33話 最後に残る音
地区大会を経て、東縁高校吹奏楽部は県大会へ向かう。不安と期待が入り混じる中、先輩たちの言葉や小さな決意が、ひとつの道筋を照らす——
校門を出ると、夕方の空気が一段冷えていた。永井は少しだけ後ろを歩く。無意識に、半歩分。
「最近だいぶ静かだね」
前を歩きながら、今伊が言った。
「……オーディションも県大会もすぐそこですからね」
「ま、考えすぎても、音は良くならないって分かってるけど」
永井は苦笑した。
「でもそれが一番、難しいと思います」
しばらく並んで歩く。
信号待ちで立ち止まり、今伊が振り返った。
「オーディション、怖い?」
「いいえ」
即答だった。
「吹奏楽は中学校からやってました。でもその頃は、大会って聞くだけで、自分には場違いな気がしていた時期で。でも今は、今は自信を持って弾けます」
今伊は小さく息を吐く。
「ナーガフェスの時から、永井君てほんと変わったよね」
「先輩は……一年のとき、どうだったんですか」
「僕?」
今伊は少し考えてから言う。
「正直、上手い人間ばっかり見てた」
永井は顔を上げる。
「中でもさ……噂になるような音って、あるだろ」
「……あります」
永井は声を落とした。
「音で全部、持っていく人」
今伊は歩き出しながら言う。
「伝説級だな」
「そういうの、信じます?」
「信じない」
即答だった。
「でも、いたら厄介だとは思う」
永井はうなずいた。
「一緒に吹いてた人間が、自分の音を見失うって話、聞いたことあります」
「自分の音、か」
今伊は否定しない。
「三年になって分かったけど、それって“負けた音”の見え方なんだよ」
「負けた……」
「追いかけすぎると、自分の立つ場所が消える」
信号が青に変わる。
「だからさ」
横断歩道を渡りながら、今伊は言った。
「特別=正解じゃない。オーディションも大会も、最後に残るのは“自分の音”が残る人なんだと思う」
永井は足を止めそうになり、慌てて歩く。
「……もし、その特別が今、この部にいたら?」
今伊は少しだけ振り返った。
「そのときは」
一拍置いて、
「三年の僕達が、責任持って見る」
永井の胸が、わずかに熱くなった。
それでも——
頭の奥で、あの言葉が消えない。
音の彗星。
永井は何も言わず、夕焼けの空を見上げた。
公園のベンチに腰を下ろすと、久瀬は自販機で買ったスポーツドリンクのキャップをゆっくり開けた。
狩川はすでに半分ほど飲み終え、ベンチにもたれかかっている。
「……県大会か」
久瀬が、ぽつりと言った。
「大丈夫だって」
久瀬はラベルを指でなぞる。
「地区抜けたって言っても、県は別物でしょ?」
狩川は苦笑した。
「まあね。相手が一気に変わるから」
「都幾川、信濃明峰……」
久瀬は名前を並べる。
「それに、豊川」
その名前を出した瞬間、少しだけ間が空いた。
「……東海常連だもんね」
「何年も、当たり前みたいに」
久瀬は息を吐く。
「正直さ。本当に、私たち行けるのかなって思う」
狩川はジュースを一口飲んでから、横目で久瀬を見た。
「珍しいね。私が知ってる久瀬はそんな弱気じゃないと思うなぁ」
「弱気っていうか……現実見てるだけ」
久瀬は笑わない。
「地区は勢いで押し切れた。でも県は、“積み重ねてきた音”の量が違う」
狩川はしばらく黙ったあと、言った。
「でもさ」
「ん?」
「だからって、最初から負け前提になるのも違うでしょ?」
「分かってる」
久瀬は即答する。
「分かってるけど……怖いんだよ。私たちにはまだ“歴史”ってほどのものがないし」
風が吹き、木の葉が音を立てた。
「豊川とかさ」
久瀬は続ける。
「もう“音の出し方”が染みついてる感じするじゃん。ああいう学校と並んだとき、東縁ってどう見えるんだろうなって」
狩川は少し考えてから言った。
「挑戦者、でしょ」
「簡単に言うじゃん」
「簡単じゃないけどさ」
狩川は肩をすくめる。
「向こうが何年積んでようが、私たちは今年の音しか出せない」
「……それだけ?」
「それだけで、十分なときもある」
久瀬は視線を落とす。
「……それに、瞬崎先生が来てから確実に良くなったと思うよ。ナーガフェスも地区も。あと響君もだけど」
「あぁ、また響君の話。もう頭が痛くなる〜」
「そこ?」
「響君が凄いのはもう何回も聞いたよ」
視線を夕日に向け、久瀬は続けた。
「確かに響君はすごい。でも、“あの子一人で行った”って思われたくない」
狩川は小さく笑った。
「じゃあさ」
「?」
「私たちが、ちゃんと音出せばいい」
「雑じゃない?」
「シンプルでしょ」
狩川は立ち上がり、空の缶をゴミ箱に入れた。
「豊川だろうが東海だろうが、結局ステージに立つのは人間」
久瀬も立ち上がる。
「……そうだね」
完全に不安が消えたわけじゃない。それでも、久瀬の表情は少しだけ前を向いていた。
県大会までの距離は、まだ遠い。だが、もう目を逸らせるほど曖昧でもなかった。
「まさか、本当に行けちゃったりしてね、全国」
豊川高校の職員室前は、夕方の空気に包まれていた。
瞬崎は、軽く資料を手に持ち、整った廊下を歩く。今日は豊川高校で開催される、周辺地域の学校教員による定例職員会議に参加するためだった。
