。
しばらくして、ファゴットの番。
「……続いてファゴット。二年、守田 木乃香」
「はい」
「一年、如月奏多」
「はい」
二人とも、合格だった。
「……続いてトロンボーン。三年、東堂成昭」
「はい!」
トロンボーンでは、真っ先に呼ばれたのは、東堂の名前だった。
ホルンも同じように名前が呼ばれていく。
「……一年、柊木真尋」
「はい!」
「ホルンは以上四名」
柊木は、地区大会と同様、問題なく選ばれた。
「……続いてユーフォニアム。三年、若田宗一郎」
「はい!」
「......二年、桜咲彩花」
「.........え?」
「ん?どうした、返事は!」
「は、はい!」
一拍置いて、
「一年、月本響」
「はい」
ユーフォは、三人全員が選出された。
そして――
「自由曲ソロは、三年、若田宗一郎だ」
わずかに、空気がざわめく。今回もソロは若田だった。瀬戸川は気にせず続ける。
「続いて、チューバ。三年、香久山大兎」
「はい!」
「二年、茅野砂漣」
名前は二つで止まった。
来島の名は、今回も呼ばれなかった。誰にも聞こえないぐらいの小さなため息を吐く。
そうして結果発表が終わり、音楽室には、言葉にならないざわめきだけが残っていた。喜びも、悔しさも、安堵も、不安も——誰もがそれを胸の内にしまい込んだまま、前を向いている。
瞬崎が、一歩前に出る。
「……以上が、今回の県大会メンバーです」
そう言ってから、少しだけ間を置いた。
「皆さんも分かっていると思いますが」
静かな声だった。
「県大会は、今週の土曜日です」
その一言で、現実がはっきりと突きつけられる。
残された時間は、もう多くない。
「選ばれた人も、選ばれなかった人も」
瞬崎の視線が、音楽室全体をなぞる。
「ここからどうするかは、皆さん次第です」
誰かを責めるでも、慰めるでもない。
ただ、事実だけを置く言葉。
「県大会に向けて、自分は何をすべきか。この部にいて、どんな音を出したいのか」
一拍。
そして、瞬崎は少しだけ声を強めた。
「今まで以上に考えて、行動してください」
最後に。
その場の空気をまとめるように、はっきりと言い切る。
「——みなさん、行きましょう」
視線が前を向く。
「県へ。東海へ」
そして。
「全国へ——」
結果が出たからといって、何かが終わったわけじゃない。ただ、立つ場所が少しだけ、はっきりしただけだ。選ばれた音も、選ばれなかった音も、どれも間違いじゃない。
でも——
鳴らす音には、責任がある。逃げられないし、ごまかせない。大会なら尚更。それでも。ここまで来た以上、前を向いて吹くしかない。
次は、県。
この音で、どこまで行けるのか。
自分自身に、確かめにいく。
感想、評価是非お願いします。
次回もお楽しみに!