会議室に入ると、すでに各校の先生方が席についている。
木製のテーブルと椅子が整然と並ぶ、普通の会議室。
だが、どこか空気は引き締まっていた。
「瞬崎先生、お疲れさまです。こちらの席へどうぞ」
豊川高校の職員が、穏やかに案内する。瞬崎は小さく会釈して席に座った。資料を机に広げる。
会議が始まる。
議題は、地域校の連携、年度行事の調整、連絡事項——
表向きは普通の事務連絡だ。
「次年度の行事予定についてですが……」
「地域交流について、意見を伺いたく……」
話は淡々と進む。瞬崎は、淡々とメモを取り、必要な発言だけを短く返した。
特に目立つこともせず、だが沈黙を破ると、言葉には確かな重みがあった。
会議の中盤、休憩時間が入り、参加者たちは資料を整理しながら軽く雑談を交わす。
瞬崎も一息つき、窓の外の夕日を眺めた。
校舎の外には、静かな校庭。
遠くに聞こえるのは、夕方の風の音だけ。
職員会議が終わり、参加者たちが順次退出していく。瞬崎は資料をまとめる。
するとふと思い出したように歩き出した。
その先にいたのは1人の職員
「すみません。少しいいですか?」
振り返り笑顔で口を開いた。
「あ!瞬崎先生、お疲れ様でした。」
「あ、えっとー、お名前はなんでしたっけ?」
「おっとこれは失礼。改めて豊川高校吹奏楽顧部主顧問、荒鳥月世も申します。あと、地区大会突破、おめでとうございます」
「これはこれは、大変恐縮です。私もまだまだですから」
「瞬崎先生、何か用件ですか?」
瞬崎は資料を軽く示しながら言った。
「実は、県大会当日、本番前の東縁高校の練習に、そちらの音楽室をお借りできないかと思いまして……」
荒鳥は少し考え、職員たちの目線を避けながら瞬崎を見た。
「なるほど……県大会の本番前、ですか。練習時間は限られていますが……東縁高校のためなら、多少調整はできますが」
「本番前なので、音の出せる環境が必要なんです。他の部とぶつからないように、配慮していただけると助かります」
荒鳥は資料に目を落としながら、静かに頷く。
「...分かりました。では、練習時間と被らないようにしてみます。時間帯は……?」
瞬崎はカレンダーを示す。
「プログラム順は12番なので、そうですね......大会当日、午前中から正午までの間であれば助かります」
「あぁ、それなら大丈夫ですよ。ちょうどそのあたりは我々の本番の時間なので。どうぞ、自由に使ってもらって結構ですよ」
「ありがとうございます。本当に助かります」
瞬崎は深く頭を下げると、会議室を後にした。
廊下を歩きながら、心の中で静かに確認する。
これで県大会前の環境も整う。あとは東縁高校が、準備してきた力を本番で発揮するだけだ。
翌日の音楽室は、朝の光が柔らかく差し込んでいた。
瞬崎は譜面とプログラム表を手に、部員たちの前に立つ。
「まず、オーディションと県大会のプログラム順について話します」
部員たちはざわつきながらも、自然と席につく。
「まず、オーディション。明日の時間割と順番は以前渡した物の通りです」
紙を見ながら続ける。
「オーディション順も前回と同じです。各自、自分の演奏時間を意識して準備すること」
部員達は顔を見合わせて、小さくうなずく。久瀬も資料に目を通しながら、肩を少し落として深呼吸した。
狩川は軽く笑みを浮かべ、リラックスした様子を装う。
「県大会のプログラム順も確認します」
瞬崎は次のページをめくる。
「東縁高校は12番です。前後の学校の顔ぶれは以下の通り」
部員たちは順番を確認し、互いに視線を交わす。一瞬、緊張が走る。
「うわ、うちらの目の前都幾川じゃん」
「豊川は今回のも7番か」
瞬崎の声が空気を落ち着ける。
「大事なのは、出番の前後を気にして自分たちの音を崩さないこと。どんな順番であろうと、私たちの音を信じて演奏することです」
部員たちは静かにうなずく。
瞬崎は最後に、ゆっくりと目を巡らせる。
「各自、今日の練習はこのプログラム順を意識して行うこと。特に出番直前の準備、音の立ち上がり、全て確認しましょう」
「はい!!」
「では、練習を始めましょう。まずは10回ほど通します」
「はい!って、10回!?」
部員達の声が重なる。瞬崎は当たり前のような笑顔で返した。
「ええ、当然です。私達は全国金賞を目指すんですから」
董白はわざとらしく目を細める。
「瞬崎君、やっぱり容赦ないな」
「何か言いましたか?」
「イイエ、ナンデモアリマセン」
一瞬、部員達の間に笑いが起きる。
その笑いの余韻の中で、音楽室にはいつもの緊張と期待が静かに漂う。
それはオーディション、県大会へ向けた確かな一歩が、今、確かに刻まれていく。
そしてこれからも……
朝の光、夕暮れの空、そして音楽室に漂う緊張と期待。
小さな確認の積み重ねが、やがて大きな一歩へと変わる——
でも、これだけは知っていて欲しい。
音楽の神様は平気で裏切るんだと……
感想、評価是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




